
雄藩同士が手を組んだ脅威の薩長同盟
雄藩である薩摩藩と長州藩、状況として深刻なのは長州藩でした。禁門の変によって京都を追放された長州藩は朝敵とみなされており、そのため幕府による長州征討で攻撃され、さらに下関戦争に敗北したことで滅亡の危機にまで陥っていたのです。また、朝敵である長州藩は武器の購入もできず、現状とても戦える状態ではありませんでした。
一方、薩摩藩は薩英戦争で勝利できなかったものの、敗北もせず戦い続けたことでイギリスに認められた存在となります。このため戦争後はイギリスとの交流が生まれ、外国の最新武器を購入できる状態にありました。そんな中、坂本龍馬は自らが設立した貿易会社を通じて両藩の仲介役を務めます。
長州藩から購入した米を薩摩藩に渡し、薩摩藩から購入した最新武器を長州藩に渡す、こうすることで薩摩藩と長州藩の関係修復に励み、1866年に見事それが実現したのです。薩摩藩と長州藩の間で結ばれた薩長同盟、雄藩同士が手を組んだことで政治面・軍事面においても討幕を可能とするほどの力がありました。
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張子の虎状態の武力が露わになった幕府
薩長同盟の締結によって日本では討幕ムードが高まります。そんな中、幕府は第二次の長州征討を行いますが、以前と違って最新武器を手にした長州藩は幕府に劣らない力を発揮、互角どころか戦いを優位に進めて幕府の長州征討を失敗に終わらせました。
雄藩とは言え、日本を統治する幕府が1つの藩に敗北したことは人々に衝撃を与えた上、同時に幕府の武力が虚勢を張るだけの張子の虎に等しい状態であることが露わになったでしょう。既に幕府は薩摩藩と長州藩に干渉できるほどの力はありません。それどころか、討幕可能を現実に示してしまったことで江戸幕府は滅亡に向かっていくのでした。
さらに、薩摩藩と長州藩は公家の岩倉具視と手を組みます。岩倉具視は朝廷の人間ですから政治力が高く、そのため有力な公家を動かす力を持っていました。そして薩摩藩と長州藩と岩倉具視、藩からも朝廷からも討幕ムードが高まる中でとうとう討幕の密勅が出されたのです。
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薩摩藩と長州藩に下された討幕の密勅
討幕ムードが高まる中、1867年にとうとう討幕の密勅が下されます。それは薩摩藩と長州藩に秘密裏で下されており、詔書には次のことが記されていました。「徳川慶喜は善良な人々を殺傷している」、「徳川慶喜は天皇の命令を無視する」、「徳川慶喜を放置すれば日本は滅びる」、「この命令の書を受け取った者は速やかに徳川慶喜を討伐せよ」などの内容です。
ただ、この密勅には不自然な点が多く、偽造したものではないかという説もあります。例えば、普通なら直筆で太政官の主要構成員の署名がなされているのにそれがなされていないなど、仮にこの密勅が正式なものなら、異例とも言えるほど不自然な形式になっているのです。
確かに、公家の岩倉具視が討幕に加担している以上、討幕の密勅が偽造されたものだった可能性は充分あるでしょう。最も、それが本物だろうと偽造だろうと討幕の密勅が下されたことに変わりなく、戦っても勝ち目がない徳川慶喜にとってこれは一大事、そこで徳川慶喜は予想外の行動に出たのです。
一枚上手な徳川慶喜
討幕の密勅が下されたことで薩摩藩と長州藩は幕府と戦う準備を進めていましたが、徳川慶喜はただちに大政奉還を行って政権を天皇へと返上、自ら幕府をたたんでしまいます。討つべき幕府がなくなったことで討幕の密勅は意味をなさず、武力行動は中止せざるを得なくなりました。
薩摩藩と長州藩と岩倉具視にとってまさに不戦勝、結果的には尊王の思想どおり朝廷の天皇による政治が実現しますが、ここで一枚上手だったのは徳川慶喜です。と言うのも、徳川慶喜は例え幕府を失ったとしても政治の権限は失わない自信があったからで、討たれることなく政治を続けられる手段として大政奉還を選んだのでした。
何しろ、今後政治を行う明治天皇は確かに人気はあっても政治の腕は全くの素人になります。代々徳川の征夷大将軍が政治を行ってきたため、朝廷や明治天皇ではとても政治はできないだろうと読んだのです。そしてその読みは見事的中し、大政奉還を行った以降も徳川慶喜は政治の主導権を握り続けることに成功しました。
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