
討幕派の次なる一手
徳川慶喜が大政奉還を行ったことで討幕の密勅の実行は延期、つまり討幕は失敗に終わってしまい、しかも徳川慶喜は未だ政治を続けている状態です。この現状を良しとしないのが討幕派……すなわち薩摩藩や長州藩や岩倉具視であり、何も変わっていない現状を変えなければならないと考えます。
そこで次の手として打ったのが王政復古の大号令、1868年に岩倉具視が新政権の樹立を突如宣言したのです。その内容は明らかに徳川慶喜の排除を狙ったものであり、「京都守護職の廃止」や「幕府の廃止」に加えて「将軍職辞職の許可」も含まれていました。
幕府はもちろん、それに関わる職も廃止したことで徳川慶喜……正確にはこれまで幕府が代々行ってきたものを全て廃止して、新政権の文字どおり全く新しい政治形態を作ろうとしたのです。さらに追い打ちをかけるため小御所会議を開催、その中で徳川家の辞官納地(役職を辞職して領地を天皇に返納すること)を強引に決定しました。
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江戸幕府の最後・戊辰戦争
王政復古の大号令は徳川慶喜の政治的権限を全て失う内容になっており、さらに辞官納地は徳川慶喜の財産を全て失う内容です。これらが全て実行されてしまえば完全な骨抜き状態、今度こそ終わりかと思われた徳川慶喜でしたが、この期に及んでまたも知恵を振り絞ってこの危機からの脱出を考えました。
まず幕府を守る側についていた公家達を頼って王政復古の大号令の撤回を要求、さらにアメリカやイギリスやフランスなど海外の大きな国を味方につけることに成功します。こうして再び窮地を回避しつつある徳川慶喜、こうなると薩摩藩らが徳川慶喜を排除するには当初の討幕計画どおり武力を使って倒すしか方法はありません。
そして、その末に起こった戦争こそ1868年の戊辰戦争であり、徳川慶喜を散々挑発したことで開戦、1869年まで続いたこの戦争によって徳川慶喜は完全に政治の世界から排除されました。そして、武家政権は終わって明治政府による新たな政治の時代が幕を開けるのでした。
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討幕の密勅をマスターするなら1853年~1868年の歴史を学ぼう
「幕府を討て」を意味する討幕の密勅、重要なのはそうなったいきさつであり、またその結果です。いきさつについては過去に遡って勉強する必要がありますが、これは江戸幕府の信頼低下のきっかけとなる1853年のペリーの黒船来航まで戻ると良いでしょう。
次に結果ですが、討幕の密勅自体は失敗に終わっています。ただ、次なる一手である王政復古の大号令や小御所会議、そして戊辰戦争の勃発まで覚える必要があり、つまり範囲として1853年~1868年までの歴史を勉強してください。