今日は討幕の密勅について勉強していきます。江戸時代末期の幕末、天皇より薩摩藩と長州藩の元に「徳川慶喜を討伐せよ」の命令が記された文書……いわゆる詔書が下された。

一体なぜ朝廷が幕府の徳川慶喜を捨て置けなくなったのか、江戸時代を辿っていけばその答えはハッキリと分かるでしょう。今回は討幕の密勅について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から討幕の密勅をわかりやすくまとめた。

日米修好通商条約が招いた人々の不満と攘夷

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幕府の信頼低下のきっかけとなったペリーの黒船

1867年、薩摩藩と長州藩の元に勅書が下されます。勅書とは天皇の命令を伝える文書であり、その勅書こそ討幕の密勅でした。「幕府を討つ」の言葉から分かるとおり討幕の密勅とは「武力によって幕府を討て」の命令文書、そして当時将軍に就いていたのが15代目征夷大将軍・徳川慶喜です。

しかし、1603年に開かれて実に250年以上も続いてきた江戸幕府になぜ討幕の命令が下されたのでしょうか。そのきっかけとなったのが1853年のペリーの黒船来航で、これまで鎖国を守ってきた日本にとって見たこともないほど巨大な黒船の技術と迫力は圧倒的なものであり、日本を統治する幕府にも衝撃と恐怖を与えました。

来航したペリーは日本に対して開国を要求、日本は翌1854年にその要求を受け入れ、これまで続けてきた対外政策に終止符を打って下田と箱館の港を開港、アメリカとの間に日米和親条約を結びます。そしてこれをきっかけにさらに4年後の1858年、今度はアメリカのハリスと日米修好通商条約を結びますが、この条約締結が大きな問題となりました

活発化する攘夷運動

日本で最も尊敬されている存在、それは天皇に違いないですが、実質政治は朝廷ではなく幕府が行っており、ハリスとの交渉も幕府が担当していました。ただ、日米修好通商条約は日本にとって不平等条約であり、そのため条約締結は明らかに不利益なものだったのです。

しかしその相手は圧倒的な力を持つアメリカ、条約締結の調印の許可を天皇は下さなかったものの、対応した幕府はやむを得ず天皇に無許可で条約締結を調印してしまいます。案の定人々の暮らしは苦しくなり、そのため日本では外国人を追い払う攘夷運動が活発化、また不平等条約にこともあろうに天皇に無許可で調印した幕府に対しても人々は不満を高めていました。

さて、攘夷運動に特に積極的だったのが長州藩です。長州藩は幕府や朝廷にも攘夷を働きかけ、外国を嫌ってその決行を待ち望んでいました。一方、薩摩藩も1862年の生麦事件でイギリス人を殺傷したことからイギリスと揉めており、雄藩(勢力の強い藩)とされる薩摩藩・長州藩がいずれも外国と戦う姿勢を見せていたのです。

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攘夷の断念と討幕への道

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薩摩藩と長州藩を退けた外国の軍事力

1863年3月のこと、14代目将軍・徳川家茂は攘夷決行の圧力に悩まされていました。何しろ幕府は外国の圧倒的な軍事力の高さを知っており、戦いたくないというのが本音です。しかし「攘夷をしろ」の声が幕府に対して挙がる中、幕府の威信にかけてそれを無視するわけにもいきません。

また当時天皇だった孝明天皇も攘夷論を掲げており、そのため徳川家茂は仕方なく攘夷決行の約束をしたのです。これに気持ちを高めたのが長州藩と薩摩藩、なぜなら幕府が攘夷決行を公言したことで外国と戦う正当な理由ができたわけですからね。しかし、徳川家茂はこの約束を守る考えはなく、幕府だけでなく多くの藩が攘夷実行に参加しませんでした。

