今日は壇ノ浦の戦いについて勉強していきます。平安時代の末期となる1185年、現在の山口県下関市である長門国赤間関壇ノ浦にて、源氏と平氏の運命をかけた戦いが行われた。

この戦いに勝利したのは源氏で、鎌倉幕府を開いたことからもそれは明らかですが、戦いが起こった原因、過程も知っておかなければならない。そこで、今回は壇ノ浦の戦いについて日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から壇ノ浦の戦いをわかりやすくまとめた。

平家の全盛期

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朝廷からの信頼を得た平清盛

平安時代の末期、日本では絶えず朝廷の間で権力を巡る争いが起こっており、それが1156年の保元の乱、1160年の平治の乱です。保元の乱では後白河天皇が崇徳天皇と争い、また平治の乱では二条親政派と信西が争いましたが、そんな争いの中で見事な立ち振る舞いを見せたのが平清盛でした。

平清盛は対立している後白河上皇と二条天皇に対して中立的な立場をとり、その一方では信西に反発する者を一掃するなど武士としての強さも見せます。さらに、皇族と血縁を結ぶために摂政である近衛基実と姻戚関係を結ぶなど、武士の立場でありながら朝廷との信頼関係を深めていったのです。

それに伴って当然平清盛の地位も向上、平家一門の官位も上がって朝廷においても発言する権利を持つほどの権力を手にしました。平家にとってまさにそれは全盛期、平時忠に至っては、平家一門でない人は人ではないとまで考え、「平家にあらずんば人にあらず」と口にしたほどです。

平清盛と後白河法皇の対立

平清盛は後白河上皇が法皇になってからも良好な関係を維持しましたが、ただ平家が力を持ち過ぎたことから次第にそれが崩れていきます。1178年、平家の姿勢が後白河法皇や朝廷からの不満を招いてついには対立、治承三年の政変にて平清盛は軍勢を率いて京都を制圧すると、後白河法皇を幽閉して院政を停止させたのでした。

さて、この院政とは当時は一般的であったものの、少々特殊な政治のスタイルです。院政とは天皇が後継者に皇位を譲る際、天皇は上皇となって天皇に代わって政務を行うことで、上皇を「院」とも呼ぶため院政と名付けられました。また、上皇が出家すれば今度は法皇になるのです。

平家が権力を得る過程で後白河天皇は天皇・上皇・法王と異なった呼ばれ方をしていますが、これは院政のためであり、少し紛らわしいと思うかもしれませんね。ともあれ、対立する後白河法皇を幽閉したことで後白河院政は完全停止、次に平清盛が目をつけたのは高倉天皇でした。

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平家を滅亡に導く反乱の狼煙

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絶望と怒りで平家を憎む以仁王

平清盛は後白河法皇を院政から追放すると、今度は高倉天皇との関係を積極的に築こうとします。そして1178年に高倉天皇と建礼門院との間に子供……すなわち皇子が誕生すると、皇子である言仁親王はその2年後に高倉天皇から皇位を譲られ、実にわずか2歳で安徳天皇へとなりました。

そして、安徳天皇の母である建礼門院は平清盛の娘になります。もうこの事実から想像できると思いますが、いくら皇子でもわずか2歳の子供に政務など行えるはずがなく、当然安徳天皇には後ろ盾となる頼れる存在が君臨しており、その頼れる存在こそ平家だったのです。

つまり、安徳天皇は立場としては天皇でも力量としてはまだ2歳の子供であり、そのため実際に政治的権力を握っていたのは平家になります。こうしてまたも政権掌握を実現した平家でしたが、それに絶望して怒りを覚えた人物も存在しており、その人物とは以仁王(もちひとおう)でした。

全国の武士を動かした反乱の狼煙

以仁王とは後白河天皇の第三皇子であり、つまり天皇候補の人物でした。「でした」と過去形で表現したのは皇位継承が絶望的になったからで、なぜなら安徳天皇が即位してしまったからです。そこで以仁王は源頼政の協力を受けると、1180年にはある3つの大きな計画を立てました。

計画その1は安徳天皇の廃位、計画その2は新たな政権の樹立、計画その3は平氏討伐で、これらの計画は源氏だけでなく全国の武士にまで広まっていきます。しかしここで一枚上手だったのが平清盛、以仁王のそんな計画を既に把握しており、追撃して以仁王とその協力者である源頼政を討ち取ったのです

これで以仁王の挙兵は食い止めたものの、平氏に対してあげられた反乱の狼煙が消えることはなく、以仁王が全国に送った平氏討伐の手紙は各地の武士の心を確かに動かしたのでした。そして、伊豆へと流されていた源頼朝もその一人であり、彼はこの状況を最大をチャンスと捉えたのです。

