古代日本最大の内乱「壬申の乱」で勝利して天皇となった「天武天皇」は、大陸の唐の国にならった法律を日本にも作ろうとした天皇です。そして、天武天皇亡きあとは皇后だった「持統天皇」がその大仕事を後を引き継ぐ。

今回はそんな「天武天皇」と「持統天皇」夫婦について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。今回は中大兄皇子にスポットライトを当てて飛鳥時代をさらに詳しく解説していく。

1.古代日本最大の内乱「壬申の乱」

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天智天皇の跡継ぎ争い

飛鳥時代、大和朝廷を牛耳っていた蘇我氏を滅ぼし、「大化の改新」で政治に新しい風を吹き込んだ中大兄皇子こと、天智天皇。「白村江の戦い」の敗戦あと、唐の侵略を恐れて防衛に徹して北九州の大宰府を守る水城を建設し、要所に防人を配置していました。しかし、「庚午年籍」を作成した翌671年の年の瀬に病で帰らぬ人となります。

当時の皇位継承権は、天皇の子息よりも、天皇の兄弟や配偶者のほうが優先されていました。天智天皇の皇太子(次の天皇となる人。東宮とも)も例にもれず、当初は皇弟・大海人皇子が指名されています。先にネタバレしてしまうと、この大海人皇子こそ後の天武天皇となる皇子です。大海人皇子は、皇太子になる以前から天智天皇の下でバリバリに仕事をこなす有能な人材でしたから、大海人皇子が皇太子になるのはごく自然なことでした。

けれど、671年になって唐突に天智天皇は大海人皇子を要職から外してしまうのです。そうして、大海人皇子の代わりに要職に就いたのが天智天皇の息子・大友皇子でした。この急な人事異動により、大友皇子は次の天皇に推されるようになったのです。

大海人皇子、出家する

そんな状況のなか、天智天皇は重い病にかかってしまいました。そして、弟の大海人皇子を枕元に呼び出すと、「天皇の座を継いでほしい」と後事を託そうとするのです。それに対して「皇位は皇后に、政務は大友皇子にお譲りしてください。私は天皇の病気が治るよう祈るために出家いたします」と大海人皇子は辞退して奈良県南部の吉野に去っていきました。

「出家」は、現代の感覚よりももうちょっと重い意味合いを持ちます。それまで親しんでいた家や家族、人間関係に地位などの「俗世」を捨てて、僧侶として仏に帰依するのです。たとえ皇族、元皇太子であっても出家して僧侶となれば関係ありません。

大海人皇子はそうして煩わしい人間関係や権力争いから遠ざかり吉野へと出立したのでした。しかし、このとき多くの近臣たちが大海人皇子について行ってしまい、天智天皇の近江大津宮とは別の新たな勢力となったのです。

一方、大友皇子も左大臣・蘇我赤兄など近臣を五名集め、仏の前で「天皇の命令を守ることを誓う」と誓約を立てました。

大海人皇子と大友皇子はお互いに仏を介して平和的に譲位する形を取りながらも、しかし、対立の緊張が解けることはありませんでした。そしてついに、671年の年の瀬に天智天皇が崩御して、年が明けた翌年に「壬申の乱」がおこります。

大海人皇子と妻・鸕野讃良皇女

大海人皇子が吉野へ隠居したとき、妻の鸕野讃良(うのささら、うののさらら)皇女と息子の草壁皇子を連れ立って行ったとされています。こちらも先に言ってしまうと、鸕野讃良皇女は後の持統天皇です。『日本書紀』には「大海人皇子は鸕野讃良皇女と共謀した」と書かれているので、鸕野讃良皇女も積極的に乱に参加していたのでしょう。

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壬申の乱の経過

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Guretaro - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる

挙兵するにあたり、大海人皇子はまず吉野を脱出して美濃(岐阜県南部)へ向かいます。「湯沐邑」といって、当時の一部の皇族に与えられた領地があり、大海人皇子の湯沐邑は美濃にありました。そこに置いていた臣下たちとともに兵を挙げたのです。

