しかし、鎌倉幕府を滅亡させたこと、建武の新政の樹立に関わったことなどから、新田義貞もまた歴史に名を残した人物なのです。そこで、今回は新田義貞について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から新田義貞をわかりやすくまとめた。
北条氏との対立で冷遇された新田義貞
新田義貞は1301年に誕生とされていますが、あくまでその前後と付け加えられており、誕生した正確な生年は不明です。父は新田朝氏で、新田氏本宗家の7代当主にあたります。1318年に父・新田朝氏が死去すると、嫡男である新田義貞が家督を受け継いだため、新田義貞は新田氏本宗家の8代当主になりました。
ただ、地位としては新田義貞のそれは決して高くなく、無位無官のためむしろ地位が低い立場であり、これは新田氏本宗家が鎌倉幕府の執権を務めていた北条得宗家と対立関係にあったことが理由です。このため、同じ祖先であるはずの足利尊氏と比べると鎌倉幕府から明らかな冷遇を受けていました。
一方の足利尊氏は新田義貞と違って地位が高く、元服と同時に従五位下・治部大輔に任命された事実からも、若くして鎌倉幕府に信頼された人物であることが分かりますね。これは現代で言うところのまさに格差であり、そのため新田義貞は足利尊氏をライバル視していたとされています。
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後醍醐天皇の倒幕計画
1318年、鎌倉幕府に不満を持つ朝廷の後醍醐天皇が倒幕計画を立てます。当時朝廷では大きな争いが起こっており、天皇家に大覚寺統と持明院統の2つの皇室があったことから、次期天皇を巡って対立が起こったのです。そして、この争いをおさめたのが鎌倉幕府であり、幕府は持明院統と大覚寺統で交互に天皇を即位させる両統迭立を提案しました。
両統迭立によって事態はおさまるものの、これに反対したのが後醍醐天皇、そのため彼は倒幕計画を立てたのです。しかし計画が漏れたことで倒幕は失敗、それでも倒幕を諦めない後醍醐天皇は1331年に再び倒幕計画を立てます。この後醍醐天皇による1331年の2度目の倒幕計画こそ元弘の乱と呼ばれるもので、鎌倉幕府打倒のために挙兵したのです。
鎌倉幕府打倒を目的に挙兵した後醍醐天皇、その兵の中には後に新田義貞と深く関わることになる楠木正成がいました。一方の鎌倉幕府、挙兵した後醍醐天皇を討つための討伐軍を準備しますが、ここでメンバーに選ばれたのが新田義貞であり、足利尊氏もまた討伐軍のメンバーに選ばれていたのです。
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