今回は織田信忠を取り上げるぞ。

信長の嫡男で若くして亡くなったが、親父に似てすごい武将だったのか、そうでもなかったのか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。戦国時代の武将にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、織田信忠について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、織田信忠は、尾張の国の生まれ

織田信忠(おだのぶただ)は、弘治3年(1557年)に、織田信長の長男として尾張国で誕生。実母は生駒吉乃(いこま きつの)と言われていて、乳母は慈徳院(滝川氏)、そして父信長の正室濃姫の養子に。

幼名は奇妙丸、元服して、勘九郎信重(のぶしげ)、のちに信忠と改名。同母弟妹は信雄(のぶかつ)、徳姫で、異母弟妹は多数。

尚、織田信正 という実在したかどうかはっきりしない庶兄がいるといことですが、信忠は幼少時から信長の嫡男、跡継ぎとして大勢の弟たちとは別格の扱いだったということ。

1-2、信長の子供たちは幼名が個性的

信忠の幼名の奇妙丸は父信長が、赤ちゃんの信忠が奇妙な顔だと言って名付けたということですが、他の子たちもかなり変な名前が多いので有名。

例えば信忠の同母妹の徳姫は、五徳(囲炉裏とか火鉢の炭火などの上に置く金属の器具で、その上に鍋ややかんなどを置く)、次男信雄は茶筅丸(ちゃせん)、3男信孝は三七、4男秀勝は於次丸、5男勝長は 坊丸、6男信秀は大洞、7男信高は小洞、お鍋の方から生まれた8男信吉は酌、9男信貞はなんと人、10男信好は良好、11男長次は縁というユニークさ。

1-3、信忠が生まれた頃の父信長の状況、信忠の婚約

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狩野元秀 (1551- 1601) - 東京大学史料編纂所, パブリック・ドメイン, リンクによる

信忠の父信長は、尾張の「弾正忠家」で、尾張国の下四郡の守護代の織田大和守家(清洲織田家)の家臣扱いの分家、清洲三奉行という家柄だったが、信忠が生まれて2年後に桶狭間の戦いで今川義元を破り、永禄8年(1565年)に尾張一国を平定。

また信長は、美濃国と甲斐国の武田領国とが接しているために、東美濃国衆の遠山直廉の娘を養女として、武田信玄の世子の勝頼の正室にするという婚姻同盟を結んだが、永禄10年(1567年)11月に勝頼夫人が死去したので、武田家との同盟関係の補強で、信忠と信玄の6女松姫との婚約が約束されたということ。

11歳の信忠と7歳の松姫は、手紙や品物のやり取りを行っていたと言われています。

1-4、信忠、武田との同盟破綻で婚約解消に

その後、武田氏と信長は友好的関係を保っていたが、武田氏は信長の同盟国の徳川家康の三河、遠江方面への侵攻を開始、元亀3年(1572年)、武田信玄は信長と敵対していた将軍足利義昭の信長包囲網に呼応、信長領への侵攻を開始。武田、織田同盟は破綻したため、信忠と松姫との婚約は事実上解消に。

武田勝頼に代替わりした後に信長との関係改善が試みられたが、信長が和睦を拒否したということ。

2-1、信忠、元服して初陣

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投稿者がファイル作成 - ブレイズマン (talk) 09:27, 4 February 2009 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

信忠は、元亀3年(1572年)1月元服と「勢州軍記」等にあるが、天正元年(1573年)4月1日付「兼見卿記」と同年6月18日付の「朝河文書」では幼名の「奇妙」となっていて、元服後の諱である「信重」が確認できるのは、同年7月だそう。

「信長公記」では同年8月12日付けの北近江浅井攻めの出陣が「奇妙」から「勘九郎」に。ということで、信忠の元服は、17歳から19歳と、普通よりもちょっと遅め、そして元服後は尾張国の一部の支配権が授与され、岐阜城と東美濃の支配権も受け継ぐことに。尚、この小谷城攻めが信忠の初陣に。