追い詰める源氏・追い詰められる平氏

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源頼朝の挙兵

源頼朝にとって平家は父・源義朝の仇、そんな平家を平氏もろとも討伐できるとなれば、これ以上のチャンスはありません。そこで、源頼朝はまず自分を監視していた山木兼隆を殺害すると伊豆へと挙兵、1180年の石橋山の戦いでは平氏方である大庭景親(おおばかげちか)に敗れはするものの、その勢力は衰えるどころかむしろ増していき、関東の武士を仲間につけたのです。

西を支配する平氏に対して東を支配しつつある源氏、この状況に危機感を覚えた平清盛はただちに源頼朝の討伐を計画、しかし大将に任命された平維盛が逃亡したことでまさかの不戦敗、平氏は徐々に劣勢に追い込まれていきました。平氏にとってさらにここで追い打ちとなる出来事が起こり、それは平清盛が死去したことです

代わってリーダーとなったのが平宗盛でしたが、やはり平清盛ほどのカリスマ性はなかったのでしょう。徐々に戦況が悪化する中、1183年にはついに平氏は京都から西国へと逃亡、その時安徳天皇を連れた上に三種の神器も持ち出して逃亡しており、天皇不在となった京都において即位の儀式が行えないための抵抗を見せます。

一ノ谷の戦い、屋島の戦い、そして最後の戦いへ

一方の京都、平氏が安徳天皇を連れて逃げたため天皇不在の事態となってしまいます。そこでひとまず、上皇となった高倉天皇……つまり高倉上皇の第四皇子である後鳥羽天皇が即位しますが、三種の神器を持ち出されていたことから正式な即位ができません。

このため源氏には平氏討伐はもちろん、三種の神器奪還の命令も与えられました。逃げる平氏は現在の兵庫県神戸市にあたる福原まで進んでおり、そこで瀬戸内海制圧を果たしたとされています。しかし、福原に陣を取っていた平氏を源範頼源義経が攻撃、海上まで追い込んだ末に敗走させて勝利、この戦いが1184年の一ノ谷の戦いです。

さて、一ノ谷の戦いで敗れた平氏でしたが今度は現在の高松市である讃岐屋島に陣をとります。しかし、それもまた源義経の襲撃によって敗走、この戦いが屋島の戦いであり、追い詰められた平氏は現在の山口県関市である長門彦島へと逃れていきました。さらに追い詰める源氏ともう逃げられない平氏、最後の決着をつける壇ノ浦の戦いが今ここに始まります

源氏と平氏の決戦、壇ノ浦の戦い

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海上戦で優勢に立った平氏軍

1185年の壇ノ浦の戦い、この戦いを一言で言うなら「源平合戦」であり、屋島の戦いに続いての戦いとなりました。その舞台は現在の山口県下関市であり、長門国赤間関壇ノ浦です。源義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけており、水軍の兵力は約830艘もの数でした。

それに加えて九州で戦っていた源範頼も壇ノ浦の戦いに加わっており、そのため平氏は包囲された不利な状況で戦いを余儀なくされます。兵力の差は源氏軍が約830艘の水軍に対して平氏軍は約500艘の水軍、壇ノ浦の戦いは数字と状況から判断すれば明らかに源氏優勢で始まりました。

しかし、戦いが始まると優勢に立ってのは意外にも平氏軍であり、これは壇ノ浦の戦いが海上戦だったためで、関門海峡の流れを把握している点で平氏軍が有利だったのです。一方で、海上戦に不慣れな源氏軍は平氏軍に押されていましたが、不利なその戦況を一変させたのは源義経の指示でした。

形勢逆転と平家の滅亡

海上戦であることから分かるように、戦場には非戦闘員である漕ぎ手がいたのですが、源義経は非戦闘員を矢で狙うように指示したのです。「非戦闘員を矢で狙って攻撃する」……これは当時の戦において反則行為であり、しかし源義経は敢えて反則行為を行って戦況を変えようとしました。

戦いが始まって暫く経過して午後になった頃、ここで潮の流れが源氏が有利な方向へと変わります。まさに天が味方をしたかのような潮の流れの逆転、たちまち形勢逆転されて追い詰められる平治軍は敗北を悟ったのでしょう。主力である平家の武将が次々と海へと身を投げていきました。

「まだ幼い安徳天皇もこのままでは源氏に捕縛されてしまう、それならいっそ」……平家の家長としての役割を担っていた二位尼は、安徳天皇に対して「海の下にも都が存在する」と諭すと、2人は共に入水して自ら命を絶ったのです。この壇ノ浦の戦いによって平家は滅亡、全盛期では政権掌握を果たしたものの、その歴史が長く続くことはありませんでした。

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壇ノ浦の戦いのその後

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三種の神器の行方

三種の神器は「玉」「鏡」「剣」で、それぞれ八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、八咫鏡(やたのかがみ)、草那藝之大刀(くさなぎのたち)と呼ばれるものです。壇ノ浦の戦い後、八尺瓊勾玉と八咫鏡は回収されましたが、草那藝之大刀は海に沈んでしまったとされていますが、ただこれは別説もあるため真相は定かではありません。

