今日は新田義貞について勉強していきます。1333年に鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞ですが、この頃は後醍醐天皇や足利尊氏が歴史の中心となっていて、そのせいで新田義貞が目立たないかもしれない。

しかし、鎌倉幕府を滅亡させたこと、建武の新政の樹立に関わったことなどから、新田義貞もまた歴史に名を残した人物なのです。そこで、今回は新田義貞について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から新田義貞をわかりやすくまとめた。

新田義貞・誕生と足利尊氏との格差

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北条氏との対立で冷遇された新田義貞

新田義貞は1301年に誕生とされていますが、あくまでその前後と付け加えられており、誕生した正確な生年は不明です。父は新田朝氏で、新田氏本宗家の7代当主にあたります。1318年に父・新田朝氏が死去すると、嫡男である新田義貞が家督を受け継いだため、新田義貞は新田氏本宗家の8代当主になりました。

ただ、地位としては新田義貞のそれは決して高くなく、無位無官のためむしろ地位が低い立場であり、これは新田氏本宗家が鎌倉幕府の執権を務めていた北条得宗家と対立関係にあったことが理由です。このため、同じ祖先であるはずの足利尊氏と比べると鎌倉幕府から明らかな冷遇を受けていました。

一方の足利尊氏は新田義貞と違って地位が高く、元服と同時に従五位下・治部大輔に任命された事実からも、若くして鎌倉幕府に信頼された人物であることが分かりますね。これは現代で言うところのまさに格差であり、そのため新田義貞は足利尊氏をライバル視していたとされています。

後醍醐天皇の倒幕計画

1318年、鎌倉幕府に不満を持つ朝廷の後醍醐天皇倒幕計画を立てます。当時朝廷では大きな争いが起こっており、天皇家に大覚寺統と持明院統の2つの皇室があったことから、次期天皇を巡って対立が起こったのです。そして、この争いをおさめたのが鎌倉幕府であり、幕府は持明院統と大覚寺統で交互に天皇を即位させる両統迭立を提案しました。

両統迭立によって事態はおさまるものの、これに反対したのが後醍醐天皇、そのため彼は倒幕計画を立てたのです。しかし計画が漏れたことで倒幕は失敗、それでも倒幕を諦めない後醍醐天皇は1331年に再び倒幕計画を立てます。この後醍醐天皇による1331年の2度目の倒幕計画こそ元弘の乱と呼ばれるもので、鎌倉幕府打倒のために挙兵したのです。

鎌倉幕府打倒を目的に挙兵した後醍醐天皇、その兵の中には後に新田義貞と深く関わることになる楠木正成がいました。一方の鎌倉幕府、挙兵した後醍醐天皇を討つための討伐軍を準備しますが、ここでメンバーに選ばれたのが新田義貞であり、足利尊氏もまた討伐軍のメンバーに選ばれていたのです。

新田義貞・幕府側から倒幕側へ

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倒幕運動の活発化

後醍醐天皇の軍と鎌倉幕府の討伐軍は、1331年に笠置山の戦いにて衝突しますが、この戦いに勝利したのは鎌倉幕府の討伐軍です。そして、倒幕を計画した後醍醐天皇は隠岐島へと島流しの処分となり、これにて後醍醐天皇の倒幕計画は完全に失敗したかのように思われました。

しかし、後醍醐天皇を島流しにしたことで、鎌倉幕府が安泰となったわけではありません。と言うのも、この頃は悪党と呼ばれる反幕勢力が各地で活動を行っていたからで、後醍醐天皇の挙兵に加わっていた楠木正成や後醍醐天皇の皇子である護良親王(もりよししんのう)もその1人でした。

楠木正成は討伐軍に追い詰められた時に姿を隠していたものの、1332年には再び姿を現わして活発化する倒幕運動に参加します。鎌倉幕府はこれに対抗するため楠木正成の討伐軍を結成、新田義貞はそこに加えられ、討伐軍として楠木正成の軍と戦うことになるのです

