幕末日本史歴史江戸時代

明治新政府の金欠を救った「由利公正」この福井藩士について歴女が解説

よぉ、桜木健二だ、今回は由利公正を取り上げるぞ。幕末の越前福井藩士で五箇条の御誓文を書いた人なんだが、坂本龍馬の推薦で出てきた人なんだって、他にもどんなことをしたのか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末に目がないあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

angelica

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新と幕末に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、由利公正について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、由利公正は、越前福井の生まれ

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由利公正(ゆりきみまさ)は、文政12年(1829年)に100石の知行の福井藩士三岡義知の嫡男として、越前国足羽郡福井城下(現福井県福井市)で誕生。通称を石五郎、八郎。字を義由、雅号に雲軒など。最初は三岡八郎(みつおか)、明治維新後に由利公正。先祖の名前の由利に改姓したそう、公正はこうせいとも読むが本人のローマ字署名が発見されて、きみまさ。ここでは公正で統一。

1-2、公正の子供時代

公正の生家は、表向きは100石だが実質は32石3斗、屋敷内で野菜を作ったりと貧しい暮らしだったそう。福井城下の足羽川(あすわかわ)南岸の毛矢町の侍の家はそういう貧しい家ばかりだったので、家中でも毛矢町侍と、いやしめられたということ。公正の母は家事一切が上手な賢婦人で、公正は子供の頃から母を助け、家屋の修繕や菜園での農作業、父の乗馬の飼育などを手伝ったが、勉学よりも畑仕事ばかりしていたせいか、人よりも10年遅く18歳でやっと四書五経の素読を終了。

しかし、剣道は真影流、槍は無辺流、西洋流の新式砲術それぞれ免許皆伝の腕前で、自分で工夫して独特の槍を発明したそう。

1-3、公正、馬威しの行事で注目される

越前福井藩では、独特の正月行事「馬威し」という、馬に乗って走る武士たちの行く手を庶民たちが様々な方法で妨げるという催しがあり、19歳のとき公正も出場し、整備された大通りに人と馬が入り乱れるなか、ひときわ目立つ勇壮さで駆け抜けて優勝。それが観戦していた越前福井藩の重臣、藩主松平春嶽の目にとまって出仕することに。

尚、公正は、馬威しの勝利をねたんだ上級武士の師弟数名から切りかけられた際、竹竿を槍に見立てことごとく撃退した話もあり。そしてペリー艦隊の2度目の来航の際、越前福井藩が先遣隊を江戸に派遣したときに公正は昼夜兼行わずか3日間で全道程を踏破したということ。 また、幕末を代表する歌人橘曙覧(たちばなあけみ)の門下生で、短歌も学んだそう。

2-1、公正、経済に目覚めて横井小楠に感銘、藩政改革に成功

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公正は嘉永6年(1853年)に24歳で家督相続。

「竜馬がゆく」によれば公正は、20歳過ぎころから、なんでこんなに貧乏な藩なのかと疑問を持ち、4年ほどかけて独自に領内の農家を回って米の収穫高を調べ、藩の歳入、歳出と照らし合わせて調べたところ、どんなに倹約をしても年間2万両の赤字が出るという実態を突き止めたそう。しかもそのことを藩の勘定方も家老らも全く知らず、ただひたすら倹約を遂行していたのが越前福井藩経済の実情。そこへ嘉永4年(1851年)、熊本藩から政治顧問として横井小楠が招聘され、公正は小楠の説く「経世済民」(経済の語源)を学び、民富論を実践するための殖産興業策に感銘を受けたそう。小楠はただ倹約を勧めるだけでなく、倹約したお金を循環させることで経済を活性化して財政再建するという画期的な考え方で、公正はこれに触発されたということ。

そして公正は、安政5年(1858年)、物産を興し通商貿易を行って収入を図るよう中根雪江や橋本左内に働きかけ、貿易資本の確保と貿易状況の視察を建議。そして藩主春嶽からその合理的な考え方と財政手腕を買われて藩政改革の責任者に抜擢され、小楠から藩のわずかな資金を藩札発行で補い、生糸生産者に貸し付けて養蚕事業を発展させ、長崎や横浜に福井産の生糸を独自の販売ルートで売って外貨を稼ぐという、生産、流通、販売の一元化の専売制実施のアドバイスを実行して、越前福井藩の財政再建に成功。

2-2、公正、春嶽の側用人に 、そして龍馬と会う

公正は、前藩主の春嶽が文久2年(1862年)幕府政事総裁職に就任すると、慶永の側用人に。

そして文久3年(1863年)5月、勝海舟からの推薦で坂本龍馬が初めて福井を訪れた際、福井にいた旧知の横井小楠から、由利公正に会うように勧められたということ。その夜、3人は公正宅で酒を酌み交わしながら歓談。龍馬と公正は大変に気が合い、その後も長く親しい仲に。龍馬は幕府の神戸海軍操練所のための、5000両出資をお願いに来たのですが、龍馬は株式会社への出仕のつもりで利益が入れば還元するつもり、公正も龍馬の説く新たな海軍の構想に共感し、藩を説得して5000両を出資に成功。

