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修道士でありながら戦う騎士だった「テンプル騎士団」を戦国通のサラリーマンが徹底わかりやすく解説

大騒動成功

十字軍の目的だったエルサレムの奪還とキリストの墓を再び取り戻したことによって、ウルヌバス二世の目的は達成することになりました。この騒動を終えた後に、戦いに参戦しなかった兵は嘲笑れ非難され破門に追い込まれる者までいたようです。戦いに参戦した兵達は沢山の富を手にした形で母国へ戻り優雅に暮らしていくことになりました。

目的を果たしことで、不満を持っていたエティエンヌ二世らによって千百一年十字軍が結成されエルサレムを目指し戦いを挑んでいくもセルジューク連合の前で惨敗し壊滅していきます。ラムラの戦いで敗死してしまったエティエンヌ二世。生き残った兵は、ダマスカス王ドゥカークと連合軍を組んでトリポリ港を攻撃をしていきましたがトリポリ領主に怨みがあったため十字軍を目にすると撤退していきました。残されたトリポリ軍は大敗となり、生き延びたレーモン・ド・サンジルが後のエルサレム上陸拠点となるトリポリ伯国を建設します。

エルサレムに到着した十字軍の騎士や兵はエルサレムの守りを固めていき、騎士修道会を組織していった中にテンプル騎士団が組織されていきました。

テンプル騎士団組織

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二つの教徒が争った結果は、キリスト教徒を支持する十字軍が勝利を収めたことによりテンプル騎士団が組織されていきます。

九人の騎士

第一回十字軍の活動で富を得た騎士や兵は、満足して母国へ帰還してしまいエルサレムでは少数の騎士や兵しか残されておらず慢性的に防衛する兵力が乏しい状況に陥っていました。そこでこの状況を一変させるべく、聖地エルサレムの守護を唱えたユーグ・ド・パイヤンによってゴドフレー・ド・サンオメールを始めとする九人のフランス人騎士がエルサレムに集い組織されたことがテンプル騎士団の始まりとされています。

テンプル騎士団の目的は、巡礼者の警護を目的とした修道会で活動を始めていき聖アウグスチノ修道会の規律を守って生活していくことを誓っていきました。テンプル騎士団と名付けられたのはエルサレム王国のボードゥアン二世が神殿の丘を宿用地として、与えられたころからテンプル騎士団の名と呼ばれていたとされています。

テンプル騎士団の組織より以前に聖ヨハネ騎士団が1113年に設立されており、設立者のユーグ・ド・パイヤンは聖ヨハネ騎士団を見習い騎士修道会としての認可を得るべく様々な人達に働きかけしていきました。

騎士修道会の認可

活動を始めたものの、正式な認可をされた騎士修道会ではなかったためローマ教皇を承諾を得なければ公に認められませんでした。そこでユーグ・ド・パイヤンは宗教界に大きな影響を与えていた聖ベルナルドへローマ教皇へのとりなしを依頼していきます。説教師として優れた素質があった聖ベルナルドに会うべく各地から多数の人が訪れて世俗世界に深く関わっていきローマ教皇に就任したばかりのホノリウス二世ですら助言を求めていました。

聖ベルナルドが1128年に参加していたトロワの司教議会に参加していた時に、テンプル騎士団の組織に尽力したとされ議会の場でホノリウス二世が認可したことにより1128年に正式な騎士修道会として認められます。十一世紀頃はヨーロッパの貴族同士が聖地のために、貢献したいといったこととフランス国王ルイ六世からも寄進されたことでテンプル騎士団へ多くの人達が入会しました。

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ローマ教皇のイノケンティウス二世が、国境の自由や課税の禁止など多くの特権を与えられていた修道会へとなっていったようだな。

再び十字軍の集結

テンプル騎士団を組織した直後に十字軍の国家だったエデッサ伯領を失ったことで、奪還するためにローマ教皇のエウゲニス二世が再び十字軍を集めるべく各国へ呼びかけを行いました。またエウゲニス二世だけでなく聖ベルナルドも各国へ渡り十字軍へ加わってもらうべく、説教を行いフランス王・ドイツ王・ローマ皇帝らの参加を得ることに成功します。

多くの王国や貴族が、集結して結成されましたが目的が曖昧だったことに加えそれぞれの王国でバラバラで行動していき前回のような十字軍ではありませんでした。そのため団結した行動にはならず攻撃対象が不明だったことで主だった戦果は挙げられずに解散していきます。この時に発生したダマスカスにてルイ七世を救出する戦功を挙げ広大な土地を手に入れました。

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