反旗を翻した新田義貞

1333年、楠木正成の軍と新田義貞が加わる鎌倉幕府の討伐軍の戦いである千見城の戦いが始まります。楠木正成の軍は言わば倒幕軍でもあり、後醍醐天皇の挙兵の時には討伐軍に敗北しましたが、この戦いでは奇襲を仕掛けて勝利、鎌倉幕府の討伐軍を倒すことに成功したのです。

一方、敗北した鎌倉幕府の討伐軍……その1人である新田義貞の心にあるのは鎌倉幕府への不満でした。何しろ、新田義貞は高額な税金を徴収されており、また鎌倉幕府の使者を殺害したことのある前歴から所領も没収されています。鎌倉幕府の討伐軍として参加しながらも、心は倒幕軍に近いものがあったのでしょう。

そんな新田義貞はついに倒幕を決意、反旗を翻して後醍醐天皇の側について挙兵しました。これに同意した者は多く、新田義貞の軍勢は増えに増えて最終的には20万人ほどにもなったとされています。そして、ついに新田義貞は鎌倉幕府の軍と衝突、それは1333年の5月のことでした。

鎌倉幕府の滅亡と建武の新政の始まり

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新田義貞の快進撃

1333年5月に新田義貞は鎌倉幕府の軍と衝突、この戦いを小手指原の戦いと呼びます。小手指原の戦いで行われた戦闘は30回以上にも及び、両軍の決着がつかないまま終わるものの、戦いを有利に展開したのは新田義貞の軍であり、そのため鎌倉幕府の軍が撤退したことで戦いは終わりました。

次に起こったのが分倍河原の戦い、ここでは新田義貞が窮地に陥ります。鎌倉幕府の軍に増援部隊が加わったことで新田義貞は追い込まれ、敗走して退却を余儀なくされますが、しかしそこで新田義貞の軍にも応援の軍勢が駆け付けたため、反撃に成功して鎌倉幕府の軍に勝利しました。

さらに勝利を重ねる新田義貞、関戸の戦い由比ヶ浜の戦い東勝寺合戦でも快進撃を続けていき、同年ついて鎌倉に攻め込んで鎌倉幕府を滅亡させたのです。島流しにされた後醍醐天皇も島を脱出しており、新田義貞は新時代の幕開けに大きく貢献、これより武将や武士ではなく、天皇を中心とした新たな政治が始まります。

後醍醐天皇による建武の新政

鎌倉幕府滅亡後、これまで政治の主導権を握られていた朝廷の後醍醐天皇がトップに立ち、天皇を中心とした建武の新政が始まります。新田義貞は鎌倉幕府を滅亡させた功績から、褒美として従四位上・左馬助・播磨守に任じられました。しかし、それ以上の褒美を与えられていたのが、新田義貞がライバル視している足利尊氏です。

足利尊氏もまた当初は鎌倉幕府の軍として戦っていましたが、新田義貞同様に反旗を翻して後醍醐天皇についた者の1人でした。足利尊氏は隠岐島から脱出した後醍醐天皇の討伐に向かうものの、倒幕へと心を変えて六波羅探題を滅ぼしたのです。そんな足利尊氏に与えられた褒美は、新田義貞のさらに上をいくものでした。

足利尊氏は従三位・鎮守府将軍・武蔵守に任じられ、さらに後醍醐天皇の「尊治(たかはる)」の「尊」の文字までもらいます。実は、足利尊氏は時系列において正確にはこれまで足利高氏だったのですが、これを機に足利尊氏と改名したのです。ともあれ、こうして建武の新政が始まるのでした。

足利尊氏の裏切り

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足利尊氏討伐を命じられた新田義貞

建武の新政の人々の評価は決して高くなく、その不満の高さは鎌倉幕府以上のものでした。公家を優遇する建武の新政に多くの武士が反発、また非現実的な政治政策は同じ朝廷の公家からも冷笑される始末であり、足利尊氏もまた建武の新政に限界を感じていたようです。

