今日は大久保利通(おおくぼとしみち)について勉強していきます。維新の三傑の一人である大久保利通は明治維新で大きな功績を残した人物です。

生い立ちは下級藩士だったため幼少期こそ目立つ存在ではないが、維新の三傑と称されるだけあって幕末から明治時代にかけては覚えることが多いからここでしっかり学んでおこう。今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から大久保利通をわかりやすくまとめた。

大久保利通の元服後とお由羅騒動

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西郷隆盛との出会いとお由羅騒動による謹慎処分

大久保利通が誕生したのは1830年のことで、家格が御小姓与の下級藩士でした。このため幼少期においては特に彼の存在を示す出来事は起こっていないものの、加治屋町に移住したことで藩校にて西郷隆盛(さいごうたかもり)、吉井友実(よしいともざね)、海江田信義(かいえだのぶよし)らと出会います。

大久保利通は彼らと共に学問を学んで親友関係になり、この時の出会いが大久保利通の将来に大きく影響することになりました。さて、1844年に元服した大久保利通は1846年に藩の記録所書役助として勤め始めます。しかしその4年後……つまり1850年のお由羅騒動の影響によって謹慎処分になったのです。

この謹慎で大久保利通は職も失ってしまい、大久保家は貧しい暮らしを強いることになりました。そして、そんな大久保利通にとって転機となったのが島津斉彬(しまづなりあきら)が藩主になったことで、大久保利通の謹慎は解かれ、1853年には記録所に復職したのです。

お由羅騒動とはどんな争いだったのか

お由羅騒動とは、当時薩摩藩主だった島津斉興(しまづなりおき)の後継者を巡る争いです。島津斉興には正室(正式な妻)との間に5人の子供が生まれており、その長男が1809年に誕生した島津斉彬でした。しかし、島津斉興にはお由羅の方という側室がいて、側室との間にも1817年に子供が誕生したのです。

その子供が島津久光(しまづひさみつ)でしたが、年齢や正室の子という点で考えれば本来なら島津斉興の後継者は島津斉彬しかいないでしょう。しかし、島津斉興はお由羅の方との間に生まれた島津久光を溺愛しており、そのため島津久光を藩の後継者にしようと画策したのです。

最終的には、島津斉興らの画策によって不利な状況に陥っていた島津斉彬が形勢逆転して藩主になりました。ただ、この争いは薩摩藩が二つに分かれるほど激しいもので、事件後は多くの切腹、謹慎、遠島を出すことになったのです。この騒動後、お由羅の方は表立って世に出ることはなく、ひっそりと暮らして寿命を全うしました。

公武合体路線から武力倒幕路線へ

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幕藩体制の再強化を目指した大久保利通

記録所に復職した大久保利通は御蔵役になると、1857年には徒目付(かちめつけ)になって精忠組の領袖として活動します。精忠組とは幕末の薩摩藩に存在していた組織ですが、精忠組の名称自体は後世に命名されたものであり、新選組のように当時本人らがそれを名乗っていたわけではありません。

ここで注目すべきはそのメンバーで、藩校で親友となった西郷隆盛、海江田信義、吉井友実らも含まれていました。そして1858年に島津斉彬が死亡すると、その後は新たな藩主である島津茂久(しまづもちひさ)の父である島津久光に近づきます。

1862年、島津久光を支持する大久保利通は京都の政局に関わることになり、公家の岩倉具視(いわくらともみ)らと公武合体路線を目指しました。公武合体とは幕藩体制の再強化を目的とした政治運動で、つまり大久保利通はこの時幕藩を支持する側だったことが分かり、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の将軍後見職などを進めたのです。

\次のページで「四候会議の頓挫と武力倒幕路線への切り替え」を解説!/

四候会議の頓挫と武力倒幕路線への切り替え

公武合体路線の指向で活動を進めた大久保利通は、1862年に御小納戸頭取に昇進します。またこの昇進によって島津久光の側近となり、さらに翌1863年には御側役へと昇進が続きました。幕府の中で順調に出世していく大久保利通でしたが、1867年の四侯会議が原因で一変して指向が切り替わります。

