今回は渋沢栄一を取り上げるぞ。

この人は新一万円札になる人だから、何をしたのか詳しく知っておきたいよな。

その辺のところを明治時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、渋沢栄一について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、渋沢栄一は埼玉の生まれ

渋沢栄一は、天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現、埼玉県深谷市血洗島)で、父渋沢市郎右衛門元助、母エイの長男として誕生。幼名は栄二郎、のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。雅号は青淵(せいえん)。

1-2、栄一の子供時代

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栄一は、5歳の頃から父に読書を教えられ、7歳で従兄の尾高惇忠(富岡製糸場の初代場長)に四書五経、「日本外史」を学び、剣術は大川平兵衛から神道無念流を。

渋沢家は、染料の藍玉の製造販売と養蚕を兼営、米、麦、野菜の生産も手がける豪農で、原料の買い入れと販売を担うために商業的な才覚が必要だったということ。栄一も父と共に信州や上州まで出かけて藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行ったそう。栄一は、14歳になるとひとりで藍葉の仕入れに出かけるように。

この経験が後にヨーロッパでの先進国の経済システムを吸収しやすくなり、現実的な合理主義思想にも繋がったそう。

1-3、栄一、尊攘派志士から一橋慶喜の家臣に

栄一は、安政4年(1858年)19歳のときに従妹でもある惇忠の妹、尾高千代と結婚、栄一郎と改名。

文久元年(1861年)、江戸に出て海保漁村の門下生に、また北辰一刀流の千葉周作の息子栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行しつつ勤皇志士と交友を結んだということ。そして文久3年(1863年)には尊皇攘夷の思想に目覚め、従兄の渋沢成一郎らと高崎城を乗っ取って武器を奪って横浜を焼き討ちにし、長州と連携して幕府を倒すという計画をたてるが、惇忠の弟、尾高長七郎(従兄弟)の懸命な説得で中止。その後、親族に累が及ばぬよう父に勘当された体裁で上洛するも文久3年(1863年)8月18日の政変直後で、長州が凋落した京都の志士活動に行き詰まったので、江戸遊学の頃から交際のあった一橋家家臣、平岡円四郎の推挙で一橋慶喜に仕えることに。一橋家では前年に慶喜が将軍後見職となったので、有為な人材を広く求めていたそうで、栄一は一橋家領内を巡回し、農兵の募集を担当。

2-1、栄一、徳川昭武のヨーロッパ歴訪に随行

栄一は、主君の慶喜が将軍となった慶応2年(1866年)スライド式に幕臣となり、パリ万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟、徳川昭武と御勘定格陸軍付調役の肩書で随行員として、フランスへ渡航。一行はパリ万博を視察し、ヨーロッパ各国を歴訪、各地で先進的な産業、軍備を見学して感銘を受けたということ。この時に彼に語学を教えたのは、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男で通訳として同行していたアレクサンダーで、帰国後も交友が続き、弟のハインリヒと共に、後に日本赤十字社設立などにも協力。
なお栄一はフランス滞在中に、御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役に。

パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学予定だったが、大政奉還に伴って慶応4年(1868年)5月には新政府の帰国命令で、同年11月3日(12月16日)に横浜港に帰着。

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2-2、栄一、帰国後は大蔵省に入省

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栄一は帰国後、静岡に謹慎していた慶喜と面会、直参旗本たちが移住した静岡藩への出仕を命ぜられたが、慶喜に「これからはお前の道を行きなさい」と言葉をかけられたということ。その後の栄一は、フランスで学んだ株式会社制度の実践と、新政府からの拝借金返済のために、明治2年(1869年)1月、静岡で商法会所を設立。しかし大隈重信の説得で、10月に大蔵省に入省。栄一は大蔵官僚として、当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていたので、民部省改正掛を率いて改革案の企画立案や、度量衡の制定、国立銀行条例制定にもたずさわることに。そして明治5年(1872年)には紙幣寮頭に就任。

当時はドイツで印刷された明治通宝(通称ゲルマン紙幣)を取り扱ったが、贋札事件の発生も少なくなく、また予算編成を巡って大久保利通や大隈重信と対立、明治6年(1873年)に井上馨と共に退官、明治8年(1875年)、商法講習所を設立。