一方、恐れを知らない長州藩と薩摩藩は公言に基づいて堂々と攘夷を決行、その結果それぞれの藩は外国の報復を受けてしまいます。長州藩は下関戦争で敗北、薩摩藩は薩英戦争で痛い目に遭い、日本の雄藩が外国を倒せなかったことは、すなわち攘夷の不可能を意味するのでした。

尊王攘夷から討幕へ

外国の強さを実感した薩摩藩と長州藩は攘夷は不可能だと悟り、このままでは日本は外国と対等な関係を築けず、打開するためには今の政治形態を変えなければならないと考えます。当時日本には政治の形態として2つの思想があり、1つが朝廷と幕府が協力して政治を行う「公武合体」、もう1つが天皇中心で政治を行う「尊王攘夷」です。

しかし攘夷は不可能、一方で幕府を倒せるのではないかと考える人が増え、ここに「討幕」という新たな考えが生まれます。1858年の日米修好通商条約を無勅許で調印して以来、幕府に対する風当たりは強く、さらに安政の大獄で尊王攘夷派を一方的に弾圧したことなどから、既に幕府は信頼を失っていたのです

とは言え幕府は幕府、戦っても一藩の力で容易に勝てる相手ではありません。雄藩の薩摩藩と長州藩が団結すればそれも可能かもしれませんが両藩は犬猿の仲であり、お互い協力するとは思えません。しかし、その不可能を可能にした人物が現れ、その人物というのが坂本龍馬でした。

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薩長同盟の締結と衰退する幕府

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雄藩同士が手を組んだ脅威の薩長同盟

雄藩である薩摩藩と長州藩、状況として深刻なのは長州藩でした。禁門の変によって京都を追放された長州藩は朝敵とみなされており、そのため幕府による長州征討で攻撃され、さらに下関戦争に敗北したことで滅亡の危機にまで陥っていたのです。また、朝敵である長州藩は武器の購入もできず、現状とても戦える状態ではありませんでした。

一方、薩摩藩は薩英戦争で勝利できなかったものの、敗北もせず戦い続けたことでイギリスに認められた存在となります。このため戦争後はイギリスとの交流が生まれ、外国の最新武器を購入できる状態にありました。そんな中、坂本龍馬は自らが設立した貿易会社を通じて両藩の仲介役を務めます。

長州藩から購入した米を薩摩藩に渡し、薩摩藩から購入した最新武器を長州藩に渡す、こうすることで薩摩藩と長州藩の関係修復に励み、1866年に見事それが実現したのです。薩摩藩と長州藩の間で結ばれた薩長同盟、雄藩同士が手を組んだことで政治面・軍事面においても討幕を可能とするほどの力がありました。

張子の虎状態の武力が露わになった幕府

薩長同盟の締結によって日本では討幕ムードが高まります。そんな中、幕府は第二次の長州征討を行いますが、以前と違って最新武器を手にした長州藩は幕府に劣らない力を発揮、互角どころか戦いを優位に進めて幕府の長州征討を失敗に終わらせました

雄藩とは言え、日本を統治する幕府が1つの藩に敗北したことは人々に衝撃を与えた上、同時に幕府の武力が虚勢を張るだけの張子の虎に等しい状態であることが露わになったでしょう。既に幕府は薩摩藩と長州藩に干渉できるほどの力はありません。それどころか、討幕可能を現実に示してしまったことで江戸幕府は滅亡に向かっていくのでした

さらに、薩摩藩と長州藩は公家の岩倉具視と手を組みます。岩倉具視は朝廷の人間ですから政治力が高く、そのため有力な公家を動かす力を持っていました。そして薩摩藩と長州藩と岩倉具視、藩からも朝廷からも討幕ムードが高まる中でとうとう討幕の密勅が出されたのです。

討幕の密勅に対する徳川慶喜の見事な動き

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薩摩藩と長州藩に下された討幕の密勅

討幕ムードが高まる中、1867年にとうとう討幕の密勅が下されます。それは薩摩藩と長州藩に秘密裏で下されており、詔書には次のことが記されていました。「徳川慶喜は善良な人々を殺傷している」、「徳川慶喜は天皇の命令を無視する」、「徳川慶喜を放置すれば日本は滅びる」、「この命令の書を受け取った者は速やかに徳川慶喜を討伐せよ」などの内容です。

