しかし、鎌倉幕府が滅亡した後は朝廷の天皇中心による政治が行われた時期もあり、それが後醍醐天皇による建武の新政です。そこで、今回は建武の新政について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から建武の新政をわかりやすくまとめた。
執権・北条氏の政権掌握
誰かが日本のトップに立って政治を始めると、また別の誰かがそれに不満を持ち、トップを倒して自分がトップに立とうとします。そして、またまた別の誰かがそれに不満を持ち、今度は自分がトップに立とうとする……基本的に日本の歴史はこの繰り返しであり、鎌倉時代においてもそれは例外ではありません。
源頼朝が開いた鎌倉幕府に不満を持っていたのは後醍醐天皇であり、彼は相当以前から鎌倉幕府打倒を考えていたとされています。さて、源頼朝が開いた鎌倉幕府でしたが、源の将軍家はわずか3代で途絶えてしまい、以後は執権・北条氏が政権を掌握して幕府を取り仕切っていました。
鎌倉幕府の政治政策の象徴でもある守護・地頭はもちろん、幕府の重要な役職も全て北条氏に占められており、有力な御家人もまた北条氏に仕えていたのです。名門である足利氏も同様で、惣領は執権・北条高時の名前の「高」をもらい、足利高氏と名乗っていました。そして、この足利高氏こそ、近い将来において室町幕府を開く足利尊氏です。
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後醍醐天皇の討幕
北条氏が政権掌握していた頃、幕府に政権を奪われた朝廷内では持明院統と大覚寺統の2つの皇統が対立していました。そこで幕府は仲裁に入り、それぞれの皇統が交代で皇位につく両統迭立の方式を提案、実に朝廷内の揉め事においても解決に努めるほどの力を持つようになります。
これに不満を持った後醍醐天皇で、彼は2度にわたる討幕計画を立てており、これらの計画はそれぞれ正中の変、元弘の変と呼ばれるものです。1324年の正中の変……朝廷の天皇中心による政治を理想する後醍醐天皇は討幕を計画、ただこれは計画が漏れて未遂に終わり、後醍醐天皇の側近が処罰を受けることになりました。
そして1331年の元弘の変……これも計画が漏れて失敗、後醍醐天皇は島流しの処罰を受けるものの、島から脱出して仲間を集めます。この頃は幕府に反発する者も多く、そのため後醍醐天皇の呼びかけに応える者も少なくありませんでした。幕府についていた足利高氏も反旗を翻して後醍醐天皇につき、1333年に見事討幕を実現させたのです。
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