2-3、栄一、実業界へ、銀行など設立しまくる

 栄一は、大蔵省退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(のちの第一銀行ならびに第一勧業銀行、現・みずほ銀行)の頭取に就任、以後は実業界に。

また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行などの多くの地方銀行設立を指導。 栄一は他にも、東京証券取引所、東京瓦斯、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)、王子製紙(現・王子製紙、日本製紙)、田園都市(現・東急)、秩父セメント(現・太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)、サッポロビール(現・サッポロホールディングス)、東洋紡績(現・東洋紡)、大日本製糖、明治製糖、澁澤倉庫などの多種多様の会社設立に関わっていて、その数は500以上も。明治20年(1887年)頃、渋沢を慕っていた経営者や管理職が集まる龍門社が組織されて、昭和初期には数千名の会員に膨れ上がったということ。

2-4、栄一、区会議員、貴族院議員になるも入閣は辞退

栄一は、明治22年(1889年)から明治37年(1904年)の15年間、東京市の深川区会議員を務め、区会議長にも選出、深川の発展に尽くしたそう。 また、この間、第1回衆議院議員総選挙が行われたときは、栄一は出馬の意思表明をしなかったものの東京5区(本所区、深川区)で94票を獲得、有効票とされて次点に。

そして明治23年(1890年)9月29日に貴族院議員に勅選され、同年12月15日の第1回帝国議会貴族院本会議に出席、以降は出席せずに翌年1891年10月29日に辞任。
明治34年(1901年)5月16日には組閣の大命が下った井上馨から、真っ先に大蔵大臣として入閣を求められたが辞退したため、井上は栄一が蔵相でなければ組閣の自信がないとして、井上内閣は幻に終わったということ。

2-5、栄一、数々の大学創設にも貢献

日露戦争開戦前年の明治36年(1903年)、対インド貿易の重要性を認識していた栄一は、大隈重信らとともに日印協会の設立に携わり、第3代会長をつとめたということ。

また、当時は実学教育に関する意識が薄いせいもあり、実業教育が行われていなかったが、渋沢は教育にも力を入れ森有礼と共に、商法講習所(現一橋大学)、大倉喜八郎と大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力、二松學舍(現二松學舍大学)の第3代舎長に就任。また、学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)の設立、経営にも関わり、井上馨の頼みで同志社大学(創立者新島襄)への寄付金集めにも関わったということ。そして男尊女卑の影響が残っていた明治時代に女子の教育の必要性を考えて、伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立、日本女子大学校、東京女学館の設立も。

「外人土地所有禁止法」(1912年)で、日本移民排斥運動などで日米関係が悪化したが、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案、うまくいかなかったものの現在の時事通信社と共同通信社の起源に。

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2-6、栄一、渋沢財閥を作らず

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栄一は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設、後に「渋沢財閥」と呼ばれたこともあったが、死後の財産争い防止のために便宜上持株会社化したもので、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下だったそう。

栄一は、昭和6年(1931年)92歳で 死去。

令和3年(2021年)は、渋沢栄一主人公のNHK大河ドラマ「青天を衝け」が放送予定していて、令和6年(2024年)発行の新紙幣一万円札の顔に決定。
故郷の現埼玉県深谷市には、渋沢栄一記念館が。

3-1、栄一の社会貢献活動

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栄一は、実業界の中で最も社会活動に熱心で有名でした。東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院初代理事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長なども歴任。

関東大震災後の復興にあたっては、大震災善後会副会長として寄付金集めなどに奔走したということですが、そのなかの有名な話をご紹介しますね。

3-2、栄一、養育院を設立

明治初期の東京は、人口が50万人にまで減り、その60%が生活困窮者という社会問題を前にした、栄一は明治7年(1874年)から首都東京の困窮者、病者、孤児、老人、障害者の保護施設である養育院の運営に関与、明治9年(1876年)5月11日に養育院事務長に。

そして栄一は明治7年(1874年)に東京府知事だった大久保一翁に、養育院の設置資金にも使われた七分積金の運用を貧困者の救済のために使ってほしいと依頼されたということ。また明治12年(1879年)以降、養老院の運営は東京都の税金が使われていたが、明治政府は富国強兵政策を強く進めていたせいで、明治14年(1881)年、東京府議会での養育院廃止案が提案され、批判される中で栄一は「貧しい人を助けることは、日本の資本主義を豊かにするためにも、必要なこと」と主張。しかし明治17年(1884年)で公費支出の停止による東京府直営制は廃止が決定。栄一は養育院の所属は東京都のままで、栄一が運営する委任経営として、民間資金で運営を継続することに。