そんな中、1335年に北条氏の残党・北条時行らが鎌倉幕府の復活を目的に反乱を起こして鎌倉を制圧します。これが中先代の乱と呼ばれるもので、当時鎌倉には足利尊氏の弟がいたため、足利尊氏は救出のために後醍醐天皇に許可を得ることなく真っ先に反乱の鎮静へと向かいました。

そして足利尊氏はそのまま京都に帰ることはなく、鎌倉を拠点として自らトップに立って新たな武家政権を誕生させようとしたのです。そんな足利尊氏の身勝手な行動を後醍醐天皇が許すはずはなく、足利尊氏の討伐を命令、そしてこの時討伐を命じられたのが新田義貞でした。

新田義貞と足利尊氏の戦い

新田義貞がライバル視していた足利尊氏との直接対決でしたが、ここで有利だったのは新田義貞でした。と言うのも、後醍醐天皇は北畠顕家(きたばたけあきいえ)にも足利尊氏の討伐を命じており、奥州から南下してきた北畠顕家によって足利尊氏を挟み撃ちできたからです。

しかし足利尊氏は強く、箱根・竹ノ下の戦いで新田義貞の軍を倒すと後醍醐天皇を比叡山まで追いやって京都に入ります。一方、敗北した新田義貞でしたが、ここで彼に力を貸したのが鎌倉時代に敵として戦ったこともあるあの楠木正成でした。新田義貞の軍は体制を立て直し、さらに楠木正成の軍が加勢したことで勢いを取り戻します。

さらに南下してきた北畠顕家の軍も京都に入り、さすがの足利尊氏もこれには京都から撤退するしかありませんでした。ただ足利尊氏も負けを認めたわけではなく、九州に下りて体制を立て直そうとしたのです。そして、九州や西の国の武士の支持を得た足利尊氏の勢力は急速に拡大、再び新田義貞や楠木正成らに戦いを挑みます

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新田義貞の死

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湊川の戦いの決着

九州で勢力を拡大した足利尊氏は、1336年の湊川の戦いにて再び新田義貞と楠木正成の軍を相手に戦います。この戦いで足利尊氏は勝利、2人の軍が敗北したことは建武の新政の終わりを示しており、翌1337年に足利尊氏は京都を手中におさめたのでした。

しかし、敗北した新田義貞は後醍醐天皇への忠誠心が高く、この状況においても足利尊氏の進撃を食い止めようとします。ただ、当の後醍醐天皇にもはやその考えはなく、敗北を認めてのことなのか足利尊氏と和平を結ぼうとしました。その行為は新田義貞にとって裏切りに等しいものだったでしょう。

そこで新田義貞は、後醍醐天皇の皇子である恒良親王(つねよししんのう)を自軍の勢力にして越前へと逃れます。一方、足利尊氏は新政権の樹立を着々と進めており、やがて新たな武家政権となる室町幕府を開設、金ヶ崎城に移っていた新田義貞を倒すために軍を向かわせ、完全包囲の末に落城まで追い込みました。

追い詰められた新田義貞の死

金ヶ崎城を落城に追い込まれた新田義貞でしたが彼はまだ生きており、その身体で京都を目指そうとします。そこに降り注ぐ室町幕府の軍による容赦ない激しい攻撃、藤島の戦いによって致命傷を受けた新田義貞は自害して自ら死を選び、戦死という形でその生涯に幕を降ろしたのでした。

さて、時代はここから南北朝時代へと進みます。室町幕府を開いた足利尊氏に対して後醍醐天皇は納得しておらず、しかし天皇の座まで奪われたことで既に権限は失われていました。そこで後醍醐天皇はひそかに京都を脱出、奈良の吉野にて自ら朝廷を作って天皇として君臨します