四候会議とは1867年に京都に設置された諸侯会議のことで、薩摩藩の主導の元に成立していました。また、薩摩藩はこれを機会として政治の主導権を幕府から雄藩連合側へと奪取……つまり、力の強い藩が政治の主導権を握って朝廷中心の公武合体の政治体制にしようとしたのです。

しかし、この四候会議は徳川慶喜によって遂行不能になってしまい短期間で挫折します。大久保利通はこの四候会議の頓挫がきっかけとなり、これまでの公武合体路線から武力倒幕路線へと指向を切り替えたのでした。そして大久保利通だけでなく、薩摩藩全体が倒幕へと舵を切ることになっていきます。

江戸幕府の終わりと明治政府の樹立

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倒幕に向けて動く大久保利通

倒幕に舵を切り替えた大久保利通は、1867年に西郷隆盛らと共に土佐藩と政治的提携を意味する薩土盟約を結びます。これには将軍職の廃止や新政府樹立に関係するものを含んでいましたが、薩摩藩と土佐藩とでお互いの思惑が異なり、そのためわずか2ヶ月半ほどで解消されてしまいました。

大久保利通は新政府樹立を武力によって実現しようとしており、その計画を西郷隆盛らと共に長州藩の柏村数馬(かしわむらかずま)に打ち明けます。そして、それをきっかけとして三藩盟約を結びました。三藩盟約とは藩同士による倒幕を目的とした出兵協定で、文字どおり薩摩藩と長州藩と安芸藩の三つの藩が関係しています。

この時、薩摩藩の代表は大久保利通、長州藩の代表は木戸孝允(きどたかよし)と広沢真臣(ひろさわさねおみ)、安芸藩の代表は植田乙次郎でした。しかし安芸藩は公議政体論の考えもあったため、次第に薩長どちらの藩からも疎まれる結果になりました。このため、その後の倒幕へ向けた動きは薩摩藩と長州藩によって進められていきます。

王政復古の大号令による新政府の樹立

1867年、大久保利通は正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねはる)から討幕の密勅の詔書を引き出してこれに署名します。討幕の密勅とは、薩摩藩と長州藩に下された徳川慶喜討伐の詔書であり、詔書とは天皇の命令を直接伝える国家の公文書のことで、幕府を倒す寸前の状況になりました。

しかし、この翌日に将軍の徳川慶喜が大政奉還を行います。そこで、大久保利通は岩倉具視らと共に王政復古の大号令を実行して新体制の樹立を決定しました。王政復古の大号令によって江戸幕府は廃止、またそれに伴い摂政や関白なども廃止、新たな三職を設置する新政府の樹立が宣言されたのです。

ちなみに、王政復古の大号令を実行したのは大政奉還後も徳川慶喜が政治に関わろうとしたためだとされています。徳川慶喜が政治に関わる限り、幕府が実権を握っているのと変わらないと判断したのでしょう。これで幕府の時代が幕を閉じ、日本は明治政府による新時代が訪れることになりました。

\次のページで「西郷隆盛との決別と西南戦争」を解説!/

西郷隆盛との決別と西南戦争

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政治政策による西郷隆盛との衝突

明治維新後、大久保利通は様々な政治政策に取りかかります。1868年には太政官(日本の律令制において司法と行政と立法を司る最高国家機関)にて大阪へと都を移すことを主張しました。さらに太政官の官職となる参議に就任すると、中央集権体制を確立させるため1869年には版籍奉還、1871年には廃藩置県を行ったのです。