渋沢は、東京府病院貯蓄金の利子、元養育院敷地の売却、鹿鳴館でのバザーなどで現在の6800万円相当の運営資金を確保して養育院を存続、また多くの経済人から寄付を仰いだそう。

養育院では、寛政の改革を行った松平定信の更生システムを基として、つまり、無宿人、浮浪人を江戸石川島の人足寄場で職業訓練したように、近代的な診療設備に加えて職業訓練所を設けて社会復帰を支援、子どもの学問所を作り知識を身に付けさせたということ。栄一は、91歳で亡くなるまで約50年間養育院院長を続け、廃止論の逆風を受けながら分院、専門施設を開設して事業を拡大していったそう。

七分積金とは
寛政改革の際に老中松平定信が江戸町方に命じた積立制度のこと。町入用の節減分の7分(70%)を積立させて、備蓄のための籾の囲い置きや貧困者への手当に充てる飢饉に備えたもので、寛政4年(1792年)初頭から幕末までの間、毎年2万両以上の積立が江戸町会所に集められ、幕末期の幕府財政の悪化にも関わらず、勘定奉行や町奉行ら幕府側が積立金に手をつけて財政赤字を補うこともなく、天保の大飢饉や幕末の長州征伐前後に米価が暴騰し、世直し一揆などの際に、金銭や米を放出したということ。更に、積立金の一部を江戸町会所を通じて、御家人などの中小地主のために低利融資を行い、災害時の建物再建、地主層や御家人の没落防止にも役立てたそう。

明治5年(1872年)、明治政府に、170万両とも言われる積立金が東京会議所(旧・江戸町会所)から東京府や東京市に接収され、その多くが学校の建設や銀座などでの近代的な道路整備という社会基盤整備事業に充てられたということ。

3-3、栄一、青い目のお人形と市松人形の交換で交流

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By 不明 - http://blog.livedoor.jp/shibusawaken/archives/cat_127533.html, パブリック・ドメイン, Link

栄一は、日本国際児童親善会を設立、昭和2年(1927年)3月、そのころ深刻になっていた日米の対立を懸念、緊張を民間外交でやわらげようと、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士の国際親善、人と人との理解は大人になってからでは遅い、次世代からの国際交流を重視した「世界の平和は子供から」の提唱に賛同し、アメリカの青い目の人形と日本の市松人形の交換で交流を深めることに尽力したそう。

また栄一は、昭和6年(1931年)には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金を募るなどの民間外交の先駆者として、昭和2年(1926年)と昭和3年(1927年)のノーベル平和賞の候補に。

\次のページで「3-4、栄一、引退後も頼りにされる」を解説!/

3-4、栄一、引退後も頼りにされる

明治42年(1909年)年、70歳の栄一は銀行を除いて経済界からは引退、しかし社会福祉活動は終生つづけたそう。

昭和4年(1929年)、世界大恐慌の影響で日本でも失業者が続出、東北地方では農村が深刻な飢饉に見舞われたとき、国会で救護法が制定されたが、予算がないを理由に政府は実施を先延ばしに。そこで福祉事業家たちは、最後の頼みの綱として91歳で病気療養中の栄一に救護法実現への協力を依頼、「私はもうどれだけ生きられるかわからない」「私の命をみんなに与えていくのは本望だ」と大蔵大臣に面会、「私たちが一生懸命に働いてきて、日本の経済をこのようにしたのは、この時こそ皆さんに役立てて頂きたいからでありました」「渋沢の最後のお願いです。救護法を実施してください」と、申し出たところ、2年後に大蔵大臣は予算を工面して救護法を実施、24万人もの人々が救護されたそう。

3-5、道徳経済合一説

栄一は、大正5年(1916年)に「論語と算盤」を著し、「道徳経済合一説」の理念を打ち出したということ。「論語」の仁義道徳をよりどころに、倫理と利益の両立を掲げて経済を発展させる理念で、国全体を豊かにするためには、利益を独占するのではなく富は全体で共有するものとして社会に還元が必要と解説。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができない。道徳と離れた欺瞞、不道徳、権謀術数的な商才は、真の商才ではないという経営哲学。

