圧倒的兵力で攻めた元の誤算
元が南宋を滅亡させてから3年、1281年に1000隻の元軍が出航します。その行き先は日本……フビライハンは2度目の日本征服計画を実行に移しました。40000人の兵力は文永の役に比べて10000人も多く、また南宋からは10万人以上の大軍団を日本に向けて出撃させました。
計画としては高麗軍を主力とした40000人の東路軍が先に出航、そして南宋軍を主力とした10万人の江南軍が出航、日本に上陸した後に壱岐島で合流して両軍で一気に大宰府を攻めるというものです。圧倒的な戦力で日本征服を狙った元の2度目の日本侵攻、これが1281年の弘安の役であり、文永の役とあわせて元寇と呼びます。
元が文永の役の3倍以上の兵力で臨んだ弘安の役でしたが、日本軍の防衛策に予想外の苦戦を強いられました。日本は元の再度の襲来に備えて防塁を完成させており、モンゴル帝国ならではの馬を使った戦術も封じられてしまったのです。さらに、元の誤算はそれだけではありませんでした。
元寇の決着
数で圧倒する元軍でしたが、肝心の兵は高麗や南宋の兵士が中心に集められており、元に敗北したこれらの国の兵はとても元のために命をかけた戦いができなかったでしょう。このため、日本を死守しようとする武士とは勝利にこだわる気持ちの強さに大きな差があったに違いありません。
さらに元軍を奈落の底に突き落としたのは台風の襲来で、7月という時期のため夜に大きな台風が襲来して元軍の誇る軍船を次々と沈没させていきました。「山の如し」と記されたこの台風は強大で、元軍は軍船同士が激突、無数の兵士が叫びながら溺死していったそうです。
想像以上に強力だった日本の防衛策、忠誠心の欠けた数だけの兵、台風の襲来……数々の誤算にさすがの最強モンゴル帝国・元もこれでは日本を制圧することはできません。文永の役に続いて弘安の役においても撤退を余儀なくされ、こうして日本は元の侵攻を見事打ち払って勝利したのです。
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