
中央機関の整備の補足と地方組織の整備
建武の新政の政策、3つ目の中央機関の整備についてもう少し深く解説しておきましょう。中央機関となる記録所、恩賞方、雑訴決断所、武者所ですが、それぞれどのような機関なのでしょうか。記録所とは国の重要事項を決断する機関であり、すなわち日本の最高決定機関です。
そして恩賞方とは武士に対する恩賞を担当している機関、武者所とは朝廷のある京都の警備をする機関になります。雑訴決断所は「訴」や「決断」の文字から推測できるとおり裁判を担当する機関であり、所領を巡っての事務や裁判に携わっており、鎌倉幕府で言うところの「引付」を受け継いだものです。
最後4つ目となる「地方組織の整備」ですが、これは日本の全国に国司と守護を設置したもので、権限は「国司>守護」になります。鎌倉幕府においては国司の存在が不明に等しい状態でしたが、建武の新政ではこの国司を地方を支配する組織の重要職としているのが特徴です。
建武の新政に対する公家・武家・農民の不満
建武の新政の政治政策はいずれも前例がないほど新しいものでしたが、逆にそれが公家からの不満を招くものとなります。と言うのも、当時の政治は前例にならうのが基本であり、新しいことを行う政治のスタイルを良しとしない公家が多かったのです。新通貨の発行などはまさに非現実的であり、後醍醐天皇の政治の手腕を疑問視する声が挙がりました。
さらに、建武の新政に不満を持ったのは公家だけではありません。武家…すなわち武士もまた建武の新政に不満を持っており、それは公武協調を謳いながらも明らかに公家が優遇されていたためで、中央機関である恩賞方の判断も明らかに公正なものではなかったようです。
そして、建武の新政は農民の生活も圧迫させました。大内裏の造営の費用の負担を諸国の武士に押し付ける後醍醐天皇、そして費用の負担を押し付けられた武士はそれをさらに農民へと押し付け、結果的に建武の新政の政治政策が農民の生活を圧迫させることになったのです。
中先代の乱と帰らない足利尊氏
建武の新政に対して高まる不満……そこで行動に出たのは討幕の功労者である足利高氏でした。最も、足利高氏は討幕時に六波羅探題を滅ぼした功績によって後醍醐天皇の尊治(たかはる)の「尊」の文字を与えられ、討幕後は「足利尊氏」と改名しています。このため、建武の新政の時代においては「高氏」ではなく「尊氏」が正しい漢字ですね。
さてその足利尊氏ですが、その行動は唐突なものでした。元々彼は六波羅探題を滅ぼした時から諸国の御家人と主従関係を作っており、後醍醐天皇の知らぬ間に勢力を拡大させていたのです。1335年のこと、信濃国にて北条氏の残党による反乱で鎌倉が占拠される事件が起こります。
これを中先代の乱と呼び、この対処に真っ先に動いたのが足利尊氏でした。と言うのも、この時鎌倉には足利尊氏の弟・足利直義が駐屯しており、足利尊氏は弟救出のために後醍醐天皇の許可を得ることなく軍勢を率いて攻め込んでいったのです。そして、足利尊氏はそのまま後醍醐天皇の元へ戻ることはありませんでした。
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後醍醐天皇と足利尊氏の対立
弟救出に成功した足利尊氏はそのまま鎌倉を本拠地として政権作りを始めます。それは鎌倉幕府同様に武家を中心とした政権作りであり、後醍醐天皇からの再三の上洛要請も無視、鎌倉幕府に反旗を翻した足利尊氏は、今度は後醍醐天皇に反旗を翻して自ら政権を作ることにしたのです。
これに対して激しく怒りを見せたのが後醍醐天皇、そこで彼は鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞に足利尊氏の討伐を命じます。一時は足利尊氏を追い詰めた新田義貞でしたが討伐は失敗、しかし楠木正成と協力することで足利尊氏を再度追い詰め、足利尊氏は九州へと下りていきました。
最も、足利尊氏が九州へと下りたのは命からがら逃げ出したわけではなく、体制を整え直すためです。九州で多くの武士の支持を集めた足利尊氏は再度京都へと向かい、1336年の湊川の戦いによって新田義貞・楠木正成を倒すと京都を手中におさめることに成功、建武の新政の崩壊の瞬間でした。
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