信忠は、以後、父信長に従い、石山合戦から、天正2年(1574年)2月の岩村城の戦い、天正2年(1574年)7月からの伊勢長島攻めなど、各地を転戦することに。

\次のページで「2-2、信忠、数々の武功をたてる」を解説!/

2-2、信忠、数々の武功をたてる

天正2年(1574年)、信忠は、長島一向一揆制圧のために出陣、同じく出陣した父信長本隊、柴田勝家、丹羽長秀とは別に単独の隊を持っていたそう。そして天正3年(1575年)の長篠の戦いでも単独で武田軍と対戦して勝利、夜襲をかけてきた武田軍を撃退して1,100余りを討ち取るなど功を挙げ、武田家部将秋山虎繁(信友)を降して岩村城を開城。以後、一連の武田氏との戦いにおいて、大いに武名を上げていくことに。天正5年(1577年)には総大将として信貴山城を陥落。また天正8年(1580年)には、尾張南部を支配していた佐久間信盛と、安藤守就が信長によって追放され、信忠は尾張全域と東美濃に西美濃の支配を任されることに。

2-3、信忠、正式に信長の後継者となる

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信忠は、天正4年(1576年)11月28日、信長から織田家の家督と美濃東部と尾張国の一部を譲られて支配を任されたうえに、信長の正室で斎藤道三の娘である濃姫を養母としたために岐阜城主に。また、濃姫の弟の斎藤利治が信忠付きの重臣になり、そして同年正五位下に叙せられ、出羽介次いで秋田城介に任官して将軍格に。

当時の将軍は足利義昭で、織田政権下であっても備後在国の征夷大将軍であったため、織田家は征狄将軍にしかなれなかったが、この官職は越後守護家の上杉家と対抗としても有用であったよう。

信忠は、天正5年(1577年)2月には紀州の雑賀攻めで中野城を陥落、3月、鈴木重秀(雑賀孫一)らを下し、8月、再び反逆した松永久秀討伐の総大将として、明智光秀を先陣に羽柴秀吉ら諸将を指揮、松永久秀、久通父子が篭城する信貴山城を落城させたということ。信忠はその功績で、10月15日に従三位左近衛権中将に叙任。

そしてこの頃には信忠は、信長に代わって総帥となり諸将の指揮を執るようになったということ。また12月28日には、信長の茶道具8種類を譲られ、翌29日にはさらに3種類もらったそう。 信長から茶道具を譲られるということは、茶会を主宰してもいいということで、かなり重要な意味があります。

2-4、信忠、播磨攻めに

天正6年(1578年)、播磨国の上月城をめぐって毛利輝元が10万以上の大軍を動員、自らは備中高松城に本陣を置き、叔父の吉川元春、小早川隆景、そして宇喜多忠家や村上水軍6万1,000人を播磨国に展開させて上月城を包囲。信長も上月城救援を送り、信忠が総大将、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益ら諸将を援軍に、三木城を包囲中の羽柴秀吉が信忠の指揮下に入るなど、総勢7万2,000人の織田軍が播磨に展開。

しかし膠着状態になったために、信長は上月城から撤退、三木城の攻略に専念させたが、篭城していた尼子勝久主従は降伏して上月城は落城。

2-5、信忠、甲州征伐に

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信忠は、天正10年(1582年)の甲州征伐では、総大将として美濃尾張の軍勢5万を率いて徳川家康、北条氏政と共に武田領へと進攻開始。信忠は、河尻秀隆、滝川一益の両将を軍監に、伊那方面から進軍、信濃南部の武田方の拠点の飯田城、高遠城を次々と攻略、高遠城攻略では、搦手口で陣頭に立って堀際に押し寄せ、柵を破り塀の上に登って配下に下知したそう。この信忠の進撃の早さに対し、体勢を立て直すことが出来ずに武田勝頼は諏訪から撤退し、新府城を焼き捨て逃亡。信忠は追撃開始して、信長の本隊が武田領に入る前に、武田勝頼、信勝父子を天目山の戦いで滅亡させたということ。

