
3-5、能狂言に夢中だった
信忠は父信長に忠実な息子だったが、「敦盛」などの幸若舞を好んだ信長に対して、信忠は能狂言が大好きで、徳川家康を通じて稀少な世阿弥の著作を入手したほど。また、伊勢松島では群集を前に能を演じたなど、信忠の能の腕は「手前見事」と評される腕前。しかし信長は、信忠が能を好むことを嫌って、「およそ舞楽は金銀の無駄であり、家業を忘れ、国が乱れる元」と言って天正8年(1580年)に信忠から能道具を取り上げて謹慎させたそう。
3-6、本能寺での信長の言葉の意味
「三河物語」では、本能寺で軍勢が取り囲んだことに気が付いた信長は、「城介がべつしんか(信忠の官名)謀反か」だったとされているが、著者の大久保忠教は京都におらずまた聞きで信ぴょう性がない、逆に自分に謀反を起こせるようなガッツのある武将は信忠しかいないと思っていたとか、前日に信忠と珍しく喧嘩をしたからではという説もあるということ。
3-7、残された遺児は
信忠が自刃後に残された息子は2人で、長男の三法師(秀信)は3歳、母は塩川長満の娘と言われていて、池田輝政の兄元助の妻の姉妹であるということ。三法師は信長嫡孫として清洲会議では羽柴秀吉の周旋で家督を相続したが、成人してもぱっとせずキリシタンの洗礼を受けたとか、服装などの派手好みは遺伝したよう。
関が原では西軍につき、岐阜城に籠城するも難攻不落のはずが、元城主だった池田輝政に攻められて降伏、その後高野山へ行き出家するつもりが、祖父信長の高野山攻めで入山を断られたりで、26歳で死去。
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将来有望だったのに凡庸の誤解を受け、現在は評価高まる御曹司
信忠は信長の嫡男として生まれ、はやくから後継ぎとして特別扱いで、武将として父信長の元で訓練されていました。元服後、次々と戦功をあげて父信長の天下統一にも貢献、織田軍団の武将の評判も良く将来を嘱望されていた若大将。しかし父が本能寺の変で倒れたとき、同じく京都にいたのが不運のもと、わずか26歳で父に殉じることになってしまいました。
惣領息子とはいえまだ若いうちに亡くなり、弟たちや息子も凡庸な人ばかり、おまけに徳川300年間の徳川家寄りの見方のせいで長い間家康の長男より劣るとか悪い評判が先に立っていましたが、現在は復権の兆しありで評価が高まっているそう。
将来有望な武将であったこと、美男美女の多い織田家の人で、また婚約者の松姫との悲恋話も色を添え、今後は歴女のアイドルになる可能性さえあるかもしれないですね。