
2-4、子規、療養のために松山に帰郷
子規は帰りの船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。7月、須磨保養院で療養後、松山に帰郷。明治30年(1897年)30歳のときに俳句雑誌「ホトトギス」(ほとゝぎす)を創刊、俳句分類や与謝蕪村などを研究、俳句の世界に多大な貢献。松山では大学同窓の夏目漱石の下宿に居候して過ごし、俳句会などを開いたということ。
短歌では、「歌よみに与ふる書」を新聞「日本」に連載。古今集を否定して万葉集を高く評価、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難し、根岸短歌会を主催、短歌の革新をはかったということ。尚、根岸短歌会は、後に伊藤左千夫、長塚節、岡麓らの手で短歌結社「アララギ」に発展。
2-5、子規、寝たきりになる
明治28年(1895年)10月、再上京する途上、腰痛で歩行に困難をきたし、翌年、結核菌が脊椎を冒して脊椎カリエスを発症と診断。以後床に伏す日が多くなり、数度の手術も受けたが病状は好転せず、やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出るようになって歩行不能に。母と妹律がつきっきりで世話をすることになったそう。
たまには人力車で外出も出来たものの、明治32年(1899年)夏以後から子規は約3年間寝たきりとなり、寝返りも打てない苦痛を麻痺剤でごまかしつつ、俳句、短歌、随筆を書き、また口述し、病床を訪れる高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節らの指導を続けたということ。
子規は病床で「病牀六尺」をあらわし、毎日「日本」に掲載されたが、感傷や暗い影がない、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視して写生した優れた人生記録に。同時期に病床で書かれた日記「仰臥漫録」「墨汁一滴」も存在。
明治35年(1902年)9月、34歳で死去。
3-2、子規は、「写生」の重要性を終始一貫強調
子規は俳句の知識や教養を効かせた「ひねり」や「くすぐり」を嫌い、誰もが作れる句をめざしました。明治27年(1894年)、知人の画家中村不折に教わったという、身近な花や木や生物、自然のうつろいなどの日常に視線をむけた、西洋美術由来の写生、スケッチの概念を文学に適用して俳句や短歌、文章の近代化を図ったということ。
また子規は、松尾芭蕉の詩情を高く評価、江戸期の文献を漁って、与謝蕪村のように忘れられた俳人を発掘するなどの功績もあり、短歌の歌論については、「歌よみに与ふる書」で、俳句と同様に、写生、写実での現実の生活に密着した作風の重視と、「万葉集」を絶賛し「古今集」を否定して、当時の短歌に大きな影響を与えたそう。子規が古今集を全面否定するのは、やはり明治時代の近代日本の新しい風潮をあらわしているということ。
また、あまり知られていないが漢詩作者としても著名で、陸羯南の娘婿で子規の同僚の鈴木虎雄が、子規の漢詩を夏目漱石の漢詩よりも評価してと、弟子の吉川幸次郎が回想したそう。
3-3、月並みの造語も
当時、和歌や俳句は「月並み句会」と呼ばれる月ごとの会合で詠まれることが多く、本来、毎月、月ごとに行われるという意味だった「月並み」という言葉が、「陳腐、平凡」という意味になったのは、子規がありふれた俳句や短歌を「月並み調」と批判したことが最初。
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