
2-3、周布、攘夷派に同意するも留学生も派遣
文久元年(1861年)周布は、藩論の主流となった長井雅楽の航海遠略策に対し、藩の経済政策の責任者として同意したが、翌年には、久坂玄瑞や木戸孝允(桂小五郎)らとともに藩是を「破約攘夷」に転換させて、尊王による挙国一致を目指したということ。周布は守旧派に抗して藩政改革の起爆剤とする意図があったそう。
また、その一方では、前年度、欧州視察に行かせた杉孫七郎の報告に基づき 文久3年(1864年)春、井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)、井上勝、山尾庸三、遠藤謹助等5人のイギリス留学を画策。周布は、高杉が汽船を買い入れたとき周旋した横浜の用達で伊豆倉の手代の佐藤貞次郎に、密航を頼んだということ。この5人は、横浜から外国船に乗りこむ前に、留学資金を送別会のどんちゃん騒ぎで使い果たしたので、世話役の大村益次郎が貞次郎に5千両を借りて出発させたそう。
それにしても、長州藩は国元でも京都でも攘夷で盛り上がっているときに、藩士を密航させてイギリス留学というのは、周布に先見の明があったということでは。
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2-4、周布、高杉晋作を上海に派遣
文久元年(1861年)夏頃、長井雅楽が公武一和に基づいて藩主に建白した「航海遠略策」(簡単に言えば、通商を行って国力を増した後に諸外国を圧倒するという大攘夷論といわれるもの)が藩論とされて盛んだったのですが、これがけしからんという高杉晋作と久坂玄瑞らが長井雅楽暗殺を計画。
それを知った桂小五郎(木戸孝允)が周布に、自分では止められないと相談、周布は高杉一人の気を変えさせれば久坂らは付いてくると、議論より策を用いることに。そして高杉に、長井雅楽暗殺計画をやめれば幕府からの上海派遣使節に随行させると提示、高杉が承諾して久坂を説得し、暗殺計画はなくなって高杉は上海へ派遣されることに。
3-1、周布の酒乱話
不明 – 山口県立山口博物館所蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる
周布は頭もよく度胸もあるが、おっちょこちょいで気が短いところもあり、お酒の失敗エピソードがいくつもあるのでご紹介しますね。
3-2、薩摩藩との融和もぶち壊しに
文久2年(1862年)6月の頃、元々ライバル意識を強く持っていた薩摩藩と長州藩でしたが、同月7日に幕政改革をめざす薩摩藩主の父島津久光が、勅使大原重徳に随従して江戸に到着。しかしその前日に、長州藩主毛利敬親が江戸を出立して京都へ向ったので、薩摩藩が不信感を募らせていたこともあり、融和策をと考えた長州藩江戸藩邸の重役たちは、13日に柳橋の料亭川長で会合を設けることに。
長州側は、周布政之助、小幡彦七、来島又兵衛が、薩摩藩は大久保利通、堀小太郎(伊地知貞馨)らが出席。この席上で、周布がもし自分に他意があれば切腹すると言ったところ、伊地知が、自分が介錯してやると言い返してバトル開始。そのときは大久保が一喝したが、宴もたけなわの頃、酔っ払った周布が大刀を抜いて立ち上がり、ぶんぶんと刀を振り回して剣舞を舞ったそう。来島又兵衛も刀をひきつけて一座をにらむわ、あの大久保が畳を引き剥がして掌上でまわすという畳踊りという芸を見せ、埃は舞うわ、芸者たちは逃げるわと修羅場になり、融和は失敗。
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3-3、土佐前藩主容堂に暴言を吐く
文久2年(1862年)11月5日、藩主毛利敬親の養女と土佐藩主山内豊範との結婚が決まり、攘夷別勅使三条実美と姉小路公知の到着で江戸が騒がしかった頃、土佐藩前藩主山内容堂は、勅使と一緒に江戸へやってきた長州藩世子毛利定広に招かれて、家老の小南五郎右衛門、側役の乾退助(板垣)らを連れて長州屋敷を訪問。
長州藩からは周布政之助、久坂玄瑞、山県半蔵らがこの酒宴に出席、酒が進むと、大酒飲みの容堂は、ひょうたんを逆さにした絵(上士と下士の力が逆になっているという意味)を書いて、「長州はこれだ」と、言い、その後容堂は、久坂玄瑞に詩吟を所望。久坂は、僧月照が村田清風に寄せた長歌を吟じたということで、「吾れ方外にてなお切歯す。廟堂の諸老公何ぞ遅疑するや」という箇所で、酔っ払った周布が「容堂公もまた廟堂の一老公」と指差して座を去るという無礼を働いたという話。
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3-4、高杉らの暴挙は制止されたが、周布が土佐藩とあわやの事件
薩摩藩主の父島津久光の行列が、イギリス人を殺傷した生麦事件で薩摩が先に攘夷を行ったとして、文久2年(1862年)11月12日、高杉晋作が久坂玄瑞、品川弥二郎、山尾庸三、寺島忠三郎、赤根武人、井上聞多(馨)ら10人と、横浜市の金沢まで行って、某国公使を斬る計画を立てたが、土佐の武市半平太端山がこのことを聞いて、土佐藩前藩主の容堂に密告。
