
その辺のところを幕末に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。勤王、佐幕に関係なく明治維新に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、周布政之助について、5分でわかるようにまとめた。
1-1、周布政之助は長州藩士の上士の生まれ

周布政之助(すふまさのすけ)は、文政6年(1823年)3月、長州藩大組周布兼正の5男として萩城下(山口県萩市)で誕生。母は村田伝左衛門信嘉の娘竹で、父と長兄が相次いで亡くなり、政之助は生後6か月で末期養子として家督相続したので、家禄を68石に減ぜられたということ。
尚、政之助は通称、諱は兼翼(かねすけ)。また変名として、麻田公輔、松岡敬助など。ここでは周布で統一。周布氏は益田氏の支流で、近世以降、代々長州藩毛利家に仕えた上士の家柄。
1-2、周布、若くして藩政に関わり藩政改革を

周布は藩校明倫館で学び、弘化3年(1846年)、23歳になると、来原良蔵や松島剛蔵ら有志とともに嚶鳴社を結成して時事を討議するようになったが、弾圧されずに、弘化4年(1847年)には、祐筆椋梨藤太の添役、蔵元検使暫役として抜擢され、嘉永6年(1853年)政務座役(右筆)筆頭に昇進。
周布は天保の藩政改革を行った家老村田清風の影響を受けていたので、この抜擢は村田の政敵である坪井九右衛門派の椋梨との連立政権という意味があったそう。周布は、財政再建や軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力、また桂小五郎や高杉晋作ら、吉田松陰の門下を登用。しかし相州防備のために藩財政が悪化して失脚。周布に代わって藩政権を握った坪井派が、京都と長州の交易を推進したことがもとで藩内の会所で妨害工作などが発生して失敗したため、周布は安政5年(1858年)に再び政務座役に返り咲き、安政改革を推進、人材登用、洋式軍事改革などを行って、朝廷に忠節、幕府に信義、祖先に孝道という「藩是三大綱」を確定。
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2-1、周布、31歳で政務役筆頭に
嘉永5年(1852年)、周布は政務役に抜擢されて藩財政を立て直し、藩の年間予算の24倍の借金9万銀を5年で3万銀に減らすなどの貢献をし、新産業のための特別会計として備蓄。嘉永6年(1853年)6月、ペリーの黒船が浦賀に来航して日本に開国をせまり、開港か攘夷で騒然とするなか、9月に、周布は政務役筆頭に。吉田松陰は、周布が政務役となったときには同志が藩政府の重鎮になったので近時の一快事だと手記に書いたそう。
2-2、周布、安政の大獄で松陰の処分に悩む
安政5年(1858年)、安政の大獄が起こったとき、松陰は過激の公卿、大原三位等と気脈を通じて問部(まなべ)老中を要撃しようと計画したが、周布は驚いて松陰に、みだりに暴動をおこすなと戒めたが、松陰は、血盟の士17名を得て上洛、事を起こそうとして、周布に計画を提出して許可を得ようとしたので、松陰らの暴挙をおそれて帰国を命じたということ。
松陰は怒って周布に政務をしりぞくべきと迫るので、松陰を叔父玉木文之進の家に預けたが、松陰はまだ過激なことを言うもので野山獄に。周布は松陰の嫌疑を解くため幕府に対して努力、また木戸孝允、久坂等に県議が及ばないように対策をとったということ。
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