さらに、大海人皇子に味方する大友吹負が飛鳥の地を急襲し、占拠に成功します。他にも皇族の一部や近江の豪族などが大海人皇子に寝返ろうとして、朝廷に動揺が広がりつつありました。

そうして、琵琶湖東岸で起こった「瀬田橋の戦い」で近江朝廷軍を打ち破り、大友皇子を自害へと追いやったのです。

敗れた大友皇子

「壬申の乱」で敗れ、自害した大友皇子ですが、実はすでに即位していたという説もあります。在位は天智天皇の崩御から壬申の乱が終わるまでの約半年と本当に短いものです。そのため、即位に関する儀式が行われずに歴代天皇には数えられなかったとか。

ただし、明治になってから「弘文天皇」と追号されています。

2.天武天皇即位と大事業の開始

毎年、秋の終わりには、天皇がその年にとれた五穀を神様にお供えして祝詞をあげる新嘗祭があります。いわゆる収穫祭ですね。特に、天皇が新たに即位した最初の年に行われる新嘗祭は「大嘗祭」といって、皇位継承の儀式となります。開催日は11月23日で、勤労感謝の日の由来となりました。

大海人皇子の大嘗祭は盛大に行われ、天武天皇となりました。

『古事記』と『日本書紀』の編纂事業

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不明 - http://www.emuseum.jp/cgi/pkihon.cgi?SyoID=4&ID=w012&SubID=s000, パブリック・ドメイン, リンクによる

大本のきっかけとなったのは、蘇我氏を滅ぼした「乙巳の変」。その際に、蘇我蝦夷が自宅に火をかけ、書庫に保管されていた『天皇記』や『国記』といった歴史書を焼失させてしまったことにさかのぼります。失われた歴史書に代わるものが必要だったんですね。

天武天皇はまず稗田阿礼(ひえだのあれ)らに命じて『古事記』を編纂させ、その後、焼け残った歴史書や難を逃れた歴史書をもとに『日本書紀』を編纂します。『古事記』の編纂によって、天皇家は太陽の神様・天照大神の孫(天孫)に連なるという系譜を整えました。

唐を倣った国のシステム

当時のアジアの中心国家として君臨していた「唐」。日本は遣唐使を送って唐から技術や学問などさまざまなものを持ち帰らせます。そのなかには、「律令」や「条坊制」といった重要なものも含まれていました。

天武天皇は即位後に飛鳥浄御原宮(奈良県明日香村)へ遷都して、そこで「飛鳥浄御原令」の編纂、さらに新たなる都として「藤原京」の建設に着手します。しかし残念ながら、このふたつは天武天皇の代には完成しません。ともに天武天皇の後を継いだ皇后・鸕野讃良、もとい、持統天皇が完成させるのです。

ちなみに、「白村江の戦い」での敗戦後、日本は唐からの侵略に備えつつも、同時に遣唐使を送って悪化した唐との関係改善の交渉を続けていました。

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天武天皇の崩御と長いもがり

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天武天皇は、さまざまな大事業に着手するも完成を待たずして病に倒れ、崩御してしまいました。そうして天武天皇の二年におよぶ「もがり」がはじまったのです。「もがり」というのは古代日本で行われていた葬儀儀礼で、棺におさめた遺体が白骨化するまでの長期間にわたります。

皇太子は天武天皇と鸕野讃良の息子・草壁皇子でしたが、草壁皇子はこのもがりの間に若くして亡くなってしまうのです。そこで、草壁皇子の子どもで、天武天皇の孫にあたる軽皇子に白羽の矢が立ちました。しかし、軽皇子は幼すぎるために、軽皇子の成長まで皇后・鸕野讃良自らが即位して持統天皇となり、天武天皇の大事業を引き継ぐこととなったのです。

