幕末の有名人ですが、何をした人なのか詳しく知りたいよな。
その辺のところを幕末に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、佐久間象山は、松代藩出身
- 1-2、象山、子供の頃から勉学に励み、藩主に見込まれる
- 2-1、象山、江戸に出て兵学家の地位を確立
- 2-2、象山、蘭学の必要性に目覚める
- 2-3、象山、33歳でオランダ語を猛勉強の末マスター
- 2-4、象山、松代藩に帰り殖産事業などを
- 2-5、象山、大砲の鋳造に成功、西洋砲術家として名声を
- 2-6、象山、吉田松陰の事件に連座して蟄居
- 2-7、象山、蟄居を解かれ上洛
- 3-1、象山の逸話
- 3-2、ペリーが会釈する貫禄
- 3-3、藩公の象山評
- 3-4、勝海舟の象山評
- 3-5、山田方谷の象山評
- 3-6、大砲全壊しても平然
- 3-7、不肖の息子
- 3-8、象山の読み方
- 儒学と蘭学を会得し、本を読んだだけで写真機から大砲まで自作した天才自信家
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末については佐幕勤王関係なく興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、佐久間象山について、5分でわかるようにまとめた。
1-1、佐久間象山は、松代藩出身
佐久間象山(さくましょうざん、ぞうざん)は、文化8年(1811年)2月28日、信濃松代藩士で真田家に仕えた佐久間一学国善の長男として信濃埴科郡松代字浦町で誕生。 佐久間家は5両5人扶持という微禄で下士だったが、父は藩主の側右筆を務め、卜伝流剣術の達人で藩からは重用されていたそう。象山の母は松代城下の東寺尾村の足軽の荒井六兵衛の娘でまん、国善の妾で、象山は父が50歳、母が31歳で、それまで養子続きだった佐久間家で久しぶりの男児誕生。
父国善は将来に大きな期待をかけるつもりで詩経の「東に啓明あり」から選んで、啓之助と命名。元服して諱は国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、字は子迪(してき)、子明(しめい)。後に名は修理(しゅり)と改め、象山の号は26歳頃から用いたということ。ここでは象山で統一。
1-2、象山、子供の頃から勉学に励み、藩主に見込まれる
象山が元服のときの烏帽子親は窪田岩右衛門馬陵恒久で、藩儒を務めて、象山の才能を高く評価した人物。象山は文政7年(1824年)、藩儒の竹内錫命に入門して詩文を学び、文政9年(1826年)には佐藤一斎の門下生の鎌原桐山に入門して経書を学んだうえ、同年、藩士の町田源左衛門正喜に会田流の和算を学び、象山は数学を「詳証術」と称したそう。また水練(水泳)を河野左盛から学んだが、象山に最も影響を与えたのは鎌原桐山だったということ。
文政11年(1828年)、父の隠居で家督を継ぎ、天保2年(1831年)3月、藩主真田幸貫(さなだゆきつら、松平定信の息子)の世子真田幸良の近習、教育係に抜擢。しかし象山は高齢の父への孝養ができないと5月に辞任。藩主幸貫は象山の性格を把握し、癖があることを知りつつ才能は高く評価していたそう。象残は20歳で漢文100篇を作って鎌原桐山に提出、桐山ばかりか藩主幸貫も学業勉励と評価されて銀3枚が下賜。
天保3年(1832年)4月11日、象山は藩の長老に対して不遜な態度があったとされて藩主幸貫に謹慎、閉門を命じられることに。これは3月に行われた武芸大会で、象山が父国善の門弟名簿を藩に提出したときに、序列に誤りがあるので改めるように注意されたのに象山は絶対に誤りがないと自説を曲げなかったため、年長者に対して不遜であると藩主幸貫の逆鱗に触れたのが理由で、この閉門中に父国善の病が重くなり、藩主幸貫は8月17日付で象山を赦免、父国善はその5日後に死去。
2-1、象山、江戸に出て兵学家の地位を確立
象山は、天保4年(1833年)11月に江戸に出て、当時の儒学の第一人者佐藤一斎に詩文と朱子学を学び、山田方谷と共に「佐門の二傑」と称されるように。ただ、当時の象山は西洋に対する認識は芽生えつつも、基本的には、伝統的な知識人で、天保10年(1839年)、28歳の象山は江戸の神田於玉ヶ池で私塾「象山書院」を開き、儒学を教えたということ。
この頃象山は、梁川星巌(やながわせいがん)、藤田東湖、安井息軒(そっけん)・塩谷宕陰(しおのやとういん)、大槻盤渓(おおつきばんけい)、渡辺崋山らの名士と交わったせいか、象山の名も高まり、特に梁川星巌との親交が深く、星巌の詩塾の玉池吟社(ぎょくちぎんしゃ)の隣に、象山の塾を開いたほど。
2-2、象山、蘭学の必要性に目覚める
天保13年(1842年)、象山が仕える松代藩主真田幸貫が老中兼任で海防掛に就任後、象山は顧問に抜擢、アヘン戦争での清とイギリスについてなどの海外情勢を研究することに。象山は、蘭学者の箕作阮甫(みつくりげんぽ)らに西洋事情を聞き、魏源「海国図志」などを元に「海防八策」を上書。この頃の象山の西洋知識は、西洋に関する訳書を読んだほかは、すべて蘭学者からの耳学問だったので、この機会に蘭学の修得の必要に目覚めたそう。
そして藩主幸貫から洋学研究の担当者に命じられた象山は塾を閉じて、江川英龍の下で兵学を学び、次いで幕臣の砲術家下曾根金三郎(しもそねきんざぶろう)にも砲術の知識を求めたということ。
2-3、象山、33歳でオランダ語を猛勉強の末マスター
江川英龍などに習ったのは初歩的なものですでに古くなっていたせいもあり、象山は西洋砲術を中心に科学技術への関心が高まり、蘭学を本格的に習得することを痛感、弘化元年(1844年)象山は33歳で、蘭学者の坪井信道(つぼいしんどう)を訪れたときに、オランダの砲術書を贈られたのを切っ掛けにして、オランダ語学習を決意。
坪井信道に相談したところ、信道は塾頭で、高島秋帆や緒方洪庵に指導を受けたこともある黒川良安を推薦、象山は良安を私塾に招いて同居、良安にオランダ語を学ぶかわりに良安に和漢の学を教えたということ。
象山は2か月ほどでオランダ語の文法を覚え、約2年でほとんどオランダ書を読解できるまでになったということ。
2-4、象山、松代藩に帰り殖産事業などを
象山は、オランダ語勉学の最中の弘化元年(1844年)の春、「ショメール百科全書」16冊、藩に願って40両で入手。この百科全書を元に象山は、技術的な実験をはじめ、数か月後にはガラスの製造をはじめ、舶来品に劣らぬ玻璃を作ったそう。
そして象山は、藩の郡中横目役(郡奉行に次ぐ役職)に命じられ松代に帰藩、そのときに原書で研究した馬鈴薯(じゃがいも)の栽培法を持ち帰り、また江戸で飼っていた豚を連れて帰って繁殖させ、そのほかにも石灰の製造、硝石の精製、ぶどう酒の醸造と、応用科学なども生かして殖産興業に尽くすことに。
また写真機、望遠鏡。電気医療器、地震予知器の開発に製造、嘉永3年(1850年)には、松代で、わが国はじめての電信実験に成功、のちには種痘の実施、コレラの予防などの医学に関する研究も熱心に行なったということ。
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