今回は正岡子規を取り上げるぞ。

明治時代の有名な俳人ですが、詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。昔の学者や作家も大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、正岡子規について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、正岡子規は四国の松山の生まれ

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正岡子規(まさおかしき)は、慶応3年9月17日(1867年10月14日)、伊予国温泉郡藤原新町(現愛媛県松山市花園町)で父松山藩士正岡常尚と母八重の長男として誕生。きょうだいは妹律がひとり。

幼名は処之助(ところのすけ)で、名は常規(つねのり)、のちに升(のぼる)と改名。子規は号。ここでは子規で統一。

1-2、子規の子供時代

明治5年(1872年)、子規が5歳のとき、父が亡くなり家督を相続、母の実家の大原家と叔父の加藤恒忠(拓川)が後見。子規の母は、藩の儒者大原観山の長女だったため、子規は外祖父観山の私塾に通って漢書の素読を習ったということ。

明治6年(1873年)には末広小学校に入学、後に勝山学校に転校。
子規は少年時代、漢詩や戯作、軍談、書画などが好きで、友人と回覧雑誌を作り、試作会を開いたほど。また自由民権運動の影響を受け、政談にも関心を示して熱中。

2-1、子規、上京して東大予備門へ入学

明治13年(1880年)、子規は旧制松山中学(現・松山東高)に入学。明治16年(1883年)、同校を中退して上京、受験勉強のため共立学校(現・開成高)に入学。翌年、旧藩主久松家の給費生となって、東大予備門(のち一高、現東大教養学部)に入学、常盤会寄宿舎へ。明治23年(1890年、帝国大学哲学科に進学、後に文学に興味を持ったので翌年、国文科に転科し、この頃から「子規」の号で句作を。


尚、松山中、共立学校、大学予備門でも同級で、海軍兵学校に進み、後の日露戦争での日本海海戦の参謀となった秋山真之とは幼馴染で、共通の友人として後の大蔵大臣となった勝田主計(しょうだかずえ)、そして東大予備門では夏目漱石、南方熊楠、山田美妙らと同窓に。

2-2、子規、喀血して結核に

子規が最初に喀血したのは、明治21年(1888年)8月の鎌倉旅行で21歳のとき。しかし子規本人は、翌年4月の水戸旅行の半年後、水戸旅行が病の原因と書いていて、5月には大喀血をして肺結核と診断されたということ。当時はストレプトマイシンがまだなかったので、結核は不治の病として子規は死を意識するようになったので、この時にホトトギスの句を作り、はじめて子規の号を用いるように。

2-3、子規、大学中退後に文筆活動開始

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By 不明 - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, Link

子規は大学中退後に、叔父の加藤拓川の紹介で明治25年(1892年)に、新聞「日本」の記者になり、松山の母と妹を東京に呼び寄せ、「日本」が子規の文芸活動の拠点に。明治26年(1893年)、「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載、俳句の革新運動を開始。

明治27年(1894年)夏に日清戦争が勃発、子規は翌年4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されて戦争が終了、同年5月、第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)等に挨拶をして帰国の途に。

\次のページで「2-4、子規、療養のために松山に帰郷」を解説!/

2-4、子規、療養のために松山に帰郷

子規は帰りの船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。7月、須磨保養院で療養後、松山に帰郷。明治30年(1897年)30歳のときに俳句雑誌「ホトトギス」(ほとゝぎす)を創刊、俳句分類や与謝蕪村などを研究、俳句の世界に多大な貢献。松山では大学同窓の夏目漱石の下宿に居候して過ごし、俳句会などを開いたということ。

短歌では、「歌よみに与ふる書」を新聞「日本」に連載。古今集を否定して万葉集を高く評価、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難し、根岸短歌会を主催、短歌の革新をはかったということ。尚、根岸短歌会は、後に伊藤左千夫、長塚節、岡麓らの手で短歌結社「アララギ」に発展。

