
2-2、信忠、数々の武功をたてる
天正2年(1574年)、信忠は、長島一向一揆制圧のために出陣、同じく出陣した父信長本隊、柴田勝家、丹羽長秀とは別に単独の隊を持っていたそう。そして天正3年(1575年)の長篠の戦いでも単独で武田軍と対戦して勝利、夜襲をかけてきた武田軍を撃退して1,100余りを討ち取るなど功を挙げ、武田家部将秋山虎繁(信友)を降して岩村城を開城。以後、一連の武田氏との戦いにおいて、大いに武名を上げていくことに。天正5年(1577年)には総大将として信貴山城を陥落。また天正8年(1580年)には、尾張南部を支配していた佐久間信盛と、安藤守就が信長によって追放され、信忠は尾張全域と東美濃に西美濃の支配を任されることに。
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2-3、信忠、正式に信長の後継者となる

信忠は、天正4年(1576年)11月28日、信長から織田家の家督と美濃東部と尾張国の一部を譲られて支配を任されたうえに、信長の正室で斎藤道三の娘である濃姫を養母としたために岐阜城主に。また、濃姫の弟の斎藤利治が信忠付きの重臣になり、そして同年正五位下に叙せられ、出羽介次いで秋田城介に任官して将軍格に。
当時の将軍は足利義昭で、織田政権下であっても備後在国の征夷大将軍であったため、織田家は征狄将軍にしかなれなかったが、この官職は越後守護家の上杉家と対抗としても有用であったよう。
信忠は、天正5年(1577年)2月には紀州の雑賀攻めで中野城を陥落、3月、鈴木重秀(雑賀孫一)らを下し、8月、再び反逆した松永久秀討伐の総大将として、明智光秀を先陣に羽柴秀吉ら諸将を指揮、松永久秀、久通父子が篭城する信貴山城を落城させたということ。信忠はその功績で、10月15日に従三位左近衛権中将に叙任。
そしてこの頃には信忠は、信長に代わって総帥となり諸将の指揮を執るようになったということ。また12月28日には、信長の茶道具8種類を譲られ、翌29日にはさらに3種類もらったそう。 信長から茶道具を譲られるということは、茶会を主宰してもいいということで、かなり重要な意味があります。
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2-4、信忠、播磨攻めに
天正6年(1578年)、播磨国の上月城をめぐって毛利輝元が10万以上の大軍を動員、自らは備中高松城に本陣を置き、叔父の吉川元春、小早川隆景、そして宇喜多忠家や村上水軍6万1,000人を播磨国に展開させて上月城を包囲。信長も上月城救援を送り、信忠が総大将、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益ら諸将を援軍に、三木城を包囲中の羽柴秀吉が信忠の指揮下に入るなど、総勢7万2,000人の織田軍が播磨に展開。
しかし膠着状態になったために、信長は上月城から撤退、三木城の攻略に専念させたが、篭城していた尼子勝久主従は降伏して上月城は落城。
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2-5、信忠、甲州征伐に

信忠は、天正10年(1582年)の甲州征伐では、総大将として美濃尾張の軍勢5万を率いて徳川家康、北条氏政と共に武田領へと進攻開始。信忠は、河尻秀隆、滝川一益の両将を軍監に、伊那方面から進軍、信濃南部の武田方の拠点の飯田城、高遠城を次々と攻略、高遠城攻略では、搦手口で陣頭に立って堀際に押し寄せ、柵を破り塀の上に登って配下に下知したそう。この信忠の進撃の早さに対し、体勢を立て直すことが出来ずに武田勝頼は諏訪から撤退し、新府城を焼き捨て逃亡。信忠は追撃開始して、信長の本隊が武田領に入る前に、武田勝頼、信勝父子を天目山の戦いで滅亡させたということ。
そして3月26日に甲府に入城した信長は、信忠の戦功を賞して梨地蒔の腰物を与えて「天下の儀も御与奪(思いのまま)」との意志も表明。信忠は論功行賞によって、寄騎の部将である河尻秀隆が穴山梅雪領を除いた甲斐国と信濃国諏訪郡を、森長可が信濃国高井、水内、更科、埴科郡を、毛利長秀が信濃国伊那郡を与えられたので、美濃、尾張、甲斐、信濃にまで影響力を及ぼすことに。
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