日本最初の法律「飛鳥浄御原令」

天武天皇の事業を引き継ぎ、持統天皇は「飛鳥浄御原令」を発布しました。「律令」を平たく説明すると、「律」は刑法、「令」はそれ以外の行政法のことを指す言葉です。

「飛鳥浄御原令」は、唐の律令に倣った日本最初の体系的な律令ですが、「律(刑法)」を唐のものそのままでした。なので、内容が日本に合っていないところが多くありました。これは草壁皇子の急死による朝廷の動揺を抑えつつ、天武天皇の遺志を継承していることを示すために、予定を前倒ししたためだと考えられています。

しかしながら、「飛鳥浄御原令」を書き記したものは現存せず、詳しい内容はわかりません。すべて完成された内容ではなかったため、その後も律令の編纂が続き、後に刑法もしっかりととのった「大宝律令」へと繋がっていくのです。

「条坊制」の都・藤原京と白鳳文化

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パパイヤ - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる

唐から学んだ「条坊制」をもとにして造られた中国風都城の「藤原京」。「条坊制」とは、中国の儒教の経典『周礼』の思想に基づいて造られる都市計画のこと。さらに風水の四神相応の思想も取り入れて、宮から伸びる四つの大通りには玄武、青龍、朱雀、白虎の名前がついています。これは後の平城京などでも見られ、四神の守護を得るための配置です。

藤原京は飛鳥浄御原の北西部、現在の奈良県橿原市のあたりに建設され、その跡が残っています。のちに建設される平城京や平安京より大きく、実は古代最大の都なんですよ。

また、それまでの飛鳥文化から変わって、唐の影響を強く受けたおおらかな白鳳文化が花開いたのも藤原京でした。天皇や貴族を中心とした華やかな文化で、『万葉集』に登場する額田王や柿本人麻呂などの歌人を排出した時代でした。

金属貨幣「富本銭」

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Carpkazu - 投稿者のコレクションを撮影, パブリック・ドメイン, リンクによる

683年ごろに日本で作られたと推定されている「富本銭」。私が子どものころは708年の「和同開珎」が最古だと言われていたんですけど、1998年に大量にこの「富本銭」が出土したことによってその常識が改められました。しかし、「富本銭」が日本最古かと言われればそうではなく、実は、天武天皇時代に「無文銀銭」という銀の貨幣があって、それが日本最古の貨幣になるのです。

ただし、「富本銭」が実際に流通していたのか、あるいはおまじないの道具としてだけ使われていたのかなど、不明な点は多く残っています。

3.「大宝律令」の制定

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\次のページで「「大宝律令」に関わる持統天皇」を解説!/

「大宝律令」に関わる持統天皇

孫の軽皇子が15歳になると、持統天皇は譲位して太上天皇(上皇)となります。この当時、天皇は亡くなるまでずっと天皇であって、途中で譲位するということは滅多にありません。持統天皇は存命中に譲位した二番目の天皇であり、初の太上天皇となりました。

しかし、もう天皇ではないからと言って政治から遠ざかることはありません。持統上皇は孫の文武天皇(軽皇子)と並んで政務に携わると、「大宝律令」の制定に関わっていたと考えられています。

日本史上初の本格的な律令「大宝律令」

「大宝律令」は701年に文武天皇によって発布された日本史上初の本格的な法律とされています。持統天皇によって発布された「飛鳥浄御原令」は日本初の律令でしたが、先述した通り、律(刑法)は唐のものそのままだったため、日本の実情に合わないという欠点がありました。「大宝律令」はそれを克服したものなんですね。

その内容は、朝廷の官庁の部署を定めたものから、僧侶たちを統制する規定など、行政法から民法までの多岐に渡りました。

天皇中心の律令国家をまとめあげた夫婦

古代日本における最大の内乱「壬申の乱」から始まり、「大宝律令」の制定まで日本を天皇中心の律令国家へとまとめあげた天武天皇と持統天皇の夫婦。

最初こそ完ぺきではなかった「飛鳥浄御原令」でしたが、孫の文武天皇の代には「大宝律令」として完成させました。さらに、唐に倣った都づくりは後の平城京や平安京へも受け継がれていきます。