2-5、子規、寝たきりになる

明治28年(1895年)10月、再上京する途上、腰痛で歩行に困難をきたし、翌年、結核菌が脊椎を冒して脊椎カリエスを発症と診断。以後床に伏す日が多くなり、数度の手術も受けたが病状は好転せず、やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出るようになって歩行不能に。母と妹律がつきっきりで世話をすることになったそう。

たまには人力車で外出も出来たものの、明治32年(1899年)夏以後から子規は約3年間寝たきりとなり、寝返りも打てない苦痛を麻痺剤でごまかしつつ、俳句、短歌、随筆を書き、また口述し、病床を訪れる高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節らの指導を続けたということ。

子規は病床で「病牀六尺」をあらわし、毎日「日本」に掲載されたが、感傷や暗い影がない、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視して写生した優れた人生記録に。同時期に病床で書かれた日記「仰臥漫録」「墨汁一滴」も存在。

明治35年(1902年)9月、34歳で死去。

3-1、子規の逸話

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By Jyo81 (ja:User) - 投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, Link

子規は交友関係も広く、日記も残しているので色々な逸話があります。

3-2、子規は、「写生」の重要性を終始一貫強調

子規は俳句の知識や教養を効かせた「ひねり」や「くすぐり」を嫌い、誰もが作れる句をめざしました。明治27年(1894年)、知人の画家中村不折に教わったという、身近な花や木や生物、自然のうつろいなどの日常に視線をむけた、西洋美術由来の写生、スケッチの概念を文学に適用して俳句や短歌、文章の近代化を図ったということ。

また子規は、松尾芭蕉の詩情を高く評価、江戸期の文献を漁って、与謝蕪村のように忘れられた俳人を発掘するなどの功績もあり、短歌の歌論については、「歌よみに与ふる書」で、俳句と同様に、写生、写実での現実の生活に密着した作風の重視と、「万葉集」を絶賛し「古今集」を否定して、当時の短歌に大きな影響を与えたそう。子規が古今集を全面否定するのは、やはり明治時代の近代日本の新しい風潮をあらわしているということ。

また、あまり知られていないが漢詩作者としても著名で、陸羯南の娘婿で子規の同僚の鈴木虎雄が、子規の漢詩を夏目漱石の漢詩よりも評価してと、弟子の吉川幸次郎が回想したそう。

3-3、月並みの造語も

当時、和歌や俳句は「月並み句会」と呼ばれる月ごとの会合で詠まれることが多く、本来、毎月、月ごとに行われるという意味だった「月並み」という言葉が、「陳腐、平凡」という意味になったのは、子規がありふれた俳句や短歌を「月並み調」と批判したことが最初。

\次のページで「3-4、英語が苦手」を解説!/

3-4、英語が苦手

子規は、大学予備門の試験で「judicature」の意味がわからず隣の席の男に意味を聞いたところ、「ほうかん」と言われて、「法官」なのに、「幇間」(たいこもち)と書いたということ。尚、子規は試験に合格したが、隣の男は不合格だったそう。

苦手とはいえ、子規は病臥中にベンジャミン・フランクリンの自叙伝を、ちゃんと英語で読んでいるとドナルド・キーン氏が「続・百代の過客」に。

3-5、子規の雅号

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子規は喀血したことで、血を吐くまで鳴くと言われる鳥のほととぎすと自分を重ね合わせて、ほととぎすの漢字表記の「子規」を自分の俳号として用いるように。

ほかには、獺祭書屋主人、竹の里人、香雲、地風升、越智処之助(おち ところのすけ)なども。「獺祭書屋主人」の「獺」とはカワウソのことで、「禮記」月令篇の「獺祭魚」という一文が語源。昔の中国では、カワウソは捕らえた魚を並べてから食べる習性があり、まるで人が祭祀を行い、天に供物を捧げる時のようだと信じられていたこと。そして唐代の大詩人李商隠は、尊敬する詩人の作品を短冊に書き、左右に並べ散らしながら詩想にふけったため、短冊の並ぶ様を先の「禮記」の故事になぞらえて「獺祭魚庵」と号したことで、「獺祭魚」には「書物を散らかした様子」という意味に転じていき、子規の「獺祭書屋主人」という号につながるのだということ。