ただ、ここで西郷隆盛との衝突が起こりました。衝突の原因は朝鮮への対応で、当時朝鮮は以前の日本同様に鎖国体制をとっており、西郷隆盛らは武力によって朝鮮を開国させようと主張したのです。これが征韓論と呼ばれるもので、ただ西郷隆盛の場合は即時の出兵ではなく使節を送って開国を勧めようとする考えでした。

大久保利通らはこれに反対、結局この衝突が原因で西郷隆盛は明治政府を辞職します。ただ、実際には大久保利通らは西郷隆盛の身を案じて反対したとされており、使節として西郷隆盛が朝鮮に赴くことで殺害されてしまう危険性を考慮したのです。

西南戦争と親友・西郷隆盛の死

明治政府の打ち出した政策は士族にとって不満に感じるものでした。大久保利通らは国家の経済を発展させて軍事力の増強を促す富国強兵を理念にしていましたが、藩を失う廃藩置県などは納得できるものではなかったのでしょう。

このため、日本ではたびたび士族による暴動が起こっており、反乱を危惧した西郷隆盛は鹿児島に私学校を建てて士族の教育に励みます。しかし、明治政府はそんな西郷隆盛をむしろ危険視、士族達を束ねる驚異的なリーダーになるかもしれないと考えたのです。

そこで明治政府は鹿児島にある弾薬を大阪へ移そうとした上、さらに西郷隆盛の暗殺計画まで立てます。しかし、これが発覚してしまったことで明治政府は薩摩軍と衝突……1877年に日本国内において最後の内戦である西南戦争が勃発したのです。そして、大久保利通の親友であり同志であった西郷隆盛の死によって西南戦争は終結しました。

大久保利通暗殺とその後の影響

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\次のページで「大久保利通の暗殺・紀尾井坂の変」を解説!/

大久保利通の暗殺・紀尾井坂の変

維新の三傑と呼ばれる功績を残した大久保利通でしたが、最期は暗殺という意外な形で人生の幕を下ろします。これが1878年の5月14日に起こった紀尾井坂の変で、大久保利通は6人の不平士族(新政府に反発する士族)によって暗殺されました。

西南戦争も士族の不満が原因になりましたが、当時はこれまでの特権を奪われたことで士族の不満が蔓延していた時代です。そして、そんな士族にとって明治政府は敵でしたから、当然政府の人間である大久保利通も敵だと考えたのでしょう。

大久保利通の暗殺は綿密に計画されており、ルートなどの下調べも行ってありました。そして、暗殺の主犯は征韓論の支持者だったのです。上記で解説したとおり征韓論は西郷隆盛の提案であり、その提案に反対したのが大久保利通でしたから、それも暗殺した理由の一つに違いないでしょう。

大久保利通の暗殺による影響

大久保利通の葬儀に参列したのは約1200人、費用も4500円余りで、これは近代日本史上で最初の国葬級の葬儀だったようです。また、当時は政治家に護衛をつけることはなかったのですが、この事件がきっかけとなって護衛をつけることが制度化されました。

死後の遺骨は故郷である鹿児島にはかえされなかったようで、これは西南戦争の影響で大久保利通が鹿児島から嫌われていたためでしょう。このため大久保利通の遺骨は東京の青山霊園に眠っており、それは立派なお墓です。

こうして、大久保利通は暗殺という悲劇で突如人生の幕を下ろすことになりました。ただ、彼の行った政治政策の多くが現代の日本の基礎になっており、維新の三傑としてだけでなく、一人の政治家として確かな功績と名を残したのです。

戦争よりも政治政策を覚えておこう

幕末から明治時代にかけての歴史を学ぶ時、大抵は戊辰戦争や西南戦争など大きな戦いから覚えていく人が多いでしょう。しかし、大久保利通は戦いではなく政治で功績を残した人物ですから、覚えるべきポイントは政治政策です。

特に明治政府が立て続けに行った版籍奉還、廃藩置県、地租改正などの政治政策はしっかり覚えておいてください。また、大久保利通の最期においては暗殺とだけでなく、その事件の名称と起こった年号も必ず覚えておきましょう。

