2-2、栄一、帰国後は大蔵省に入省
By 不明 – http://www.education.fukaya.saitama.jp/bunkazai/history/history6.htm, パブリック・ドメイン, Link
栄一は帰国後、静岡に謹慎していた慶喜と面会、直参旗本たちが移住した静岡藩への出仕を命ぜられたが、慶喜に「これからはお前の道を行きなさい」と言葉をかけられたということ。その後の栄一は、フランスで学んだ株式会社制度の実践と、新政府からの拝借金返済のために、明治2年(1869年)1月、静岡で商法会所を設立。しかし大隈重信の説得で、10月に大蔵省に入省。栄一は大蔵官僚として、当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていたので、民部省改正掛を率いて改革案の企画立案や、度量衡の制定、国立銀行条例制定にもたずさわることに。そして明治5年(1872年)には紙幣寮頭に就任。
当時はドイツで印刷された明治通宝(通称ゲルマン紙幣)を取り扱ったが、贋札事件の発生も少なくなく、また予算編成を巡って大久保利通や大隈重信と対立、明治6年(1873年)に井上馨と共に退官、明治8年(1875年)、商法講習所を設立。
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2-3、栄一、実業界へ、銀行など設立しまくる
栄一は、大蔵省退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(のちの第一銀行ならびに第一勧業銀行、現・みずほ銀行)の頭取に就任、以後は実業界に。
また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行などの多くの地方銀行設立を指導。 栄一は他にも、東京証券取引所、東京瓦斯、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)、王子製紙(現・王子製紙、日本製紙)、田園都市(現・東急)、秩父セメント(現・太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)、サッポロビール(現・サッポロホールディングス)、東洋紡績(現・東洋紡)、大日本製糖、明治製糖、澁澤倉庫などの多種多様の会社設立に関わっていて、その数は500以上も。明治20年(1887年)頃、渋沢を慕っていた経営者や管理職が集まる龍門社が組織されて、昭和初期には数千名の会員に膨れ上がったということ。
2-4、栄一、区会議員、貴族院議員になるも入閣は辞退
栄一は、明治22年(1889年)から明治37年(1904年)の15年間、東京市の深川区会議員を務め、区会議長にも選出、深川の発展に尽くしたそう。 また、この間、第1回衆議院議員総選挙が行われたときは、栄一は出馬の意思表明をしなかったものの東京5区(本所区、深川区)で94票を獲得、有効票とされて次点に。
そして明治23年(1890年)9月29日に貴族院議員に勅選され、同年12月15日の第1回帝国議会貴族院本会議に出席、以降は出席せずに翌年1891年10月29日に辞任。
明治34年(1901年)5月16日には組閣の大命が下った井上馨から、真っ先に大蔵大臣として入閣を求められたが辞退したため、井上は栄一が蔵相でなければ組閣の自信がないとして、井上内閣は幻に終わったということ。
2-5、栄一、数々の大学創設にも貢献
日露戦争開戦前年の明治36年(1903年)、対インド貿易の重要性を認識していた栄一は、大隈重信らとともに日印協会の設立に携わり、第3代会長をつとめたということ。
また、当時は実学教育に関する意識が薄いせいもあり、実業教育が行われていなかったが、渋沢は教育にも力を入れ森有礼と共に、商法講習所(現一橋大学)、大倉喜八郎と大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力、二松學舍(現二松學舍大学)の第3代舎長に就任。また、学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)の設立、経営にも関わり、井上馨の頼みで同志社大学(創立者新島襄)への寄付金集めにも関わったということ。そして男尊女卑の影響が残っていた明治時代に女子の教育の必要性を考えて、伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立、日本女子大学校、東京女学館の設立も。
「外人土地所有禁止法」(1912年)で、日本移民排斥運動などで日米関係が悪化したが、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案、うまくいかなかったものの現在の時事通信社と共同通信社の起源に。
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