そして3月26日に甲府に入城した信長は、信忠の戦功を賞して梨地蒔の腰物を与えて「天下の儀も御与奪(思いのまま)」との意志も表明。信忠は論功行賞によって、寄騎の部将である河尻秀隆が穴山梅雪領を除いた甲斐国と信濃国諏訪郡を、森長可が信濃国高井、水内、更科、埴科郡を、毛利長秀が信濃国伊那郡を与えられたので、美濃、尾張、甲斐、信濃にまで影響力を及ぼすことに。

\次のページで「2-6、信忠、本能寺の変に遭遇」を解説!/

2-6、信忠、本能寺の変に遭遇

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天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の際、信忠は父信長と共に、備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍に向かうべく、信長よりも先に上洛して京都の妙覚寺に滞在中。信忠は、信長の宿所の本能寺を明智光秀が強襲した知らせを受け、本能寺へ救援に向かったが、信長自害と聞き、光秀を迎え撃つために、異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、側近の斎藤利治、京都所司代村井貞勝らと共に、儲君(皇太子)の誠仁親王の二条新御所に移動することに。

信忠は誠仁親王らを脱出させた後、手回りのわずかな軍兵とともに篭城、信忠も自ら剣をふるって戦ったということだが、明智軍の伊勢貞興が攻め寄せると、多勢に無勢で自刃。介錯は鎌田新介が務め、二条御所の縁の板を剥がさせて自らの遺骸を隠すように命じたということで、信長同様、首や遺骸は見つからず。享年26歳。

2-7、信忠、脱出できる可能性があったかも

本能寺の変では、あまりにも不意打ちだったため、信長が脱出できる可能性はなかったと言われていますが、信忠には京都から脱出できる可能性があったそう。

「当代記」では、側近の中には、安土城に逃げて再起を図るように諫言する者もいたのに、信忠は「光秀がこれほどの謀反を企てるならば、京都市中への出入り口も封鎖されているだろうから、無様に逃げ出して途中で果てるのは無念、この場所から退くべきではない」と言ったと言われています。

しかし信長は、浅井氏に裏切られたときもそうだったように、この窮地にもたった一騎ででも安土まで逃げのびて、籠城、兵を整えて明智を討つくらいのことはしたはず。秀吉も後に信長の逃げ足の速さと立ち直りの素早さについて語っていたことを考えても、父に較べて信忠は諦めが早すぎたのでは。

3-1、信忠の逸話

短い人生でしたが、信忠の逸話をご紹介しますね。

3-2、信忠の評価は

かつて、岡崎信康に信長が切腹を命じた事件は、自分の嫡子の信忠に比べ、娘婿でもある家康の嫡子岡崎信康の方が遙かに武将として優れているので、信忠の将来を危惧して切腹させたのが真相といわれていたのは、高柳光寿の著書「青史端紅」で語られた説が由来ということ。

その印象が強く、信忠は暗愚な凡将という定評でしたが、現在では信長の後継者として十分な能力、資質を備えた武将との評価が主流に。近年になって徳川時代寄りの見方から離れて、信忠の事績、評価の見直しがされるようになり、信長の後見を考慮に入れたとしても、信忠は軍務、政務を立派に行っているじゃないかと指摘されているそう。

また、「名将富鉱録」では、信忠は、織田家家臣たちには優れた武将とされていたが、信長は「見た目だけの器用者など愚か者と同じ」という評価だったと記されているそう。しかし甲州征伐で高遠城に攻め入る際、信長は信忠に深追いは避けるように忠告したが、情勢を見た信忠はこの命令に従わずに深く攻め入り、最終的に武田氏を滅亡に。そして信長は、信忠の武才を認め、称賛したということ。

尚、信長が岡崎信康を切腹させたと言われていましたが、今では信長がはっきりと切腹と命令したのではないということに。

3-3、武田松姫との悲恋話

父信長と武田家との同盟解消で、松姫と信忠との婚約は結婚に至らずに解消されただけでなく、婚約解消から10年後には敵同士に。

そして天正10年(1582年)松姫の兄、武田勝頼は新府城(山梨県韮崎市)から天目山へ逃れて自刃し、武田一族は滅亡。松姫は勝頼一行と別行動で、海島寺(山梨市)に滞在したのち、兄、仁科盛信の3人の姫を連れ、金照庵(現・八王子市上恩方町)に。