日本の資本主義の基盤を作り、お手本となった実業界の巨人

渋沢栄一は、若い頃に同世代の若者のごとく、一時的に攘夷運動に関わったこともありましたが、ヨーロッパに派遣されて見聞を広め、新知識を吸収して帰国後は、実業界で大変な功績を収めました。

また、これだけの功績がありながら、ノーブレスオブリージュを発揮して福祉活動も熱心に行い、大きなカバンを持って経済界の大物を訪問、まず自分がどれだけ寄付したか話し、相手が寄付を出さざるを得ない、上手に寄付を募るテクニックも持っていたということです。

今まで何度もお札の肖像の候補になったが、偽造防止のため髭がないのでお札に出来なかったが、技術の進歩でやっとお札に出来るようになったそうですが、栄一の道徳経済合一論の影響で今後の日本が物心共に豊かで、誰にでも思いやりのある国になればと思います。

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大正日本史明治昭和歴史

日本資本主義の父「渋沢栄一」明治、大正、昭和を生きた実業家について歴女がわかりやすく解説

今回は渋沢栄一を取り上げるぞ。

この人は新一万円札になる人だから、何をしたのか詳しく知っておきたいよな。

その辺のところを明治時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、渋沢栄一について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、渋沢栄一は埼玉の生まれ

渋沢栄一は、天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現、埼玉県深谷市血洗島)で、父渋沢市郎右衛門元助、母エイの長男として誕生。幼名は栄二郎、のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。雅号は青淵(せいえん)。

1-2、栄一の子供時代

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栄一は、5歳の頃から父に読書を教えられ、7歳で従兄の尾高惇忠(富岡製糸場の初代場長)に四書五経、「日本外史」を学び、剣術は大川平兵衛から神道無念流を。

渋沢家は、染料の藍玉の製造販売と養蚕を兼営、米、麦、野菜の生産も手がける豪農で、原料の買い入れと販売を担うために商業的な才覚が必要だったということ。栄一も父と共に信州や上州まで出かけて藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行ったそう。栄一は、14歳になるとひとりで藍葉の仕入れに出かけるように。

この経験が後にヨーロッパでの先進国の経済システムを吸収しやすくなり、現実的な合理主義思想にも繋がったそう。

1-3、栄一、尊攘派志士から一橋慶喜の家臣に

栄一は、安政4年(1858年)19歳のときに従妹でもある惇忠の妹、尾高千代と結婚、栄一郎と改名。

文久元年(1861年)、江戸に出て海保漁村の門下生に、また北辰一刀流の千葉周作の息子栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行しつつ勤皇志士と交友を結んだということ。そして文久3年(1863年)には尊皇攘夷の思想に目覚め、従兄の渋沢成一郎らと高崎城を乗っ取って武器を奪って横浜を焼き討ちにし、長州と連携して幕府を倒すという計画をたてるが、惇忠の弟、尾高長七郎(従兄弟)の懸命な説得で中止。その後、親族に累が及ばぬよう父に勘当された体裁で上洛するも文久3年(1863年)8月18日の政変直後で、長州が凋落した京都の志士活動に行き詰まったので、江戸遊学の頃から交際のあった一橋家家臣、平岡円四郎の推挙で一橋慶喜に仕えることに。一橋家では前年に慶喜が将軍後見職となったので、有為な人材を広く求めていたそうで、栄一は一橋家領内を巡回し、農兵の募集を担当。

2-1、栄一、徳川昭武のヨーロッパ歴訪に随行

栄一は、主君の慶喜が将軍となった慶応2年(1866年)スライド式に幕臣となり、パリ万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟、徳川昭武と御勘定格陸軍付調役の肩書で随行員として、フランスへ渡航。一行はパリ万博を視察し、ヨーロッパ各国を歴訪、各地で先進的な産業、軍備を見学して感銘を受けたということ。この時に彼に語学を教えたのは、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男で通訳として同行していたアレクサンダーで、帰国後も交友が続き、弟のハインリヒと共に、後に日本赤十字社設立などにも協力。
なお栄一はフランス滞在中に、御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役に。

パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学予定だったが、大政奉還に伴って慶応4年(1868年)5月には新政府の帰国命令で、同年11月3日(12月16日)に横浜港に帰着。

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