さて、壇ノ浦の戦いで勝利した源氏ですが、戦いで功績を挙げた源義経は朝廷より官位を授けられました。しかし、これを良しとしなかったのが兄の源頼朝であり、源義経だけが官位を授かったことが許せなかったのです。このため源頼朝と源義経は対立、源頼朝は源義経を鎌倉へと入れず、京都へと追い返されてしまいます。

より深刻に深まる両者の対立、源義経は後白河法皇に源頼朝の討伐の宣旨を出させる事態まで発展するものの、挙兵に失敗して逆に自らが追い込まれる形となってしまい、やがて起こる奥州合戦の中で殺害される運命にあるのでした。

鎌倉幕府の始まり

25年続いた平氏政権が終わり、新たな武家政権のトップに立ったのは源頼朝でした。鎌倉幕府を開いた源頼朝は1192年、即位した後鳥羽天皇から征夷大将軍に任命され、平氏に代わって源氏の源頼朝が鎌倉幕府という武家政権を築いていくことになるのです。

ちなみに、鎌倉幕府を開いた年は源頼朝が征夷大将軍に任命された1192年とされていました。しかし現在ではこれが改定され、源頼朝はそれ以前から既に政治政策を行っていたため、政治政策を行い始めた1185年が鎌倉幕府を開いた年とされています。

壇ノ浦の戦いで勝利した源氏は、まるで全盛期の平家一門のように日本の政権掌握を果たすほど勢力を拡大させました。しかし、平家一門同様に歴史を築いた後に待つのは滅びの運命であり、鎌倉幕府もまたそれに反発する者達によって滅亡させられ、日本の歴史は繰り返していくのです。

平氏と平家はどう違うのか

壇ノ浦の戦いで誰もが悩むのが、平氏と平家の使い分けです。ある場面では「平氏が~」の解説に対して、別のある場面では「平家が~」と解説されており、一方でその使い分けの理由には触れていないことがほとんどですね。

そこで解説しておくと、まず「平」は姓であり、その一族の中でも朝廷に仕えた者が平家と呼ばれているのです。つまり、平氏の中でも朝廷に仕えた者は平家と呼ばれ、例えば平清盛は平家ということになります。

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平安時代日本史歴史

源氏と平氏の決着の時!「壇ノ浦の戦い」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は壇ノ浦の戦いについて勉強していきます。平安時代の末期となる1185年、現在の山口県下関市である長門国赤間関壇ノ浦にて、源氏と平氏の運命をかけた戦いが行われた。

この戦いに勝利したのは源氏で、鎌倉幕府を開いたことからもそれは明らかですが、戦いが起こった原因、過程も知っておかなければならない。そこで、今回は壇ノ浦の戦いについて日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から壇ノ浦の戦いをわかりやすくまとめた。

平家の全盛期

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朝廷からの信頼を得た平清盛

平安時代の末期、日本では絶えず朝廷の間で権力を巡る争いが起こっており、それが1156年の保元の乱、1160年の平治の乱です。保元の乱では後白河天皇が崇徳天皇と争い、また平治の乱では二条親政派と信西が争いましたが、そんな争いの中で見事な立ち振る舞いを見せたのが平清盛でした。

平清盛は対立している後白河上皇と二条天皇に対して中立的な立場をとり、その一方では信西に反発する者を一掃するなど武士としての強さも見せます。さらに、皇族と血縁を結ぶために摂政である近衛基実と姻戚関係を結ぶなど、武士の立場でありながら朝廷との信頼関係を深めていったのです。

それに伴って当然平清盛の地位も向上、平家一門の官位も上がって朝廷においても発言する権利を持つほどの権力を手にしました。平家にとってまさにそれは全盛期、平時忠に至っては、平家一門でない人は人ではないとまで考え、「平家にあらずんば人にあらず」と口にしたほどです。

平清盛と後白河法皇の対立

平清盛は後白河上皇が法皇になってからも良好な関係を維持しましたが、ただ平家が力を持ち過ぎたことから次第にそれが崩れていきます。1178年、平家の姿勢が後白河法皇や朝廷からの不満を招いてついには対立、治承三年の政変にて平清盛は軍勢を率いて京都を制圧すると、後白河法皇を幽閉して院政を停止させたのでした。

さて、この院政とは当時は一般的であったものの、少々特殊な政治のスタイルです。院政とは天皇が後継者に皇位を譲る際、天皇は上皇となって天皇に代わって政務を行うことで、上皇を「院」とも呼ぶため院政と名付けられました。また、上皇が出家すれば今度は法皇になるのです。

平家が権力を得る過程で後白河天皇は天皇・上皇・法王と異なった呼ばれ方をしていますが、これは院政のためであり、少し紛らわしいと思うかもしれませんね。ともあれ、対立する後白河法皇を幽閉したことで後白河院政は完全停止、次に平清盛が目をつけたのは高倉天皇でした。

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