日本史歴史飛鳥時代

日本を律令国家へと推し進めた「天武天皇」と「持統天皇」夫婦を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

壬申の乱の経過

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Guretaro – 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる

挙兵するにあたり、大海人皇子はまず吉野を脱出して美濃(岐阜県南部)へ向かいます。「湯沐邑」といって、当時の一部の皇族に与えられた領地があり、大海人皇子の湯沐邑は美濃にありました。そこに置いていた臣下たちとともに兵を挙げたのです。

さらに、大海人皇子に味方する大友吹負が飛鳥の地を急襲し、占拠に成功します。他にも皇族の一部や近江の豪族などが大海人皇子に寝返ろうとして、朝廷に動揺が広がりつつありました。

そうして、琵琶湖東岸で起こった「瀬田橋の戦い」で近江朝廷軍を打ち破り、大友皇子を自害へと追いやったのです。

敗れた大友皇子

「壬申の乱」で敗れ、自害した大友皇子ですが、実はすでに即位していたという説もあります。在位は天智天皇の崩御から壬申の乱が終わるまでの約半年と本当に短いものです。そのため、即位に関する儀式が行われずに歴代天皇には数えられなかったとか。

ただし、明治になってから「弘文天皇」と追号されています。

2.天武天皇即位と大事業の開始

毎年、秋の終わりには、天皇がその年にとれた五穀を神様にお供えして祝詞をあげる新嘗祭があります。いわゆる収穫祭ですね。特に、天皇が新たに即位した最初の年に行われる新嘗祭は「大嘗祭」といって、皇位継承の儀式となります。開催日は11月23日で、勤労感謝の日の由来となりました。

大海人皇子の大嘗祭は盛大に行われ、天武天皇となりました。

『古事記』と『日本書紀』の編纂事業

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不明http://www.emuseum.jp/cgi/pkihon.cgi?SyoID=4&ID=w012&SubID=s000, パブリック・ドメイン, リンクによる

大本のきっかけとなったのは、蘇我氏を滅ぼした「乙巳の変」。その際に、蘇我蝦夷が自宅に火をかけ、書庫に保管されていた『天皇記』や『国記』といった歴史書を焼失させてしまったことにさかのぼります。失われた歴史書に代わるものが必要だったんですね。

天武天皇はまず稗田阿礼(ひえだのあれ)らに命じて『古事記』を編纂させ、その後、焼け残った歴史書や難を逃れた歴史書をもとに『日本書紀』を編纂します。『古事記』の編纂によって、天皇家は太陽の神様・天照大神の孫(天孫)に連なるという系譜を整えました。

唐を倣った国のシステム

当時のアジアの中心国家として君臨していた「唐」。日本は遣唐使を送って唐から技術や学問などさまざまなものを持ち帰らせます。そのなかには、「律令」や「条坊制」といった重要なものも含まれていました。

天武天皇は即位後に飛鳥浄御原宮(奈良県明日香村)へ遷都して、そこで「飛鳥浄御原令」の編纂、さらに新たなる都として「藤原京」の建設に着手します。しかし残念ながら、このふたつは天武天皇の代には完成しません。ともに天武天皇の後を継いだ皇后・鸕野讃良、もとい、持統天皇が完成させるのです。

ちなみに、「白村江の戦い」での敗戦後、日本は唐からの侵略に備えつつも、同時に遣唐使を送って悪化した唐との関係改善の交渉を続けていました。

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