フビライハンが日本征服を表明
国書を無視した日本の対応、それは元の提案を拒否したことを意味します。国書には「従わない場合は兵を送る」とも記されており、日本の対応によって元が侵攻することは明白でした。もちろん無視を提案した北条時宗もそれは理解しており、そのため幕府は各地の神社仏閣に「敵国降伏」の祈願を行っています。
一方の元、フビライハンは日本征服を表明すると、その準備として侵攻ルートの調査など着々と計画を進めていきました。そして日本もまた宣戦布告されたことで守りを固めます。北条時宗は東国の御家人に対して九州で元軍の侵攻に対する守りを指示、さらに九州の悪党討伐、襲来時に船を停めるであろうとされる沿岸にも警備を設置しました。
1274年、日本征服を急ぐ元は高麗に船の建造を命じると、たった10ヶ月で合計900隻に及ぶ船を完成させます。こうして大艦隊を編成した元、さらに30000人もの兵を動員して万全の戦力で日本に向かって出発したのです。これを迎え撃つ日本は九州中心の武士を太宰府に集結させ、日本と元の戦いの時が迫ります。
赤坂の戦いと鳥飼潟の戦い
1274年10月5日、とうとう元軍が日本に到着して文永の役が始まります。対馬に上陸した元軍は対応した守護代・宗資国をいきなり攻撃するとたちまち制圧してしまいました。さらに壱岐島へと侵攻する元軍に日本軍も応戦しますが敵わず、壱岐の守護代・平景隆も敗北して自害します。
怒涛の攻撃で次々と日本を制圧していく元軍、しかし日本軍も元軍襲来の準備は整っており、九州に主力を集めていました。そんな九州・博多に上陸した元軍、待ち構える日本軍との本格的な戦いが始まります。博多に上陸した元軍はその西の赤坂に本陣を構えますが、肥後の御家人である菊池武房の軍勢がこれを征伐、これが赤坂の戦いです。
さらに福岡の麁原(そはら)に陣を構え直す元軍、肥後の御家人である竹崎季長の軍勢との戦闘になり元軍は逃走します。麁原から鳥飼潟まで逃れた元軍を追う竹崎季長、深追いしたことで逆に窮地に陥ってしまいますが、肥前の白石通泰らの軍勢が加勢して元軍に勝利、これが鳥飼潟の戦いです。
神風の説と真実
激しい戦いの末、日本軍を倒しきれない元軍は撤退を余儀なくされます。これについては当初台風の影響と説かれており、神風と呼ばれる暴風雨が元軍の船を沈めたために元軍が撤退したとされていましたが、近年では台風は起こっておらず、日本軍が戦闘で元軍を追い払ったと訂正されました。
この理由はいくつかあり、「高麗史」や「帝王編年記」や「五檀法日記」などの記述から台風による元軍撤退の事実が確認されなかったこと、気象学的に判断して、過去の統計から考えても文永の役の時期での台風は当時考えられなかったことなどが挙げられます。
こうして元軍は撤退、この1274年の元による日本侵攻を文永の役と呼ぶのです。ただ、日本は元軍を追い払うことには成功しましたが、完全に勝利したわけではありません。フビライハンは日本侵略を諦めておらず、再び日本侵攻する弘安の役が起こりますが、日本もまた元の再びの侵攻を予測していました。
元との再戦に向けた準備
元軍を追い払った幕府は元に対する逆襲を計画、それが高麗征伐計画でした。高麗は一見元と無関係に思えますが、元は高麗を倒したことで支配下に置いており、日本に攻めてきた元軍も正確には元と高麗の連合軍だったのです。しかし、日本は元の再びの襲来にも備える必要があり、そのため博多湾の沿岸一帯に防塁を築きました。
防塁とは土塁や石塁を平行線状に築いた防御構築物で、元の襲来のために備えたこの防塁は元寇防塁と呼ばれています。日本は高麗への侵攻だけでなくこうした防衛にも尽力しており、費用と人員の問題から高麗征伐は中止となりました。一方の元は、1275年に再び使節団を日本へと派遣しますが、対応した北条時宗が予想外の行動に出ます。
文永の役以前に使節団が訪れた時には国書を無視しましたが、今回は使者を捕えて連行するとその者達を斬首したのです。それを知ったフビライハンは日本に対して激怒、決着つかずの戦いを繰り返していた南宋の攻略にも成功すると、再びの日本征服の計画を本格的に進めていきました。
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