日本史

ライバルは足利尊氏!鎌倉幕府を滅亡させた「新田義貞」について元塾講師が分かりやすく5分で解説

倒幕運動の活発化

後醍醐天皇の軍と鎌倉幕府の討伐軍は、1331年に笠置山の戦いにて衝突しますが、この戦いに勝利したのは鎌倉幕府の討伐軍です。そして、倒幕を計画した後醍醐天皇は隠岐島へと島流しの処分となり、これにて後醍醐天皇の倒幕計画は完全に失敗したかのように思われました。

しかし、後醍醐天皇を島流しにしたことで、鎌倉幕府が安泰となったわけではありません。と言うのも、この頃は悪党と呼ばれる反幕勢力が各地で活動を行っていたからで、後醍醐天皇の挙兵に加わっていた楠木正成や後醍醐天皇の皇子である護良親王(もりよししんのう)もその1人でした。

楠木正成は討伐軍に追い詰められた時に姿を隠していたものの、1332年には再び姿を現わして活発化する倒幕運動に参加します。鎌倉幕府はこれに対抗するため楠木正成の討伐軍を結成、新田義貞はそこに加えられ、討伐軍として楠木正成の軍と戦うことになるのです

反旗を翻した新田義貞

1333年、楠木正成の軍と新田義貞が加わる鎌倉幕府の討伐軍の戦いである千見城の戦いが始まります。楠木正成の軍は言わば倒幕軍でもあり、後醍醐天皇の挙兵の時には討伐軍に敗北しましたが、この戦いでは奇襲を仕掛けて勝利、鎌倉幕府の討伐軍を倒すことに成功したのです。

一方、敗北した鎌倉幕府の討伐軍……その1人である新田義貞の心にあるのは鎌倉幕府への不満でした。何しろ、新田義貞は高額な税金を徴収されており、また鎌倉幕府の使者を殺害したことのある前歴から所領も没収されています。鎌倉幕府の討伐軍として参加しながらも、心は倒幕軍に近いものがあったのでしょう。

そんな新田義貞はついに倒幕を決意、反旗を翻して後醍醐天皇の側について挙兵しました。これに同意した者は多く、新田義貞の軍勢は増えに増えて最終的には20万人ほどにもなったとされています。そして、ついに新田義貞は鎌倉幕府の軍と衝突、それは1333年の5月のことでした。

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後醍醐天皇は島流しにされても倒幕を諦めておらず、各地でも倒幕運動が活発になっていた。新田義貞はそんな倒幕派を討伐する側とした戦うものの、千見城の戦いで楠木正成に敗北して以降、反旗を翻して倒幕派として挙兵した。

鎌倉幕府の滅亡と建武の新政の始まり

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新田義貞の快進撃

1333年5月に新田義貞は鎌倉幕府の軍と衝突、この戦いを小手指原の戦いと呼びます。小手指原の戦いで行われた戦闘は30回以上にも及び、両軍の決着がつかないまま終わるものの、戦いを有利に展開したのは新田義貞の軍であり、そのため鎌倉幕府の軍が撤退したことで戦いは終わりました。

次に起こったのが分倍河原の戦い、ここでは新田義貞が窮地に陥ります。鎌倉幕府の軍に増援部隊が加わったことで新田義貞は追い込まれ、敗走して退却を余儀なくされますが、しかしそこで新田義貞の軍にも応援の軍勢が駆け付けたため、反撃に成功して鎌倉幕府の軍に勝利しました。

さらに勝利を重ねる新田義貞、関戸の戦い由比ヶ浜の戦い東勝寺合戦でも快進撃を続けていき、同年ついて鎌倉に攻め込んで鎌倉幕府を滅亡させたのです。島流しにされた後醍醐天皇も島を脱出しており、新田義貞は新時代の幕開けに大きく貢献、これより武将や武士ではなく、天皇を中心とした新たな政治が始まります。

