今日は建武の新政について勉強していきます。1185年に源頼朝が鎌倉幕府を開いて以降、日本は室町幕府、江戸幕府と長きにわたって幕府を中心とする武家政権が続いていった。

しかし、鎌倉幕府が滅亡した後は朝廷の天皇中心による政治が行われた時期もあり、それが後醍醐天皇による建武の新政です。そこで、今回は建武の新政について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から建武の新政をわかりやすくまとめた。

鎌倉幕府の滅亡

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執権・北条氏の政権掌握

誰かが日本のトップに立って政治を始めると、また別の誰かがそれに不満を持ち、トップを倒して自分がトップに立とうとします。そして、またまた別の誰かがそれに不満を持ち、今度は自分がトップに立とうとする……基本的に日本の歴史はこの繰り返しであり、鎌倉時代においてもそれは例外ではありません。

源頼朝が開いた鎌倉幕府に不満を持っていたのは後醍醐天皇であり、彼は相当以前から鎌倉幕府打倒を考えていたとされています。さて、源頼朝が開いた鎌倉幕府でしたが、源の将軍家はわずか3代で途絶えてしまい、以後は執権・北条氏が政権を掌握して幕府を取り仕切っていました。

鎌倉幕府の政治政策の象徴でもある守護・地頭はもちろん、幕府の重要な役職も全て北条氏に占められており、有力な御家人もまた北条氏に仕えていたのです。名門である足利氏も同様で、惣領は執権・北条高時の名前の「高」をもらい、足利高氏と名乗っていました。そして、この足利高氏こそ、近い将来において室町幕府を開く足利尊氏です

後醍醐天皇の討幕

北条氏が政権掌握していた頃、幕府に政権を奪われた朝廷内では持明院統と大覚寺統の2つの皇統が対立していました。そこで幕府は仲裁に入り、それぞれの皇統が交代で皇位につく両統迭立の方式を提案、実に朝廷内の揉め事においても解決に努めるほどの力を持つようになります。

これに不満を持った後醍醐天皇で、彼は2度にわたる討幕計画を立てており、これらの計画はそれぞれ正中の変元弘の変と呼ばれるものです。1324年の正中の変……朝廷の天皇中心による政治を理想する後醍醐天皇は討幕を計画、ただこれは計画が漏れて未遂に終わり、後醍醐天皇の側近が処罰を受けることになりました。

そして1331年の元弘の変……これも計画が漏れて失敗、後醍醐天皇は島流しの処罰を受けるものの、島から脱出して仲間を集めます。この頃は幕府に反発する者も多く、そのため後醍醐天皇の呼びかけに応える者も少なくありませんでした。幕府についていた足利高氏も反旗を翻して後醍醐天皇につき、1333年に見事討幕を実現させたのです。

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1334年・建武の新政の始まり

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天皇親政による建武の新政の始まり

討幕を果たした後醍醐天皇は1333年に天皇へと復帰、隠岐島に流されたことで持明院統の光厳天皇が即位していましたが、これを解消して再び天皇に復帰しました。こうして、いよいよ後醍醐天皇が理想としていた武士ではなく天皇中心の政治……すなわち天皇親政による建武の新政が始まります。

これまで幕府が行ってきた政治を廃止する点でもそれは意欲的かつ全く新しい政治であり、征夷大将軍・摂政・関白も廃止しました。遥か昔、900年頃には醍醐天皇が中心となって政治を行っていましたが、後醍醐天皇は天皇政治の理想と言われていた醍醐天皇の政治を手本にしたとされています。

そんな建武の新政は1334年に開始されますが、主な政策として挙げられるのは「大内裏の造営」、「新通貨の発行」、「中央組織の整備」、「地方組織の整備」の4つでしょう。では、これら4つの政策とその内容についてそれぞれ分かりやすく解説していきます。

大内裏の造営、新通貨の発行、中央機関の整備

建武の新政の政策の1つ目である「大内裏の造営」ですが、イコールこれは皇居の造営であり、その目的は後醍醐天皇の権威を示すことや財源確保にありました。問題はそのために必要な莫大な費用の収集ですが、二十分の一税と呼ばれる新税の導入や新たな貨幣・紙幣の発行を計画して賄おうとしたそうです。

次に2つ目である「新通貨の発行」ですが、これは文字どおり新たな通貨の発行の計画であり、その通貨は乾坤通宝とも言われています。ただし、これが実在するかどうかは定かになっておらず、幻の通貨とも表現される乾坤通宝は小説などのテーマにもなっており、ミステリー小説好きな人なら目にしたことがあるかもしれません。

次に3つ目である中央機関の整備、これは公武協調……つまり公家と武家が共に協力することを建前として、中央に記録所・恩賞方・武者所・雑訴決断所を設置しました。最も、公武協調が後醍醐天皇の本心であったのかは疑わしく、後に武家は公家との恩賞の差が不満となり、それが建武の新政の崩壊の要因にもなってくるのです。