しかし、長州征伐について、藩内で征伐不支持と薩摩藩や長州藩など雄藩支持派が対立、公正は、両派の提携を画策したが支持が得られずに福井で蟄居、謹慎処分に。

2-3、公正、へっついを考案

由利公正は、4年間に及んだ謹慎中に、炎の熱を逃さずに、また土の中に埋めるために保温力を増す新型のへっついを考案。
この公正のへっついは、従来のものよりもはるかに燃料が節約できて火力も強いので、昭和10年頃まで「三岡へっつい」とよばれて福井県下で 用いられていたが、最近復刻されたということ。

2-4、大政奉還直後、すぐに龍馬が訪ねてくる

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上野彦馬写真館にて井上俊三が撮影。 – 高知県立民俗歴史資料館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

慶応3年(1867年)11月、大政奉還の直後に坂本龍馬が福井に来訪。謹慎中の公正は、用人松平源太郎と目付の2人の監視役を伴い龍馬の宿泊する莨屋(たばこや)旅館を訪れたとき、「龍馬と呼んだら、ヤー話すことが山ほどあるという、その顔を見ると直ちに天下の事成就と思われた」とのことで、龍馬は京都での情勢を説明、金も兵もないというと、公正は謹慎中に考えた財政対策のことを話すと、龍馬が「みな言え」という感じで、朝8時から夜中まで新国家の構想や日本の将来、金札を発行しなければということについて語り合ったそう。

このときの新しい世の中を作るというふたりの話し合いを聞いた監視役の(それまで佐幕派だった)ひとりの松平源太郎は、側で二人の話を聞いて感心、その後は戊辰戦争に従軍後、民部省に入省、松平正直と改名し宮城県知事や熊本県知事などを務めて後に男爵になったということ。

公正は、晩年までこの時の龍馬との話し合いの楽しさ、喜びについて何度も語ったそうです。

2-5、公正、龍馬の推薦で新政府に出仕

龍馬の進言を受けた新政府は越前福井藩に公正の出仕を迫ったものの、藩の佐幕派がこの要請を無視し、1か月ほど放置されたが、再三の招請で越前福井藩はやっと公正の新政府への出仕を認めたそう。

尚、龍馬が、福井訪問の結果を後藤象二郎に知らせた手紙には、「総じて金銀物産等のことを論じるには、この三岡八郎(公正) を置いて他に人はいない」とあり、最近発見された、暗殺5日前に春嶽の側近の中根雪江に宛てた手紙には、「新国家」という言葉を使い、新政府の財政担当者に公正を出仕させるよう懇願、「先ごろ直接申しあげた、三岡八郎兄のご上京、新政府にご出仕の一件は急を要することと思うので、早急に越前藩のご裁可が下りるよう。三岡兄上のご上京が一日先になったならば、新国家の財政の安定が一日先に、何卒、この一点にご尽力をお願いいたします」と書いてあるということで、如何に龍馬が公正を買っていたかがわかるというもの。

2-6、公正、五箇条の御誓文起草にかかわる

公正は、明治維新後、土佐藩の福岡孝弟らと五箇条の御誓文を起草というか、公正作成の「議事之体大意」が原文。また「議事之体大意」は龍馬の「船中八策」と思想的な基本が共通しているということ。

2-7、公正、戊辰戦争の戦費調達、太政官札発行

明治新政府はほとんど持ち金がなかったため、明治元年(1868年)、公正が金融財政政策を担当、会計事務掛、御用金穀取締として、戊辰戦争の戦費を調達。公正は、御用金(会計基立金)を集めるために京都の大商人に5万両、大坂の大商人に 同じく5万両の調達を命じ(これは後で利子をつけて返却することに)、計10万両の戦費が調達された後には、新政府の国家予算調達のために太政官札(政府が発行した、日本で最初の全国紙幣)300万両の発行を提言。

紙幣の発行で産業振興を図るために大坂で準備に入りました。同年5月には紙幣発行の日が決定したが、紙幣反対論が根強く、公正は、「太政官札が発行されなければ、二条城に保管してある金札に火を付けて、自刃する」と脅して、予定通り発行されたそう。しかし公正は、この太政官札発行で混乱をきたした責任を取って、明治2年(1869年)に辞職。

西郷隆盛は、「公正の金札(太政官札)がなければ、維新はあと数年かかっていただろう」と述懐

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