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日本史歴史飛鳥時代

日本を律令国家へと推し進めた「天武天皇」と「持統天皇」夫婦を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

古代日本最大の内乱「壬申の乱」で勝利して天皇となった「天武天皇」は、大陸の唐の国にならった法律を日本にも作ろうとした天皇です。そして、天武天皇亡きあとは皇后だった「持統天皇」がその大仕事を後を引き継ぐ。

今回はそんな「天武天皇」と「持統天皇」夫婦について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。今回は中大兄皇子にスポットライトを当てて飛鳥時代をさらに詳しく解説していく。

1.古代日本最大の内乱「壬申の乱」

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天智天皇の跡継ぎ争い

飛鳥時代、大和朝廷を牛耳っていた蘇我氏を滅ぼし、「大化の改新」で政治に新しい風を吹き込んだ中大兄皇子こと、天智天皇。「白村江の戦い」の敗戦あと、唐の侵略を恐れて防衛に徹して北九州の大宰府を守る水城を建設し、要所に防人を配置していました。しかし、「庚午年籍」を作成した翌671年の年の瀬に病で帰らぬ人となります。

当時の皇位継承権は、天皇の子息よりも、天皇の兄弟や配偶者のほうが優先されていました。天智天皇の皇太子(次の天皇となる人。東宮とも)も例にもれず、当初は皇弟・大海人皇子が指名されています。先にネタバレしてしまうと、この大海人皇子こそ後の天武天皇となる皇子です。大海人皇子は、皇太子になる以前から天智天皇の下でバリバリに仕事をこなす有能な人材でしたから、大海人皇子が皇太子になるのはごく自然なことでした。

けれど、671年になって唐突に天智天皇は大海人皇子を要職から外してしまうのです。そうして、大海人皇子の代わりに要職に就いたのが天智天皇の息子・大友皇子でした。この急な人事異動により、大友皇子は次の天皇に推されるようになったのです。

大海人皇子、出家する

そんな状況のなか、天智天皇は重い病にかかってしまいました。そして、弟の大海人皇子を枕元に呼び出すと、「天皇の座を継いでほしい」と後事を託そうとするのです。それに対して「皇位は皇后に、政務は大友皇子にお譲りしてください。私は天皇の病気が治るよう祈るために出家いたします」と大海人皇子は辞退して奈良県南部の吉野に去っていきました。

「出家」は、現代の感覚よりももうちょっと重い意味合いを持ちます。それまで親しんでいた家や家族、人間関係に地位などの「俗世」を捨てて、僧侶として仏に帰依するのです。たとえ皇族、元皇太子であっても出家して僧侶となれば関係ありません。

大海人皇子はそうして煩わしい人間関係や権力争いから遠ざかり吉野へと出立したのでした。しかし、このとき多くの近臣たちが大海人皇子について行ってしまい、天智天皇の近江大津宮とは別の新たな勢力となったのです。

一方、大友皇子も左大臣・蘇我赤兄など近臣を五名集め、仏の前で「天皇の命令を守ることを誓う」と誓約を立てました。

大海人皇子と大友皇子はお互いに仏を介して平和的に譲位する形を取りながらも、しかし、対立の緊張が解けることはありませんでした。そしてついに、671年の年の瀬に天智天皇が崩御して、年が明けた翌年に「壬申の乱」がおこります。

大海人皇子と妻・鸕野讃良皇女

大海人皇子が吉野へ隠居したとき、妻の鸕野讃良(うのささら、うののさらら)皇女と息子の草壁皇子を連れ立って行ったとされています。こちらも先に言ってしまうと、鸕野讃良皇女は後の持統天皇です。『日本書紀』には「大海人皇子は鸕野讃良皇女と共謀した」と書かれているので、鸕野讃良皇女も積極的に乱に参加していたのでしょう。

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