
南北朝時代の始まり
京都を手中におさめた足利尊氏は、後醍醐天皇に和議を申し込みます。1336年、後醍醐天皇に代わって即位したのは光明天皇、彼に三種の神器を握らせることで皇位継承者として認め、建武式目十七条を制定して新たな武家政権の樹立を宣言しました。これで建武の新政は崩壊、鎌倉幕府滅亡で期待された新政権はわずか3年足らずで終わります。
とは言え、後醍醐天皇はこれで政治を諦めたわけではありません。密かに京都を脱出した後醍醐天皇は吉野(奈良県)まで逃れており、そこで自ら朝廷と政権の樹立を宣言したのです。これによって、京都の朝廷と天皇に加えて吉野にも朝廷と天皇が誕生する不可思議な事態となりました。
この奇妙な時代を南北朝時代と呼び、文字どおり南と北のそれぞれに朝廷があることが名前の由来になっています。この南北朝時代は1336年から1392年まで続いており、後醍醐天皇が死去した後も南朝は存続、それぞれの朝廷が合一するのはまだまだ先のことです。
後醍醐天皇の死去と追い詰められる南朝
さて、南朝を築いた後醍醐天皇でしたが、当然元の朝廷……すなわち北朝と対立することになっていきます。一方の北朝、1338年に足利尊氏は光明天皇から正式に征夷大将軍へと任命され、武家による新政権である室町幕府がここに誕生しました。そしてその翌年に後醍醐天皇は死去、「朝敵討滅・京都奪回」を遺言としたそうです。
室町幕府が開かれた北朝と後醍醐天皇が死去した南朝、この状況が示すとおり南朝は追い詰められ、やがては新田義貞らも戦死して北朝に寝返る者まで多く出始めます。そして1348年、足利尊氏の執事・高師直(こうのもろなお)が吉野を焼き払い、南朝を攻め落とすことで一時決着がつきました。
若い頃から鎌倉幕府打倒の思いを秘めて生きてきた後醍醐天皇、2度もの討幕計画の末にその思いは現実のものとなりましたが、自ら政治を行った建武の新政は成功とは言い難く、公家、武家、農民全ての不満を招いて足利尊氏の手によって崩壊したのです。それはわずか3年足らずの新政権でした。
足利尊氏の動きに注目しよう
建武の新政はわずか3年足らずで崩壊したため、幕府ほど覚える内容は多くありません。注意すべき点は足利尊氏の動向で、鎌倉幕府滅亡、建武の新政の始まり、室町幕府誕生、全て足利尊氏が関係してきます。
そして、足利尊氏は場面によって後醍醐天皇の敵にも味方にもなっており、そのため足利尊氏の動きを理解すれば、建武の新政の誕生から崩壊もより理解しやすくなるでしょう。