尚、信忠は八王子に落ち延びていた松姫に使者を出して妙覚寺に招こうとしたが、本能寺の変での信忠自刃でかなわず、松姫は八王子に戻り、同年秋、22歳で心源院(現八王子市下恩方町)にて出家して信松尼となり、武田一族とともに信忠の冥福を祈ったということ。

後には異母姉の見性院と共に、後に会津藩初代藩主となった2代将軍徳川秀忠の庶子である保科正之を、誕生後に預かって育てたそう。
信忠は側室が何人かいて庶子も生まれていたが正室はいなかったので、松姫を迎えようと思ったのかも。

3-4、忠興の忠の字は信忠から

細川幽斎の長男忠興は、最初は6歳年上の信忠の近習として仕え、15歳のとき元服、信忠の諱をもらって忠興に。忠興は長生きしたが、信長からもらった手紙を終生大事にしていたというので信忠に仕えたこともいい思い出だったはず。

\次のページで「3-5、能狂言に夢中だった」を解説!/

3-5、能狂言に夢中だった

信忠は父信長に忠実な息子だったが、「敦盛」などの幸若舞を好んだ信長に対して、信忠は能狂言が大好きで、徳川家康を通じて稀少な世阿弥の著作を入手したほど。また、伊勢松島では群集を前に能を演じたなど、信忠の能の腕は「手前見事」と評される腕前。しかし信長は、信忠が能を好むことを嫌って、「およそ舞楽は金銀の無駄であり、家業を忘れ、国が乱れる元」と言って天正8年(1580年)に信忠から能道具を取り上げて謹慎させたそう。

3-6、本能寺での信長の言葉の意味

「三河物語」では、本能寺で軍勢が取り囲んだことに気が付いた信長は、「城介がべつしんか(信忠の官名)謀反か」だったとされているが、著者の大久保忠教は京都におらずまた聞きで信ぴょう性がない、逆に自分に謀反を起こせるようなガッツのある武将は信忠しかいないと思っていたとか、前日に信忠と珍しく喧嘩をしたからではという説もあるということ。

3-7、残された遺児は

信忠が自刃後に残された息子は2人で、長男の三法師(秀信)は3歳、母は塩川長満の娘と言われていて、池田輝政の兄元助の妻の姉妹であるということ。三法師は信長嫡孫として清洲会議では羽柴秀吉の周旋で家督を相続したが、成人してもぱっとせずキリシタンの洗礼を受けたとか、服装などの派手好みは遺伝したよう。

関が原では西軍につき、岐阜城に籠城するも難攻不落のはずが、元城主だった池田輝政に攻められて降伏、その後高野山へ行き出家するつもりが、祖父信長の高野山攻めで入山を断られたりで、26歳で死去。

将来有望だったのに凡庸の誤解を受け、現在は評価高まる御曹司

信忠は信長の嫡男として生まれ、はやくから後継ぎとして特別扱いで、武将として父信長の元で訓練されていました。元服後、次々と戦功をあげて父信長の天下統一にも貢献、織田軍団の武将の評判も良く将来を嘱望されていた若大将。しかし父が本能寺の変で倒れたとき、同じく京都にいたのが不運のもと、わずか26歳で父に殉じることになってしまいました。

惣領息子とはいえまだ若いうちに亡くなり、弟たちや息子も凡庸な人ばかり、おまけに徳川300年間の徳川家寄りの見方のせいで長い間家康の長男より劣るとか悪い評判が先に立っていましたが、現在は復権の兆しありで評価が高まっているそう。

将来有望な武将であったこと、美男美女の多い織田家の人で、また婚約者の松姫との悲恋話も色を添え、今後は歴女のアイドルになる可能性さえあるかもしれないですね。

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安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史

信長の嫡男として嘱望された「織田信忠」本能寺の変で散った若大将について歴女がわかりやすく解説

今回は織田信忠を取り上げるぞ。

信長の嫡男で若くして亡くなったが、親父に似てすごい武将だったのか、そうでもなかったのか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。戦国時代の武将にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、織田信忠について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、織田信忠は、尾張の国の生まれ