建武の新政に対する人々の不満

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中央機関の整備の補足と地方組織の整備

建武の新政の政策、3つ目の中央機関の整備についてもう少し深く解説しておきましょう。中央機関となる記録所、恩賞方、雑訴決断所、武者所ですが、それぞれどのような機関なのでしょうか。記録所とは国の重要事項を決断する機関であり、すなわち日本の最高決定機関です。

そして恩賞方とは武士に対する恩賞を担当している機関、武者所とは朝廷のある京都の警備をする機関になります。雑訴決断所は「訴」「決断」の文字から推測できるとおり裁判を担当する機関であり、所領を巡っての事務や裁判に携わっており、鎌倉幕府で言うところの「引付」を受け継いだものです。

最後4つ目となる「地方組織の整備」ですが、これは日本の全国に国司と守護を設置したもので、権限は「国司>守護」になります。鎌倉幕府においては国司の存在が不明に等しい状態でしたが、建武の新政ではこの国司を地方を支配する組織の重要職としているのが特徴です。

建武の新政に対する公家・武家・農民の不満

建武の新政の政治政策はいずれも前例がないほど新しいものでしたが、逆にそれが公家からの不満を招くものとなります。と言うのも、当時の政治は前例にならうのが基本であり、新しいことを行う政治のスタイルを良しとしない公家が多かったのです。新通貨の発行などはまさに非現実的であり、後醍醐天皇の政治の手腕を疑問視する声が挙がりました。

さらに、建武の新政に不満を持ったのは公家だけではありません。武家…すなわち武士もまた建武の新政に不満を持っており、それは公武協調を謳いながらも明らかに公家が優遇されていたためで、中央機関である恩賞方の判断も明らかに公正なものではなかったようです。

そして、建武の新政は農民の生活も圧迫させました。大内裏の造営の費用の負担を諸国の武士に押し付ける後醍醐天皇、そして費用の負担を押し付けられた武士はそれをさらに農民へと押し付け、結果的に建武の新政の政治政策が農民の生活を圧迫させることになったのです

後醍醐天皇・足利尊氏の決別と対立

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中先代の乱と帰らない足利尊氏

建武の新政に対して高まる不満……そこで行動に出たのは討幕の功労者である足利高氏でした。最も、足利高氏は討幕時に六波羅探題を滅ぼした功績によって後醍醐天皇の尊治(たかはる)の「尊」の文字を与えられ、討幕後は「足利尊氏」と改名しています。このため、建武の新政の時代においては「高氏」ではなく「尊氏」が正しい漢字ですね。

さてその足利尊氏ですが、その行動は唐突なものでした。元々彼は六波羅探題を滅ぼした時から諸国の御家人と主従関係を作っており、後醍醐天皇の知らぬ間に勢力を拡大させていたのです。1335年のこと、信濃国にて北条氏の残党による反乱で鎌倉が占拠される事件が起こります。

これを中先代の乱と呼び、この対処に真っ先に動いたのが足利尊氏でした。と言うのも、この時鎌倉には足利尊氏の弟・足利直義が駐屯しており、足利尊氏は弟救出のために後醍醐天皇の許可を得ることなく軍勢を率いて攻め込んでいったのです。そして、足利尊氏はそのまま後醍醐天皇の元へ戻ることはありませんでした。

後醍醐天皇と足利尊氏の対立

弟救出に成功した足利尊氏はそのまま鎌倉を本拠地として政権作りを始めます。それは鎌倉幕府同様に武家を中心とした政権作りであり、後醍醐天皇からの再三の上洛要請も無視、鎌倉幕府に反旗を翻した足利尊氏は、今度は後醍醐天皇に反旗を翻して自ら政権を作ることにしたのです。

これに対して激しく怒りを見せたのが後醍醐天皇、そこで彼は鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞に足利尊氏の討伐を命じます。一時は足利尊氏を追い詰めた新田義貞でしたが討伐は失敗、しかし楠木正成と協力することで足利尊氏を再度追い詰め、足利尊氏は九州へと下りていきました。

最も、足利尊氏が九州へと下りたのは命からがら逃げ出したわけではなく、体制を整え直すためです。九州で多くの武士の支持を集めた足利尊氏は再度京都へと向かい、1336年の湊川の戦いによって新田義貞・楠木正成を倒すと京都を手中におさめることに成功、建武の新政の崩壊の瞬間でした。

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建武の新政の崩壊

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南北朝時代の始まり

京都を手中におさめた足利尊氏は、後醍醐天皇に和議を申し込みます。1336年、後醍醐天皇に代わって即位したのは光明天皇、彼に三種の神器を握らせることで皇位継承者として認め、建武式目十七条を制定して新たな武家政権の樹立を宣言しました。これで建武の新政は崩壊、鎌倉幕府滅亡で期待された新政権はわずか3年足らずで終わります。

とは言え、後醍醐天皇はこれで政治を諦めたわけではありません。密かに京都を脱出した後醍醐天皇は吉野(奈良県)まで逃れており、そこで自ら朝廷と政権の樹立を宣言したのです。これによって、京都の朝廷と天皇に加えて吉野にも朝廷と天皇が誕生する不可思議な事態となりました。