子規は、病臥した自身の枕元に資料を多く置いた様子が、カワウソのようだが、李商隠の如く高名な詩人を意識しているということになるそう。その他、随筆「筆まかせ」の「雅号」で、自身が54種類の号を用いたうえに、さらに多くのペンネームが。

3-6、夏目漱石と親友だった

漱石と子規は、大学予備門で寄席について話をしたのが切っ掛けで知り合ったということ。その後、子規が書いた漢詩文集と、漱石が書いた紀行文集をお互いに読み合い評論し合ったりと、親交が深まったそう。 漱石は講義にしっかり出席した優秀な生徒だったが、子規は欠席しがちで漱石のノートを当てにしていたということ。
また、2人は一緒に千葉県の房総半島旅行をしたり、松山で同居したりしたこともあり、漱石は、子規の数あるペンネームの1つで、子規が夏目漱石に譲ったそう。

2人が最後に会ったのは、漱石がイギリスに留学する明治33年(1900年)。子規は、イギリス留学中の漱石に、「僕はもーだめになってしまった。……書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉へ」と最後の手紙を送り、自分は西洋に行けなかったが、漱石の手紙を読むと行った気になって嬉しいので手紙を書いてくれと頼んだが、漱石はその頃、イギリスでストレスマックスで神経を病んでいたので、返事を書けず。そのことを後悔していた漱石は、後に「坊ちゃん」中編の序文で子規への哀悼の意を表したということ。

漱石と子規は、その頃まで論理的に話すという概念がなかった日本語の話し言葉の近代化に尽力、一時は子規も「いっそ英語で喋ればいい」という意見になったが、日本の心を残して近代化した話し言葉を広めたふたりの功績も大。

3-7、野球がだいすきだった

Masaoka Shiki1889.jpg
By 不明 - http://dygwfqth3j3vd.cloudfront.net/rekishi/first/vol004/images/shiki-L.jpg, パブリック・ドメイン, Link

ベースボールは、明治4年(1871年)に来日したアメリカ人のホーレス・ウィルソンが、当時の東京開成学校予科で教えた後、全国的に広まったスポーツ。子規が「ベースボール」を、初めて「野球」と日本語に訳したとされていますが、実際は第一高等中学校の野球部員であった中馬庚(ちゅうまん かなえ)が、野球の命名者。子規はスポーツ好きではなかったのに、野球だけは大好き、明治22年(1889年)に喀血してやめるまで続けていて、ポジションは捕手。野球が好きなあまり、自身の幼名である「升(のぼる)」にちなんで、野球(のぼーる)という雅号を作ったほどで、これは中馬庚がベースボールを野球(やきゅう)と翻訳した4年前のことなので、子規が野球の命名者と混同されるもとになっているかも。子規は2002年に日本の野球殿堂入りしたということ。

選手として引退直前の明治23年(1890年)3月末撮影のユニフォーム姿の写真を見て、子規は明治32年(1899年)に、「球と球をうつ木を手握りてシャツ着し見ればその時思ほぬ」との短歌を作ったそう。子規の野球に対する情熱は、子規の最良の理解者で弟子の河東碧梧桐(かわひがしへきごどう)が、他のスポーツにはまったく関心を示さない式が、ベースボールに限って夢中になったのが理解できないという意味で「変態現象」と。

しかし、捕手と、一塁手をのぞく内野手は左利きには無理なポジションなのに、左利きだったという子規は大丈夫だったのでしょうか。

また、子規は、明治23年(1890年)5月17日、一高ベースボール会対明治学院白金倶楽部による試合で、一高の学生にインブリー宣教師が暴行され重傷を負ったという有名な「インブリー事件」が起こった際の観客の一人で、事件の目撃者でもあったということ。0-6と一高が大差をつけられた6回に事件が起こり、試合は中止に。子規は同年5月の「筆まかせ・第三のまき」に一高の負け方が見苦しい、と書き記しているそう。