ただ、この密勅には不自然な点が多く、偽造したものではないかという説もあります。例えば、普通なら直筆で太政官の主要構成員の署名がなされているのにそれがなされていないなど、仮にこの密勅が正式なものなら、異例とも言えるほど不自然な形式になっているのです。

確かに、公家の岩倉具視が討幕に加担している以上、討幕の密勅が偽造されたものだった可能性は充分あるでしょう。最も、それが本物だろうと偽造だろうと討幕の密勅が下されたことに変わりなく、戦っても勝ち目がない徳川慶喜にとってこれは一大事、そこで徳川慶喜は予想外の行動に出たのです。

一枚上手な徳川慶喜

討幕の密勅が下されたことで薩摩藩と長州藩は幕府と戦う準備を進めていましたが、徳川慶喜はただちに大政奉還を行って政権を天皇へと返上、自ら幕府をたたんでしまいます。討つべき幕府がなくなったことで討幕の密勅は意味をなさず、武力行動は中止せざるを得なくなりました

薩摩藩と長州藩と岩倉具視にとってまさに不戦勝、結果的には尊王の思想どおり朝廷の天皇による政治が実現しますが、ここで一枚上手だったのは徳川慶喜です。と言うのも、徳川慶喜は例え幕府を失ったとしても政治の権限は失わない自信があったからで、討たれることなく政治を続けられる手段として大政奉還を選んだのでした。

何しろ、今後政治を行う明治天皇は確かに人気はあっても政治の腕は全くの素人になります。代々徳川の征夷大将軍が政治を行ってきたため、朝廷や明治天皇ではとても政治はできないだろうと読んだのです。そしてその読みは見事的中し、大政奉還を行った以降も徳川慶喜は政治の主導権を握り続けることに成功しました。

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明治時代の幕開け

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討幕派の次なる一手

徳川慶喜が大政奉還を行ったことで討幕の密勅の実行は延期、つまり討幕は失敗に終わってしまい、しかも徳川慶喜は未だ政治を続けている状態です。この現状を良しとしないのが討幕派……すなわち薩摩藩や長州藩や岩倉具視であり、何も変わっていない現状を変えなければならないと考えます。

そこで次の手として打ったのが王政復古の大号令、1868年に岩倉具視が新政権の樹立を突如宣言したのです。その内容は明らかに徳川慶喜の排除を狙ったものであり、「京都守護職の廃止」や「幕府の廃止」に加えて「将軍職辞職の許可」も含まれていました。

幕府はもちろん、それに関わる職も廃止したことで徳川慶喜……正確にはこれまで幕府が代々行ってきたものを全て廃止して、新政権の文字どおり全く新しい政治形態を作ろうとしたのです。さらに追い打ちをかけるため小御所会議を開催、その中で徳川家の辞官納地(役職を辞職して領地を天皇に返納すること)を強引に決定しました。

江戸幕府の最後・戊辰戦争

王政復古の大号令は徳川慶喜の政治的権限を全て失う内容になっており、さらに辞官納地は徳川慶喜の財産を全て失う内容です。これらが全て実行されてしまえば完全な骨抜き状態、今度こそ終わりかと思われた徳川慶喜でしたが、この期に及んでまたも知恵を振り絞ってこの危機からの脱出を考えました。

まず幕府を守る側についていた公家達を頼って王政復古の大号令の撤回を要求、さらにアメリカやイギリスやフランスなど海外の大きな国を味方につけることに成功します。こうして再び窮地を回避しつつある徳川慶喜、こうなると薩摩藩らが徳川慶喜を排除するには当初の討幕計画どおり武力を使って倒すしか方法はありません