京都の朝廷・天皇に対して後醍醐天皇が吉野に朝廷を作って自ら天皇となったことで、日本は2つの朝廷と2人の天皇が存在する事態となったのです。これがいわゆる南北朝時代であり、京都にあたる北吉野にあたる南に朝廷が存在することが時代の名前の由来になっています。

鎌倉時代末期から南北朝時代始まりまでを覚えよう

新田義貞は政権を掌握した人物ではありません。このため新田義貞だけで考えるなら、参加した戦いと鎌倉幕府滅亡の功績さえ覚えておけば良いでしょう。ただ、歴史の勉強となるとそうはいきません。

新田義貞を覚えるからには鎌倉幕府、建武の新政、南北朝時代を覚える必要がありますし、足利尊氏、楠木正成、後醍醐天皇を覚える必要もあります。鎌倉時代の終わりから南北朝時代の始まりまでを覚えていけば、おのずと新田義貞の知識も身についているはずです。

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南北朝時代室町時代日本史歴史鎌倉時代

ライバルは足利尊氏!鎌倉幕府を滅亡させた「新田義貞」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は新田義貞について勉強していきます。1333年に鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞ですが、この頃は後醍醐天皇や足利尊氏が歴史の中心となっていて、そのせいで新田義貞が目立たないかもしれない。

しかし、鎌倉幕府を滅亡させたこと、建武の新政の樹立に関わったことなどから、新田義貞もまた歴史に名を残した人物なのです。そこで、今回は新田義貞について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から新田義貞をわかりやすくまとめた。

新田義貞・誕生と足利尊氏との格差

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北条氏との対立で冷遇された新田義貞

新田義貞は1301年に誕生とされていますが、あくまでその前後と付け加えられており、誕生した正確な生年は不明です。父は新田朝氏で、新田氏本宗家の7代当主にあたります。1318年に父・新田朝氏が死去すると、嫡男である新田義貞が家督を受け継いだため、新田義貞は新田氏本宗家の8代当主になりました。

ただ、地位としては新田義貞のそれは決して高くなく、無位無官のためむしろ地位が低い立場であり、これは新田氏本宗家が鎌倉幕府の執権を務めていた北条得宗家と対立関係にあったことが理由です。このため、同じ祖先であるはずの足利尊氏と比べると鎌倉幕府から明らかな冷遇を受けていました。

一方の足利尊氏は新田義貞と違って地位が高く、元服と同時に従五位下・治部大輔に任命された事実からも、若くして鎌倉幕府に信頼された人物であることが分かりますね。これは現代で言うところのまさに格差であり、そのため新田義貞は足利尊氏をライバル視していたとされています。

後醍醐天皇の倒幕計画

1318年、鎌倉幕府に不満を持つ朝廷の後醍醐天皇倒幕計画を立てます。当時朝廷では大きな争いが起こっており、天皇家に大覚寺統と持明院統の2つの皇室があったことから、次期天皇を巡って対立が起こったのです。そして、この争いをおさめたのが鎌倉幕府であり、幕府は持明院統と大覚寺統で交互に天皇を即位させる両統迭立を提案しました。

両統迭立によって事態はおさまるものの、これに反対したのが後醍醐天皇、そのため彼は倒幕計画を立てたのです。しかし計画が漏れたことで倒幕は失敗、それでも倒幕を諦めない後醍醐天皇は1331年に再び倒幕計画を立てます。この後醍醐天皇による1331年の2度目の倒幕計画こそ元弘の乱と呼ばれるもので、鎌倉幕府打倒のために挙兵したのです。

鎌倉幕府打倒を目的に挙兵した後醍醐天皇、その兵の中には後に新田義貞と深く関わることになる楠木正成がいました。一方の鎌倉幕府、挙兵した後醍醐天皇を討つための討伐軍を準備しますが、ここでメンバーに選ばれたのが新田義貞であり、足利尊氏もまた討伐軍のメンバーに選ばれていたのです。

新田義貞・幕府側から倒幕側へ

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