幕末日本史歴史江戸時代

建白書が正論すぎ&提出が早すぎた「長井雅楽」悲劇の長州藩重臣ついて歴女がわかりやすく解説

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雅楽と松下村塾派が対立する理由は
雅楽の航海縁遠略策は、吉田松陰の提唱した「大攘夷」と思想的には変わらないのに、松陰門下生の尊皇攘夷派とは対立関係に。

その理由としては、井伊直弼の安政の大獄で松陰が捕縛され、江戸行きが決まった旨を伝えたのが直目付の雅楽であったこと、松陰の江戸護送に対して、雅楽が強硬弁明も制止もしなかったことなどが、松陰門下生たち、特に久坂玄瑞の心象を一層悪くしているということで、雅楽は後に松陰の弟子の高杉晋作、久坂玄瑞や前原一誠らに暗殺を計画されることに。

また雅楽は、松陰の行動を「寅次(松陰)は破壊論者なり。国益を起こすの人にあらず」と激しく批判したが、松陰も長井を姑息な策を弄する奸臣と憎悪していたということで、久坂玄瑞は「八つ裂きにしても足りないが、格別の温情で家名断絶まではせずに、切腹を仰せつけられ候条、云々」という趣旨で、雅楽に対する弾劾状を書いたほど。

しかしながら、雅楽は松陰を危険視しつつ、嫌がらせめいた行為などは行っておらず、江戸での松陰の生活について、必要以上に詳細に幕府に報告、また申請書を提出しているなど、むしろ松陰本人を気遣った対応をしていたようで、後にこのことを知った松下村塾門下生は、雅楽の遺族を庇護したという後日談も。

3-1、雅楽の「航海遠略策」攘夷派のために破綻

しかし、文久2年(1862年)1月15日坂下門外の変が勃発、雅楽の航海遠略策の推進役であった老中安藤信正が失脚。雅楽は3月10日江戸を立ち京に上ったが、京都の情勢は前年とは違い、薩摩藩主の父島津久光が兵を引き連れて上京、攘夷運動を促進するという情報で朝廷でも尊攘派の動きが活発化していたということ。雅楽は3月18日、正式に朝廷へ航海遠略策を建白するが失敗に。さらに4月11日、久坂玄瑞が長州藩重役に対して12箇条からなる長井の弾劾書を提出。そして藩論の分裂を恐れた藩主毛利敬親は、雅楽に江戸帰府を命令し、雅楽は京を退去。

さらに久坂玄瑞らの公卿たちへの朝廷工作で、前年に雅楽が正親町三条実愛に提出した書面にあった、「朝廷御処置聊謗詞に似寄候儀も有之」などが朝廷誹謗と指摘されて、朝廷は5月5日、不快感を表したので、長州藩は朝廷に謝罪、6月5日には雅楽を中老職から罷免じて、長州に帰国させることに。

そして7月に入京した藩主毛利敬親は、重臣と相談の末、長州の藩論の航海遠略策から破約攘夷へ転換を決定。雅楽の政治工作は完全に破綻。幕府側でも、航海遠略策を支援していた久世広周は6月2日に罷免となり、朝廷側で主導した正親町三条実愛も、翌年に権大納言、議奏を辞職に。

3-2、雅楽、責任を取らされ切腹

雅楽は長州に帰国後に、藩政府から職を解かれ、長州藩の奸臣のレッテルを張られて、文久2年(1862年)11月に切腹を申し渡されました。雅楽本人もこの措置には納得せず、また雅楽を支持する藩士は多くいたし、なによりも藩主父子が、信頼する雅楽の切腹をなかなか認めず、特に雅楽が後見役を務めた世子の定広は、日常の食事も進まなくなるほどのショックだったということですが、藩論が二分されて内乱が起きることを憂いて切腹を受け入れたそう。

雅楽は高杉晋作の父小忠太とは、長年世子付の同役を務めた友人だったので、切腹の前日、小忠太へ身の潔白を訴え、自分の遺児の庇護を頼んだ長文の手紙を出して、末尾に「ぬれ衣のかかるうき身は数ならで唯思はるる国の行く末」と辞世の歌を残したということ。そして文久3年(1863年)2月6日に切腹、享年45歳

以後、長州藩は尊王攘夷の最過激派として、8月18日の政変まで京都政局を主導したが、その後薩英戦争や四国艦隊下関砲撃事件などを通じて攘夷の不可能性が明白となり、開国が不可避に。

明治になってから、かつては雅楽を激しく攻撃した尊王攘夷派の、初代外務大臣井上聞多(馨)などが、雅楽の名誉回復に尽力したそう。また、雅楽の没後百年目の昭和37年(1862年)、地元の萩では顕彰会も設立。

現実的な「航海遠略策」が、攘夷派の反発を買って悲劇に

長井雅楽は才気あふれる周布政之助と違い、重厚な考え深いタイプ、そして長州藩きっての名門の出身で藩主の信頼も厚いというバックもありました。

そして藩主に乞われてまとめた「航海遠略策」も、藩主が気に入り藩論とされ、さらに藩主命令で雅楽自身が江戸と京都を走り回って説いたところ、おおいに朝廷や幕府の賛同を得て、老中が藩主に国政参加を要請したくらい雅楽の持論はインパクトがあったということ、それに吉田松陰らが唱えたことと根本は同じの大正論。しかし時流の勢いが災いして、あろうことか自藩の攘夷派に暗殺を計画されるほど猛反発をくらい、賛同した老中の失脚から、反対派の工作であれよあれよと難癖付けられて却下となり、責任を取って切腹。

司馬遼太郎氏は坂本龍馬も同じ考えを持っていたが、この頃に発表すれば暗殺されることがわかっていたので、ぎりぎりまで黙っていた、雅楽は「航海遠略策」を発表するのが早すぎたと「世に棲む日日」で述べている通り、正論が受け入れられるのにもタイミングがあること、そして幕末の攘夷運動の異常なほどのエネルギーがわかるような事件ではあります。

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