そして、その末に起こった戦争こそ1868年の戊辰戦争であり、徳川慶喜を散々挑発したことで開戦、1869年まで続いたこの戦争によって徳川慶喜は完全に政治の世界から排除されました。そして、武家政権は終わって明治政府による新たな政治の時代が幕を開けるのでした。

討幕の密勅をマスターするなら1853年~1868年の歴史を学ぼう

「幕府を討て」を意味する討幕の密勅、重要なのはそうなったいきさつであり、またその結果です。いきさつについては過去に遡って勉強する必要がありますが、これは江戸幕府の信頼低下のきっかけとなる1853年のペリーの黒船来航まで戻ると良いでしょう。

次に結果ですが、討幕の密勅自体は失敗に終わっています。ただ、次なる一手である王政復古の大号令や小御所会議、そして戊辰戦争の勃発まで覚える必要があり、つまり範囲として1853年~1868年までの歴史を勉強してください。

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幕末日本史歴史江戸時代

「幕府を討て」の命令下る!「討幕の密勅」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は討幕の密勅について勉強していきます。江戸時代末期の幕末、天皇より薩摩藩と長州藩の元に「徳川慶喜を討伐せよ」の命令が記された文書……いわゆる詔書が下された。

一体なぜ朝廷が幕府の徳川慶喜を捨て置けなくなったのか、江戸時代を辿っていけばその答えはハッキリと分かるでしょう。今回は討幕の密勅について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から討幕の密勅をわかりやすくまとめた。

日米修好通商条約が招いた人々の不満と攘夷

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幕府の信頼低下のきっかけとなったペリーの黒船

1867年、薩摩藩と長州藩の元に勅書が下されます。勅書とは天皇の命令を伝える文書であり、その勅書こそ討幕の密勅でした。「幕府を討つ」の言葉から分かるとおり討幕の密勅とは「武力によって幕府を討て」の命令文書、そして当時将軍に就いていたのが15代目征夷大将軍・徳川慶喜です。

しかし、1603年に開かれて実に250年以上も続いてきた江戸幕府になぜ討幕の命令が下されたのでしょうか。そのきっかけとなったのが1853年のペリーの黒船来航で、これまで鎖国を守ってきた日本にとって見たこともないほど巨大な黒船の技術と迫力は圧倒的なものであり、日本を統治する幕府にも衝撃と恐怖を与えました。

来航したペリーは日本に対して開国を要求、日本は翌1854年にその要求を受け入れ、これまで続けてきた対外政策に終止符を打って下田と箱館の港を開港、アメリカとの間に日米和親条約を結びます。そしてこれをきっかけにさらに4年後の1858年、今度はアメリカのハリスと日米修好通商条約を結びますが、この条約締結が大きな問題となりました

活発化する攘夷運動

日本で最も尊敬されている存在、それは天皇に違いないですが、実質政治は朝廷ではなく幕府が行っており、ハリスとの交渉も幕府が担当していました。ただ、日米修好通商条約は日本にとって不平等条約であり、そのため条約締結は明らかに不利益なものだったのです。

しかしその相手は圧倒的な力を持つアメリカ、条約締結の調印の許可を天皇は下さなかったものの、対応した幕府はやむを得ず天皇に無許可で条約締結を調印してしまいます。案の定人々の暮らしは苦しくなり、そのため日本では外国人を追い払う攘夷運動が活発化、また不平等条約にこともあろうに天皇に無許可で調印した幕府に対しても人々は不満を高めていました。

さて、攘夷運動に特に積極的だったのが長州藩です。長州藩は幕府や朝廷にも攘夷を働きかけ、外国を嫌ってその決行を待ち望んでいました。一方、薩摩藩も1862年の生麦事件でイギリス人を殺傷したことからイギリスと揉めており、雄藩(勢力の強い藩)とされる薩摩藩・長州藩がいずれも外国と戦う姿勢を見せていたのです。

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