病気に負けず、短い生涯で明治時代を代表する有名な俳人となり後進にも影響を与えた

正岡子規は、その短い生涯の中で、俳句や短歌、漢詩など数多くの作品を残し、特に俳句は20万を超えるほど作り、また後進の指導も行い、万葉集や与謝蕪村を再評価したりと、古くからある日本の文学である俳句や短歌に、西洋画の写生という新しい作風を持ち込み推奨した功労者。

子規が当時から今に至る文学界に多大な影響を与えたのはもちろん、われわれは彼の残した日記を読むことで、子規が病床で苦しみながらもユーモアを失わず、数多くの友達や弟子たちとも交流している様を生き生きと知ることが出来、死の恐怖にも負けず、人々に愛され尊敬され書き続けた子規に勇気付けられ感動するのは間違いないことでしょう。

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日本史明治歴史

日本近代文学に多大な影響を与えた俳人「正岡子規」について歴女がわかりやすく解説

今回は正岡子規を取り上げるぞ。

明治時代の有名な俳人ですが、詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。昔の学者や作家も大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、正岡子規について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、正岡子規は四国の松山の生まれ

image by PIXTA / 52961010

正岡子規(まさおかしき)は、慶応3年9月17日(1867年10月14日)、伊予国温泉郡藤原新町(現愛媛県松山市花園町)で父松山藩士正岡常尚と母八重の長男として誕生。きょうだいは妹律がひとり。

幼名は処之助(ところのすけ)で、名は常規(つねのり)、のちに升(のぼる)と改名。子規は号。ここでは子規で統一。

1-2、子規の子供時代

明治5年(1872年)、子規が5歳のとき、父が亡くなり家督を相続、母の実家の大原家と叔父の加藤恒忠(拓川)が後見。子規の母は、藩の儒者大原観山の長女だったため、子規は外祖父観山の私塾に通って漢書の素読を習ったということ。

明治6年(1873年)には末広小学校に入学、後に勝山学校に転校。
子規は少年時代、漢詩や戯作、軍談、書画などが好きで、友人と回覧雑誌を作り、試作会を開いたほど。また自由民権運動の影響を受け、政談にも関心を示して熱中。

2-1、子規、上京して東大予備門へ入学

明治13年(1880年)、子規は旧制松山中学(現・松山東高)に入学。明治16年(1883年)、同校を中退して上京、受験勉強のため共立学校(現・開成高)に入学。翌年、旧藩主久松家の給費生となって、東大予備門(のち一高、現東大教養学部)に入学、常盤会寄宿舎へ。明治23年(1890年、帝国大学哲学科に進学、後に文学に興味を持ったので翌年、国文科に転科し、この頃から「子規」の号で句作を。


尚、松山中、共立学校、大学予備門でも同級で、海軍兵学校に進み、後の日露戦争での日本海海戦の参謀となった秋山真之とは幼馴染で、共通の友人として後の大蔵大臣となった勝田主計(しょうだかずえ)、そして東大予備門では夏目漱石、南方熊楠、山田美妙らと同窓に。

2-2、子規、喀血して結核に

子規が最初に喀血したのは、明治21年(1888年)8月の鎌倉旅行で21歳のとき。しかし子規本人は、翌年4月の水戸旅行の半年後、水戸旅行が病の原因と書いていて、5月には大喀血をして肺結核と診断されたということ。当時はストレプトマイシンがまだなかったので、結核は不治の病として子規は死を意識するようになったので、この時にホトトギスの句を作り、はじめて子規の号を用いるように。

2-3、子規、大学中退後に文筆活動開始

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By 不明 – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, Link

子規は大学中退後に、叔父の加藤拓川の紹介で明治25年(1892年)に、新聞「日本」の記者になり、松山の母と妹を東京に呼び寄せ、「日本」が子規の文芸活動の拠点に。明治26年(1893年)、「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載、俳句の革新運動を開始。

明治27年(1894年)夏に日清戦争が勃発、子規は翌年4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されて戦争が終了、同年5月、第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)等に挨拶をして帰国の途に。

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