容堂は長州藩世子毛利定弘に止めるように伝えたところ、世子自らが馬を飛ばして大森の梅屋敷に赴き、高杉らを説得して制止。高杉らが苦い顔で酒を飲んでいるところに、酒の入った周布がやってきて、さらに酒を飲みながら高杉に仕損じたなと言い、外国人の一人や二人切って震え上がらせればよかったのになどと暴言を吐いたそう。世子もあきれて立ち上がって外へ出たところ、容堂が派遣した山地忠七、(後に日清戦争で活躍)ら土佐藩士が数人いたが、周布としては容堂がいらんことをしたという気持ちで彼らに向かい、あろうことか容堂に対して暴言を吐いたので、主君の悪口に激昂して当然のごとく土佐藩士たちは抜刀、それを見た高杉が機転を利かせ、自分が周布を成敗すると刀を抜いたところ、周布の乗った馬の尻に当たって馬が駆け出し、周布はそのまま逃亡。
その後、藩邸へ帰った土佐藩士たちは、容堂にげきを飛ばされ、さらにけんか好きの乾退助(板垣)らも加わり、長州藩邸へ周布を斬ると駆け込み、長州藩邸は大騒ぎに。ここでは、来島又兵衛が平身低頭して謝り、大ごとなので世子とも相談してと土佐藩士たちを引き取らせたそう。
世子定広は、びっくり仰天して越前藩主の松平春嶽に調停を頼んだうえに、自らも土佐藩邸に赴いて、周布を手討ちにすると容堂に誠心誠意頭を下げて謝ったということ。
尚、この事件後、長州藩では周布は死んだということにされ、麻田公輔と改名。
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3-5、周布、高杉の獄舎を訪問して謹慎処分
元治元年(1864年)、周布は公用で萩に行き、土屋矢之助の宅を訪問、進められて酒をすごしたが、先に高杉晋作が獄に入れられたのは、自分が高杉に命じて来島の進発を止めさせたことからだと思い、何とかしてやろうという気持ちで泥酔状態で馬に乗って野山獄へ行ったそう。
そして獄舎の門が閉っていたので、馬上で抜刀して開門させ、獄舎に乗りこみ、「晋作、合点が行つたか、汝は平生から才を誇って人を軽んずるからこの如くになったのだ。その首、斬って冥土の土産にしようと思うたが、他日入用の事もあろうゆえ、持ち主に預けておく」と言い、高杉は「身から出たさびであるから仕方がない、ただ此の如き不忠者を君公(くんこう)が未だ見捨てていないことを有難く存ずるのみである」と答え、周布は更に大声で、「よしよし、獄中に三年も居って読書し、心胆を錬れ、このような困苦に堪えることが出来なくては、防長の政治はすることは出来ない。よく学問をして少し人物になって出て来い、藩存亡の危機を救えるのは、お前以外に誰がおる」と言うと、高杉は無言で涙を流したそう。
この暴挙で周布は50日の謹慎処分になったが、この頃の周布は、佐幕派には攻撃され、急進派の暴走は止められず、自殺も出来ず、辞職も止められるというどうしようもない状態で、謹慎をくらうためにわざとやった説あり。
4、周布の謹慎で、禁門の変へ暴走

周布の謹慎で、京都への進発論を止める者が一人もいなくなったため、長州藩士は禁門の変を起こしてしまい、久坂玄瑞、来島又兵衛らは討死し、真木和泉らは天王山に退いて自刃。謹慎中の周布は、あの時政庁にいたら進発させなかったと言い、 謹慎が解けた後に遺書を抱えて堺町まで行き後始末の周旋をするも、既に長州勢は朝敵に。また四カ国連合艦隊との戦争では、周布は清水清八郎と岩国に滞在中、下関で外国との講和が成立し、補佐として下関に直行。この時、交渉団とは意見が合わなかったそう。
この数か月の混乱で、周布の様子がおかしいということで、萩から妻子を呼んで監視させていたのだが、藩の実権も俗論派に握られてしまった周布は、責任をとって元治元年(1864年)9月、山口矢原(現山口市幸町)の庄屋吉富藤兵衛邸にて切腹、享年42歳。
あと数か月待っていれば、高杉が功山寺挙兵して政権を取り返していたこともあり、また、周布については明治時代になってからも、勝海舟が「維新前後の英傑といえば、まず長州の周布政之助が第一」と評し、桂小五郎(木戸孝允)は「周布政之助がもし生きていれば、明治政府の中心人物になったはずで、西郷隆盛、大久保利通と言えども右に出る者はいないだろう」と惜しまれます。
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高杉晋作ら、長州の尊皇攘夷派の若い藩士たちのよき理解者だった
周布政之助は、幕末の長州の爆発寸前の過激な志士たちの兄貴分として、高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎たちをかばったり、井上聞多や伊藤俊輔らをイギリス留学させたりと薩摩での小松帯刀や西郷隆盛の位置にいた人でしょう。周布がいなくては志士たちはやっていけなかったくらい、長州藩になくてはならない人。
また、自らの酒癖の悪さ、ほとんど酒乱の失敗で盛り上がった話で何度も登場するのですが、藩政改革を成功させた有能な人でありました。しかし、禁門の変後、長州征伐で幕府軍が攻めてくるわ、四国艦隊が攻撃してくるわという長州藩がカオスの時期に、責任を取って自刃、この人も明治後にまだまだ活躍したのではと残念です。