

その辺のところを幕末に目のないあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。勤王、佐幕に関係なく明治維新に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、長井雅楽について、5分でわかるようにまとめた。
1-1、長井雅楽は、長州の生まれ

長井雅楽(ながいうた)文政2年(1819年)、長州(山口県)藩士大組士中老長井次郎右衛門泰憲の長男として誕生。母は福原利茂の娘。文政5年(1822年)父が病死後、4歳で家督を継いだが当主が幼少のためという理由で300石の家禄を半分に減らされたそう。
一般的な呼び名である雅楽は通称で、ほかには、与之助、与左衛門なども。諱は時庸(ときつね)。ここでは雅楽で統一。尚、長井家は主家毛利家の庶流安芸福原氏の一族、毛利家と同じ大江広元が祖先という毛利家家臣団の中でも名門。
1-2、雅楽、藩主の信頼篤く、藩の重役に昇進
雅楽は成長すると、藩校の明倫館(めいりんかん)で学んだが、かなり優秀だったので藩主の毛利敬親(もうりたかちか)の小姓から奥番頭となり、その後、世子の定広の後見人に抜擢され、安政5年(1858年)、39歳で長州藩の重役である直目付になり、後に外交役でもある政務役も兼任。
同じ年頃の周布政之助と並び、「二秀」と称されたということ。
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1-3、藩主の世子のお守役としての雅楽
世子定広は、毛利家支藩の徳山藩8代藩主毛利広鎮の10男で、本家の敬親の養子になったのは、嘉永5年(1852年)、14歳のとき。後見人で守役となった雅楽は、定広が前から欲しいといっていたおもちゃの弓を献上されて大喜びしたときに、それを取り上げて折ってしまい、「36万石の世子は、この程度の献上品でそんなに喜んではいけませぬぞ」と厳しく意見。
しかし、定広が退屈して障子を破ると、雅楽は「ネズミの仕業」と気付かぬふりをして張り替え、定広は、その翌日に障子を壊してしまったら、雅楽は「その御気性は頼もしゅうござる」とほめたので、その後定広は、障子を破ることはなかったそう。また、江戸の藩邸で安政大地震が起こったとき、雅楽は元徳を抱きかかえて脱出したということ。
2-1、雅楽、「航海遠略策」を藩主に提言、京都へ入説に

ペリーの黒船来航以来、国内で外交をめぐる政争が混とんとしていた文久元年(1861年)3月、藩主毛利敬親に乞われて、雅楽は「航海遠略策」を建白、これによれば朝廷は公武一和を推進したうえで、幕府に命じて艦船を建造させて、遠く海外への進出をめざすべきという開国論だったので、長州藩は3月28日にはこの「航海遠略策」を藩論とし、幕府にも建白して国政への進出を試みたということ。
そして3月30日、雅楽は藩の命令で、朝廷と幕府への周旋するために、4月29日に萩を発って5月12日に入京。雅楽はまず議奏の正親町三条実愛大納言に面会、攘夷開国の確執についてと、今となっては破約攘夷は不可能と論じたところ、正親町三条は雅楽に文書にして提出するよう言い、孝明天皇にも建白書を嘉納、6月2日、正親町三条は雅楽に孝明天皇の内意を伝えたが、建白書に目を通した孝明天皇も雅楽の論に満足されたということ。
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航海縁遠略策とは
雅楽の航海遠略策は、「外人を斬るなどの行為は小攘夷と呼ぶべき蛮行であり、むしろ積極的に開国を行い、進んだ技術を学び日本の国力を上げて諸外国と対等に渡り合うべき」とする大攘夷思想とも言われるもの。
その大意は「朝廷がしきりに幕府に要求しておられる破約攘夷は、世界の大勢に反していて、国際道義上も軍事的にも不可能と批判。そもそも鎖国は島原の乱を恐れた幕府が始めた高々300年の政策に過ぎず、皇国の旧法ではない。しかも洋夷は航海術を会得しているので、日本から攻撃しても何の益もないので、むしろ積極的に航海を行って通商で国力を高めて、皇威を海外に振るい、そして世界諸国(五大洲)を圧倒して、向こうから進んで日本へ貢ぎ物を捧げてくるように仕向けるべき。なので朝廷は一刻も早く鎖国攘夷を撤回して、広く航海して海外へ威信を知らしめるよう幕府へ命じるようにすれば、国論は統一されて政局も安定することになるだろう」という、とても現実的な考え方で真っ当な正論。
この論は、他にも佐久間象山、平野国臣ら先駆的な思想家も同じ主張をしていたが、具体的な建白書の形にして政治運動にまで盛り上げたのは雅楽が最初ということで、実は吉田松陰の「大攘夷」と基本的な考えは同じもの。
また鎖国については、この時代まで誰もが日本の国開白以来と思っていたのに、300年前に江戸幕府が始めたものというのも雅楽のこの建白書で明らかになり、人々を驚かせたということ。
2-2、雅楽、幕府へも入説