後醍醐天皇による建武の新政

鎌倉幕府滅亡後、これまで政治の主導権を握られていた朝廷の後醍醐天皇がトップに立ち、天皇を中心とした建武の新政が始まります。新田義貞は鎌倉幕府を滅亡させた功績から、褒美として従四位上・左馬助・播磨守に任じられました。しかし、それ以上の褒美を与えられていたのが、新田義貞がライバル視している足利尊氏です。

足利尊氏もまた当初は鎌倉幕府の軍として戦っていましたが、新田義貞同様に反旗を翻して後醍醐天皇についた者の1人でした。足利尊氏は隠岐島から脱出した後醍醐天皇の討伐に向かうものの、倒幕へと心を変えて六波羅探題を滅ぼしたのです。そんな足利尊氏に与えられた褒美は、新田義貞のさらに上をいくものでした。

足利尊氏は従三位・鎮守府将軍・武蔵守に任じられ、さらに後醍醐天皇の「尊治(たかはる)」の「尊」の文字までもらいます。実は、足利尊氏は時系列において正確にはこれまで足利高氏だったのですが、これを機に足利尊氏と改名したのです。ともあれ、こうして建武の新政が始まるのでした。

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補足しておくと、ここでは「足利尊氏」に統一しているが、後醍醐天皇に「尊」の文字をもらうまで彼は「足利高氏」として生きてきた。つまり鎌倉時代に登場する足利高氏は、足利尊氏と同一人物だと解釈してくれ。

足利尊氏の裏切り

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足利尊氏討伐を命じられた新田義貞

建武の新政の人々の評価は決して高くなく、その不満の高さは鎌倉幕府以上のものでした。公家を優遇する建武の新政に多くの武士が反発、また非現実的な政治政策は同じ朝廷の公家からも冷笑される始末であり、足利尊氏もまた建武の新政に限界を感じていたようです。

そんな中、1335年に北条氏の残党・北条時行らが鎌倉幕府の復活を目的に反乱を起こして鎌倉を制圧します。これが中先代の乱と呼ばれるもので、当時鎌倉には足利尊氏の弟がいたため、足利尊氏は救出のために後醍醐天皇に許可を得ることなく真っ先に反乱の鎮静へと向かいました。

そして足利尊氏はそのまま京都に帰ることはなく、鎌倉を拠点として自らトップに立って新たな武家政権を誕生させようとしたのです。そんな足利尊氏の身勝手な行動を後醍醐天皇が許すはずはなく、足利尊氏の討伐を命令、そしてこの時討伐を命じられたのが新田義貞でした。

新田義貞と足利尊氏の戦い

新田義貞がライバル視していた足利尊氏との直接対決でしたが、ここで有利だったのは新田義貞でした。と言うのも、後醍醐天皇は北畠顕家(きたばたけあきいえ)にも足利尊氏の討伐を命じており、奥州から南下してきた北畠顕家によって足利尊氏を挟み撃ちできたからです。

しかし足利尊氏は強く、箱根・竹ノ下の戦いで新田義貞の軍を倒すと後醍醐天皇を比叡山まで追いやって京都に入ります。一方、敗北した新田義貞でしたが、ここで彼に力を貸したのが鎌倉時代に敵として戦ったこともあるあの楠木正成でした。新田義貞の軍は体制を立て直し、さらに楠木正成の軍が加勢したことで勢いを取り戻します。

さらに南下してきた北畠顕家の軍も京都に入り、さすがの足利尊氏もこれには京都から撤退するしかありませんでした。ただ足利尊氏も負けを認めたわけではなく、九州に下りて体制を立て直そうとしたのです。そして、九州や西の国の武士の支持を得た足利尊氏の勢力は急速に拡大、再び新田義貞や楠木正成らに戦いを挑みます

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建武の新政は失敗、不満が高まる中で行動を起こしたのが足利尊氏だった。足利尊氏は自ら新政権の樹立を目指し、一方でそれを許すまじとした後醍醐天皇は新田義貞に足利尊氏の討伐を命令、2人の戦いは繰り返された。

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shintomoyui0311