この奇妙な時代を南北朝時代と呼び、文字どおり南と北のそれぞれに朝廷があることが名前の由来になっています。この南北朝時代は1336年から1392年まで続いており、後醍醐天皇が死去した後も南朝は存続、それぞれの朝廷が合一するのはまだまだ先のことです。

後醍醐天皇の死去と追い詰められる南朝

さて、南朝を築いた後醍醐天皇でしたが、当然元の朝廷……すなわち北朝と対立することになっていきます。一方の北朝、1338年に足利尊氏は光明天皇から正式に征夷大将軍へと任命され、武家による新政権である室町幕府がここに誕生しました。そしてその翌年に後醍醐天皇は死去、「朝敵討滅・京都奪回」を遺言としたそうです。

室町幕府が開かれた北朝と後醍醐天皇が死去した南朝、この状況が示すとおり南朝は追い詰められ、やがては新田義貞らも戦死して北朝に寝返る者まで多く出始めます。そして1348年、足利尊氏の執事・高師直(こうのもろなお)が吉野を焼き払い、南朝を攻め落とすことで一時決着がつきました。

若い頃から鎌倉幕府打倒の思いを秘めて生きてきた後醍醐天皇、2度もの討幕計画の末にその思いは現実のものとなりましたが、自ら政治を行った建武の新政は成功とは言い難く、公家、武家、農民全ての不満を招いて足利尊氏の手によって崩壊したのです。それはわずか3年足らずの新政権でした。

足利尊氏の動きに注目しよう

建武の新政はわずか3年足らずで崩壊したため、幕府ほど覚える内容は多くありません。注意すべき点は足利尊氏の動向で、鎌倉幕府滅亡、建武の新政の始まり、室町幕府誕生、全て足利尊氏が関係してきます。

そして、足利尊氏は場面によって後醍醐天皇の敵にも味方にもなっており、そのため足利尊氏の動きを理解すれば、建武の新政の誕生から崩壊もより理解しやすくなるでしょう。

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日本史歴史鎌倉時代

天皇中心の政治よ再び!後醍醐天皇の「建武の新政」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は建武の新政について勉強していきます。1185年に源頼朝が鎌倉幕府を開いて以降、日本は室町幕府、江戸幕府と長きにわたって幕府を中心とする武家政権が続いていった。

しかし、鎌倉幕府が滅亡した後は朝廷の天皇中心による政治が行われた時期もあり、それが後醍醐天皇による建武の新政です。そこで、今回は建武の新政について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から建武の新政をわかりやすくまとめた。

鎌倉幕府の滅亡

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執権・北条氏の政権掌握

誰かが日本のトップに立って政治を始めると、また別の誰かがそれに不満を持ち、トップを倒して自分がトップに立とうとします。そして、またまた別の誰かがそれに不満を持ち、今度は自分がトップに立とうとする……基本的に日本の歴史はこの繰り返しであり、鎌倉時代においてもそれは例外ではありません。

源頼朝が開いた鎌倉幕府に不満を持っていたのは後醍醐天皇であり、彼は相当以前から鎌倉幕府打倒を考えていたとされています。さて、源頼朝が開いた鎌倉幕府でしたが、源の将軍家はわずか3代で途絶えてしまい、以後は執権・北条氏が政権を掌握して幕府を取り仕切っていました。

鎌倉幕府の政治政策の象徴でもある守護・地頭はもちろん、幕府の重要な役職も全て北条氏に占められており、有力な御家人もまた北条氏に仕えていたのです。名門である足利氏も同様で、惣領は執権・北条高時の名前の「高」をもらい、足利高氏と名乗っていました。そして、この足利高氏こそ、近い将来において室町幕府を開く足利尊氏です

後醍醐天皇の討幕

北条氏が政権掌握していた頃、幕府に政権を奪われた朝廷内では持明院統と大覚寺統の2つの皇統が対立していました。そこで幕府は仲裁に入り、それぞれの皇統が交代で皇位につく両統迭立の方式を提案、実に朝廷内の揉め事においても解決に努めるほどの力を持つようになります。

これに不満を持った後醍醐天皇で、彼は2度にわたる討幕計画を立てており、これらの計画はそれぞれ正中の変元弘の変と呼ばれるものです。1324年の正中の変……朝廷の天皇中心による政治を理想する後醍醐天皇は討幕を計画、ただこれは計画が漏れて未遂に終わり、後醍醐天皇の側近が処罰を受けることになりました。

そして1331年の元弘の変……これも計画が漏れて失敗、後醍醐天皇は島流しの処罰を受けるものの、島から脱出して仲間を集めます。この頃は幕府に反発する者も多く、そのため後醍醐天皇の呼びかけに応える者も少なくありませんでした。幕府についていた足利高氏も反旗を翻して後醍醐天皇につき、1333年に見事討幕を実現させたのです。

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