幕末日本史歴史江戸時代

ガラスから大砲まで自作した「佐久間象山」幕末の天才学者で思想家について歴女が解説

2-5、象山、大砲の鋳造に成功、西洋砲術家として名声を

象山は蘭学研究の動機でもあった砲術を中心に、兵学の研究に力を入れていて、嘉永元年(1848年)幕府の命令で、オランダ人ベウセルの原書を読んで、3斤野砲地砲1門、12拇野(ドイム)戦人砲2門、13拇天砲3門を鋳造して、松代郊外で試演。翌年、オランダの「歩兵操典」をもとにして、西洋流の隊伍教練も行ったそう。
嘉永4年(1851年)には、再び江戸に移住して木挽町に「五月塾」を開塾、砲術、兵学を教えるようになり、豊前中津藩士が71人も入門したり、後の勝海舟、吉田松陰、河合継之助、橋本左内、山本覚馬(新島八重の兄)、坂本龍馬らが続々と入門。 嘉永6年(1853年)、ペリーの黒船が浦賀に来航、象山は藩の軍議役として浦賀を訪れたが、象山の報告は老中阿部正弘に「急務十条」として奏上、また象山は門弟の松陰に暗に外国行きを勧めることに。

嘉永6年(1853年)勝海舟の妹順子(じゅんこ)と結婚

2-6、象山、吉田松陰の事件に連座して蟄居

嘉永7年(1854年)44歳のとき、象山の門弟だった吉田松陰が再来航したペリーの艦隊で密航を企て、失敗して自首する事件が勃発、松陰から相談をもちかけられた象山もこの事件に連座、伝馬町牢屋敷に入獄。

象山を知る川路聖謨(かわじとしあきら)が罪を軽くするために老中阿部正弘に運動した結果、文久2年(1862年)まで9年の間、松代で蟄居させられることに。この間、松代の象山の元に、高杉晋作、久坂玄瑞、中岡慎太郎、石黒忠悳らが面会に訪れて、時世について激論したということ。

2-7、象山、蟄居を解かれ上洛

象山神社拝殿
Thirteen-fri投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

文久2年(1862年)、象山を自藩に招聘したいと考えた長州藩主毛利慶親、土佐の前藩主山内容堂が、象山の赦免を幕府に働きかけを行なった結果、同年暮れに幕府は象山の蟄居をといて自由の身に。そして元治元年(1864年)3月、尊王攘夷派をおさえるために開国論者の象山を利用しようとした一橋慶喜の推薦で、京都滞在中の将軍徳川家茂から象山に上洛命令が。

象山は、3月29日に上洛、将軍家茂、慶喜に公武合体論と開国論を説いて、山階宮、中川宮、それに公家たちから、西郷隆盛、桂小五郎(木戸孝允)らの薩長の志士らと接触、西郷は「学問と見識においては佐久間抜群のこと」と、かなり敬服した手紙を大久保利通に送り、その後も象山の意見をきいていなければ意外な失敗をしたかもと人に語ったそう。

象山は約3か月の間奔走したが、当時の京都は池田屋の変が起き、禁門の変の直前でもあり、尊皇攘夷派の過激な分子が横行している最中で、白馬に真紅の西洋鞍でまたがり、堂々と供もつれずに往来を行く象山は、西洋かぶれという印象を持たれ、7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎(げんさい)らの手にかかり暗殺、享年54歳。昭和13年(1938年)には松代に象山神社が創建。

象山を暗殺した河上彦斎は、人斬り彦斎と呼ばれた人でしたが、後に象山の事歴を知って愕然として暗殺をやめたという話が。

3-1、象山の逸話

image by PIXTA / 11538202

象山は自らを「国家の財産」と自認したほどで、傲慢、自信過剰と評判はあまりよくないのですが、象山自身はそういう評判に対しても、「百年の後にわが心事を知るものがあろう」と歯牙にもかけなかったなど、色々な逸話があります。

3-2、ペリーが会釈する貫禄

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不明 – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

象山の門下生によれば、象山は5尺7寸か8寸(約175㎝)の長身で、筋骨逞しく肉付きも豊かだったということで、写真を見ても眼光鋭く日本人離れした顔つき。

ペリーが軍艦七隻を率いて再来航したときのこと、幕府は横浜に応接所を設け、松代藩は小倉藩とともにその警備にあたり、象山は藩の軍議役で陣屋に詰めていたのですが、ペリーが陣屋の前を通り象山の前にさしかかると、象山に向かって軽く会釈したということで、当時海岸防禦御用掛だった川路聖が驚いて、「日本人でペリーから揖拝(ゆうはい、お辞儀のこと)されたのは貴公のみだ」と言った話あり。

3-3、藩公の象山評

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不明 – 真田宝物館所蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

藩公の真田幸貫は、21歳の象山を跡継ぎの幸教の近習と教育係に抜擢したとき、「わが家臣のうち、ずばぬけた逸材は啓之肋(象山)。将来どんな人物になるか楽しみだが、その性格は駻(かん)が強すぎるきらいがあり、この難物を馭しうるものは自分のほかあるまい」と言ったそう。

また幸貫は、「修理(象山)はずいぶん疵の多い男だが、天下の英雄」とも。この話を聞いた象山は感激して、「天下の英雄」はほめすぎだが、「疵の多い男」はそのとおりだと恐縮し、「私が師と仰ぐのは幸貫公のみ」と終生語ったそう。

3-4、勝海舟の象山評

妹の順子と象山が結婚しているので義兄でもあった海舟は、象山について「顔つきからしてすでに一種奇妙なのに、平常緞子(どんす)の羽織に古代模様の袴(はかま)をはいて、いかにもおれは天下の師だというように厳然とかまえこんで、元来勝気の強い男だから、漢学者がくると洋学をもっておしつけ、洋学者がくると漢学をもっておどしつけ、ちょっと書生がたずねてきても、じきに叱りとばすというふうで、どうも始末にいけなかったよ あれはあれだけの男で、ずいぶん軽はずみの、ちょこちょこした男だった。が、時勢に駆られたからでもあろう」と、後に語ったそうですが、象山先生とちゃんと敬称を付けていたという話も。

3-5、山田方谷の象山評

佐藤一斎塾で象山と同門で陽明学者の山田方谷(ほうこく)は、象山と論争すると常に方谷が論破したそうで、その後、方谷を訪ねた河井継之助には、「象山には温良恭謙譲の一字の何れもない」と語ったそう。これは孔子の5つの徳である、温(おだやか)良(すなお)恭(うやうやしい)謙(つつましい)譲(ひかえめ)のことで、初対面なのに、「封建の世において、人に使われることができないのは、つまらないもの」と、河合継之助が象山に似ていると、将来を憂慮したとされています。

3-6、大砲全壊しても平然

嘉永4年(1851年)、象山が松前藩の依頼で鋳造した洋式大砲の演習を江戸で行ったとき、砲身が爆発、大砲は全壊して大失敗。観衆は大笑い、立ち会いの松前藩の役人達には「鋳造費用が無駄になった」と責め立てられたが、象山は謝るどころか「失敗するから成功がある」と述べ、「今の日本で洋式大砲を製造できるのは僕以外にいないのだから、諸大名はもっと僕に金をかけて(大砲の)稽古をさせるべきだ」と豪語、役人達を呆れさせた話が。

「大玉池 砲を二つに 佐久間修理 この面目を なんと象山」は秀逸な落首。

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angelica