この戦いに勝利したのは源氏で、鎌倉幕府を開いたことからもそれは明らかですが、戦いが起こった原因、過程も知っておかなければならない。そこで、今回は壇ノ浦の戦いについて日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から壇ノ浦の戦いをわかりやすくまとめた。
朝廷からの信頼を得た平清盛
平安時代の末期、日本では絶えず朝廷の間で権力を巡る争いが起こっており、それが1156年の保元の乱、1160年の平治の乱です。保元の乱では後白河天皇が崇徳天皇と争い、また平治の乱では二条親政派と信西が争いましたが、そんな争いの中で見事な立ち振る舞いを見せたのが平清盛でした。
平清盛は対立している後白河上皇と二条天皇に対して中立的な立場をとり、その一方では信西に反発する者を一掃するなど武士としての強さも見せます。さらに、皇族と血縁を結ぶために摂政である近衛基実と姻戚関係を結ぶなど、武士の立場でありながら朝廷との信頼関係を深めていったのです。
それに伴って当然平清盛の地位も向上、平家一門の官位も上がって朝廷においても発言する権利を持つほどの権力を手にしました。平家にとってまさにそれは全盛期、平時忠に至っては、平家一門でない人は人ではないとまで考え、「平家にあらずんば人にあらず」と口にしたほどです。
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平清盛と後白河法皇の対立
平清盛は後白河上皇が法皇になってからも良好な関係を維持しましたが、ただ平家が力を持ち過ぎたことから次第にそれが崩れていきます。1178年、平家の姿勢が後白河法皇や朝廷からの不満を招いてついには対立、治承三年の政変にて平清盛は軍勢を率いて京都を制圧すると、後白河法皇を幽閉して院政を停止させたのでした。
さて、この院政とは当時は一般的であったものの、少々特殊な政治のスタイルです。院政とは天皇が後継者に皇位を譲る際、天皇は上皇となって天皇に代わって政務を行うことで、上皇を「院」とも呼ぶため院政と名付けられました。また、上皇が出家すれば今度は法皇になるのです。
平家が権力を得る過程で後白河天皇は天皇・上皇・法王と異なった呼ばれ方をしていますが、これは院政のためであり、少し紛らわしいと思うかもしれませんね。ともあれ、対立する後白河法皇を幽閉したことで後白河院政は完全停止、次に平清盛が目をつけたのは高倉天皇でした。
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