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ライバルは足利尊氏!鎌倉幕府を滅亡させた「新田義貞」について元塾講師が分かりやすく5分で解説

新田義貞の死

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湊川の戦いの決着

九州で勢力を拡大した足利尊氏は、1336年の湊川の戦いにて再び新田義貞と楠木正成の軍を相手に戦います。この戦いで足利尊氏は勝利、2人の軍が敗北したことは建武の新政の終わりを示しており、翌1337年に足利尊氏は京都を手中におさめたのでした。

しかし、敗北した新田義貞は後醍醐天皇への忠誠心が高く、この状況においても足利尊氏の進撃を食い止めようとします。ただ、当の後醍醐天皇にもはやその考えはなく、敗北を認めてのことなのか足利尊氏と和平を結ぼうとしました。その行為は新田義貞にとって裏切りに等しいものだったでしょう。

そこで新田義貞は、後醍醐天皇の皇子である恒良親王(つねよししんのう)を自軍の勢力にして越前へと逃れます。一方、足利尊氏は新政権の樹立を着々と進めており、やがて新たな武家政権となる室町幕府を開設、金ヶ崎城に移っていた新田義貞を倒すために軍を向かわせ、完全包囲の末に落城まで追い込みました。

追い詰められた新田義貞の死

金ヶ崎城を落城に追い込まれた新田義貞でしたが彼はまだ生きており、その身体で京都を目指そうとします。そこに降り注ぐ室町幕府の軍による容赦ない激しい攻撃、藤島の戦いによって致命傷を受けた新田義貞は自害して自ら死を選び、戦死という形でその生涯に幕を降ろしたのでした。

さて、時代はここから南北朝時代へと進みます。室町幕府を開いた足利尊氏に対して後醍醐天皇は納得しておらず、しかし天皇の座まで奪われたことで既に権限は失われていました。そこで後醍醐天皇はひそかに京都を脱出、奈良の吉野にて自ら朝廷を作って天皇として君臨します

京都の朝廷・天皇に対して後醍醐天皇が吉野に朝廷を作って自ら天皇となったことで、日本は2つの朝廷と2人の天皇が存在する事態となったのです。これがいわゆる南北朝時代であり、京都にあたる北吉野にあたる南に朝廷が存在することが時代の名前の由来になっています。

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幼い頃からライバル視していた足利尊氏、その決着をつける戦いに敗れた新田義貞はまだ諦めていなかった。後醍醐天皇の和平に絶望しながらも戦い続けたが、最期は戦いで致命傷を負ったことで自害して自ら死を選んだ。

鎌倉時代末期から南北朝時代始まりまでを覚えよう

新田義貞は政権を掌握した人物ではありません。このため新田義貞だけで考えるなら、参加した戦いと鎌倉幕府滅亡の功績さえ覚えておけば良いでしょう。ただ、歴史の勉強となるとそうはいきません。

新田義貞を覚えるからには鎌倉幕府、建武の新政、南北朝時代を覚える必要がありますし、足利尊氏、楠木正成、後醍醐天皇を覚える必要もあります。鎌倉時代の終わりから南北朝時代の始まりまでを覚えていけば、おのずと新田義貞の知識も身についているはずです。

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shintomoyui0311