織田信忠(おだのぶただ)は、弘治3年(1557年)に、織田信長の長男として尾張国で誕生。実母は生駒吉乃(いこま きつの)と言われていて、乳母は慈徳院(滝川氏)、そして父信長の正室濃姫の養子に。

幼名は奇妙丸、元服して、勘九郎信重(のぶしげ)、のちに信忠と改名。同母弟妹は信雄(のぶかつ)、徳姫で、異母弟妹は多数。

尚、織田信正 という実在したかどうかはっきりしない庶兄がいるといことですが、信忠は幼少時から信長の嫡男、跡継ぎとして大勢の弟たちとは別格の扱いだったということ。

1-2、信長の子供たちは幼名が個性的

信忠の幼名の奇妙丸は父信長が、赤ちゃんの信忠が奇妙な顔だと言って名付けたということですが、他の子たちもかなり変な名前が多いので有名。

例えば信忠の同母妹の徳姫は、五徳(囲炉裏とか火鉢の炭火などの上に置く金属の器具で、その上に鍋ややかんなどを置く)、次男信雄は茶筅丸(ちゃせん)、3男信孝は三七、4男秀勝は於次丸、5男勝長は 坊丸、6男信秀は大洞、7男信高は小洞、お鍋の方から生まれた8男信吉は酌、9男信貞はなんと人、10男信好は良好、11男長次は縁というユニークさ。

1-3、信忠が生まれた頃の父信長の状況、信忠の婚約

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狩野元秀 (1551- 1601) – 東京大学史料編纂所, パブリック・ドメイン, リンクによる

信忠の父信長は、尾張の「弾正忠家」で、尾張国の下四郡の守護代の織田大和守家(清洲織田家)の家臣扱いの分家、清洲三奉行という家柄だったが、信忠が生まれて2年後に桶狭間の戦いで今川義元を破り、永禄8年(1565年)に尾張一国を平定。

また信長は、美濃国と甲斐国の武田領国とが接しているために、東美濃国衆の遠山直廉の娘を養女として、武田信玄の世子の勝頼の正室にするという婚姻同盟を結んだが、永禄10年(1567年)11月に勝頼夫人が死去したので、武田家との同盟関係の補強で、信忠と信玄の6女松姫との婚約が約束されたということ。

11歳の信忠と7歳の松姫は、手紙や品物のやり取りを行っていたと言われています。

1-4、信忠、武田との同盟破綻で婚約解消に

その後、武田氏と信長は友好的関係を保っていたが、武田氏は信長の同盟国の徳川家康の三河、遠江方面への侵攻を開始、元亀3年(1572年)、武田信玄は信長と敵対していた将軍足利義昭の信長包囲網に呼応、信長領への侵攻を開始。武田、織田同盟は破綻したため、信忠と松姫との婚約は事実上解消に。

武田勝頼に代替わりした後に信長との関係改善が試みられたが、信長が和睦を拒否したということ。

2-1、信忠、元服して初陣

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投稿者がファイル作成 – ブレイズマン (talk) 09:27, 4 February 2009 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

信忠は、元亀3年(1572年)1月元服と「勢州軍記」等にあるが、天正元年(1573年)4月1日付「兼見卿記」と同年6月18日付の「朝河文書」では幼名の「奇妙」となっていて、元服後の諱である「信重」が確認できるのは、同年7月だそう。

「信長公記」では同年8月12日付けの北近江浅井攻めの出陣が「奇妙」から「勘九郎」に。ということで、信忠の元服は、17歳から19歳と、普通よりもちょっと遅め、そして元服後は尾張国の一部の支配権が授与され、岐阜城と東美濃の支配権も受け継ぐことに。尚、この小谷城攻めが信忠の初陣に。

信忠は、以後、父信長に従い、石山合戦から、天正2年(1574年)2月の岩村城の戦い、天正2年(1574年)7月からの伊勢長島攻めなど、各地を転戦することに。

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