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維新の三傑の一人「大久保利通」を元塾講師が分かりやすくわかりやすく解説!3分で簡単大久保利通の一生

今日は大久保利通(おおくぼとしみち)について勉強していきます。維新の三傑の一人である大久保利通は明治維新で大きな功績を残した人物です。

生い立ちは下級藩士だったため幼少期こそ目立つ存在ではないが、維新の三傑と称されるだけあって幕末から明治時代にかけては覚えることが多いからここでしっかり学んでおこう。今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から大久保利通をわかりやすくまとめた。

大久保利通の元服後とお由羅騒動

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西郷隆盛との出会いとお由羅騒動による謹慎処分

大久保利通が誕生したのは1830年のことで、家格が御小姓与の下級藩士でした。このため幼少期においては特に彼の存在を示す出来事は起こっていないものの、加治屋町に移住したことで藩校にて西郷隆盛(さいごうたかもり)、吉井友実(よしいともざね)、海江田信義(かいえだのぶよし)らと出会います。

大久保利通は彼らと共に学問を学んで親友関係になり、この時の出会いが大久保利通の将来に大きく影響することになりました。さて、1844年に元服した大久保利通は1846年に藩の記録所書役助として勤め始めます。しかしその4年後……つまり1850年のお由羅騒動の影響によって謹慎処分になったのです。

この謹慎で大久保利通は職も失ってしまい、大久保家は貧しい暮らしを強いることになりました。そして、そんな大久保利通にとって転機となったのが島津斉彬(しまづなりあきら)が藩主になったことで、大久保利通の謹慎は解かれ、1853年には記録所に復職したのです。

お由羅騒動とはどんな争いだったのか

お由羅騒動とは、当時薩摩藩主だった島津斉興(しまづなりおき)の後継者を巡る争いです。島津斉興には正室(正式な妻)との間に5人の子供が生まれており、その長男が1809年に誕生した島津斉彬でした。しかし、島津斉興にはお由羅の方という側室がいて、側室との間にも1817年に子供が誕生したのです。

その子供が島津久光(しまづひさみつ)でしたが、年齢や正室の子という点で考えれば本来なら島津斉興の後継者は島津斉彬しかいないでしょう。しかし、島津斉興はお由羅の方との間に生まれた島津久光を溺愛しており、そのため島津久光を藩の後継者にしようと画策したのです。

最終的には、島津斉興らの画策によって不利な状況に陥っていた島津斉彬が形勢逆転して藩主になりました。ただ、この争いは薩摩藩が二つに分かれるほど激しいもので、事件後は多くの切腹、謹慎、遠島を出すことになったのです。この騒動後、お由羅の方は表立って世に出ることはなく、ひっそりと暮らして寿命を全うしました。

公武合体路線から武力倒幕路線へ

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幕藩体制の再強化を目指した大久保利通

記録所に復職した大久保利通は御蔵役になると、1857年には徒目付(かちめつけ)になって精忠組の領袖として活動します。精忠組とは幕末の薩摩藩に存在していた組織ですが、精忠組の名称自体は後世に命名されたものであり、新選組のように当時本人らがそれを名乗っていたわけではありません。

ここで注目すべきはそのメンバーで、藩校で親友となった西郷隆盛、海江田信義、吉井友実らも含まれていました。そして1858年に島津斉彬が死亡すると、その後は新たな藩主である島津茂久(しまづもちひさ)の父である島津久光に近づきます。

1862年、島津久光を支持する大久保利通は京都の政局に関わることになり、公家の岩倉具視(いわくらともみ)らと公武合体路線を目指しました。公武合体とは幕藩体制の再強化を目的とした政治運動で、つまり大久保利通はこの時幕藩を支持する側だったことが分かり、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の将軍後見職などを進めたのです。

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