雅楽は、朝廷の賛同を得た後に幕府への入説のために6月2日に京都を発ち、14日に江戸到着。そして7月2日、世子毛利定広は老中久世広周に面会、雅楽の江戸上府の目的を告げた後の夕刻、雅楽が老中久世を訪問して陳述したところ、久世は大いに喜んだそう。さらに雅楽は8月3日、老中安藤信正に面会、安藤の同意も得たということ。
このとき、雅楽は「事の成否は御同列の存意次第に在り、誠に公武一和を希望せらるるならば、主人も周旋すべし」と、長州藩の周旋の意図を告げたということで、幕府は外様大名である長州藩に国事についての周旋を任せることに。
尚、雅楽は言葉で説くだけではなく、幕府にも朝廷にも金品を贈ってしっかりアピールしたということです。
2-3、雅楽、中老に昇格
そして雅楽は8月7日に江戸を出立、京都で正親町三条に状況を報告し、29日、萩へ帰着。雅楽の報告を受けた藩主毛利敬親は、自ら周旋に乗り出すため、11月13日に江戸参府へ、雅楽もお供して再び江戸へ行き、11月18日、藩主敬親は老中久世と安藤と会見、この席で老中は雅楽の意見どおりに今後、敬親と国事の相談をしたいと述べたそう。
12月8日、長州藩は幕府に対して、正式に航海遠略策の建白を提出、12月30日、老中久世は雅楽に公武の周旋を任せるという将軍家茂の内意を伝えたということ。これを受けた敬親は、雅楽を中老に昇格させて、再入説として再び京都に派遣、幕府も目付浅野氏祐を京都へ派遣し、所司代酒井忠義とともに雅楽を支援させたそう。
2-4、江戸の長州藩邸では、反雅楽派が台頭
雅楽の策は幕府や朝廷にも受け入れられ、藩主敬親も国政参加ということになったのですが、江戸の長州藩邸では反雅楽派の松下村塾門下生一派の桂小五郎、久坂玄瑞らの尊王攘夷派藩士たちが、雅楽の策は幕府の不平等条約締結の開国を是認するものだと破約攘夷を主張して大反対の立場。
雅楽と並んでの藩政の実力者で政務役の周布政之助(すふ)は、はじめは航海縁遠略策に賛同して、藩論決定に際しても藩議の起草を行ったが、文久元年(1861年)7月に上府してきてからは、在府中の久坂玄瑞らの説得で反対派に。そして航海遠略策を阻止するために、参府途上の藩主敬親を諫止すべく、9月7日に久坂玄瑞とともに江戸を発って西上したが、勝手に任地を離れたことで帰国を命じられて、翌年1月、20日間の逼塞に。
その後、雅楽と尊攘激派との対立は激化、この空気を読んだ「そうせい」公の藩主敬親も雅楽の策に消極的になったそう。
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