今回は大山捨松を取り上げるぞ。

この人もアメリカ留学から帰って活躍したパイオニアです。何をしたのか、もっと詳しく知りたいよな。

その辺のところを学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大山捨松について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、大山捨松は会津藩家老の娘

大山捨松(すてまつ)は、安政7年(1860年)、会津若松で誕生。父は会津藩国家老山川尚江重固(なおえ しげかた)、母、艶(えん、歌人で号は唐衣からころも)との間の末娘。本名はさき、咲子、後に留学するときに捨松と改名。ここでは捨松で統一。

捨松が生まれたとき、父は既に亡く、幼少の頃は祖父の兵衛重英(ひょうえ しげひで)が、その後は長兄の大蔵(おおくら、後の山川浩)が父親がわりに。きょうだいは、長姉の二葉、長男の浩(大蔵)、次女の三和、三女の操、次男の健次郎、四女の常盤。(12人のうち5人が夭折)。

1-2、捨松、8歳で会津戦争を経験

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捨松は、知行1000石の家老の娘で不自由なく育ったが、慶応4年(1868年)8月、会津戦争勃発。数え年8歳の捨松は家族と共に会津若松城に籠城、負傷兵の手当てや炊き出しを手伝い、そして城内に着弾した焼玉式焼夷弾に、一斉に駆け寄って濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業を担当。捨松はこれで大怪我をしたことも。そしてすぐ側で長兄大蔵の妻が重傷を負って亡くなるのも体験。このとき会津若松城に、大砲を雨あられと撃ち込んでいた官軍の砲兵隊長が薩摩藩の大山弥助(のちの大山巌で捨松の夫)だったということ。

1-3、捨松、降伏後、フランス人家庭に里子に出される

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 会津藩は、1か月の攻防の後官軍に降伏し、会津23万石は改易、1年後に改めて陸奥斗南3万石に。しかし斗南藩は下北半島最北端の不毛の地で3万石とは名ばかり、実質石高は7000石足らずだったので、会津藩士たちの生活は過酷を極め、飢えと寒さで大変な状況だったので、山川家では末娘の捨松を海を隔てた函館へ。

日本初のロシア正教牧師で元土佐藩士の沢辺琢磨(坂本龍馬の従弟)、新島襄がアメリカに密航する際に援助した人物のもとに里子に出し、沢辺の紹介でフランス人の家庭に引き取られたということ。捨松はここで西洋文化に触れる生活を体験

1-4、捨松、アメリカ留学に応募

明治4年(1871年)、アメリカ視察旅行から帰国した北海道開拓使次官の黒田清隆は、数人の若者をアメリカに留学生として送り、未開の地を開拓する方法や技術など、北海道開拓に有用な知識を学ばせることを計画。黒田は西部の荒野で男性と肩を並べて開拓するアメリカ女性に感銘を受け、女子教育に関心を持ったため、留学生の募集は当初から男女若干名という例のないものに。

開拓使のこの計画は政府主導による10年間の官費留学という大がかりなものに発展し、この年出発することになっていた岩倉使節団に随行しての渡米が決定。捨松の次兄の健次郎(後の東大総長)も、この留学生に選抜されたということ。健次郎をはじめ、戊辰戦争で賊軍とされた東北諸藩の上級士族は、この官費留学で名誉挽回の好機と子弟を積極的に応募させたが、女子の応募者は皆無で、2度目の応募でやっと5人が応募したそう。

明治初期は女子に高等教育を受けさせ、10年間もの間単身異国の地に送り出すなんて、とても考えられない時代だったのだが、捨松はなにしろ8歳で籠城という体験をしたうえ、函館のフランス人家庭で西洋式の生活習慣にある程度慣れていること、やはり留学生となる次兄の健次郎がいることもあって、満11歳の捨松を応募させることに。捨松を含めて5人の全員が旧幕臣や賊軍の娘で、しかも西欧に渡航経験や関心のある親兄弟を持っていて、全員が合格。

尚、このとき10年間の留学を「捨てたつもりで待つ」という意味で、母によって捨松と改名。
また捨松がアメリカに向けて船出した翌日、大山弥助改め大山巌も横浜港を発ってジュネーヴへ留学。

2-1、捨松、アリス・ベーコンと出会う

 捨松らは、アメリカ丸という外輪船に乗って、横浜から23日かかってサンフランシスコに到着。その後、5人の女子留学生のうち思春期を過ぎていた年長の2人は、ほどなくホームシックでその年のうちに帰国したが、年少の捨松、永井しげ、津田梅子は、アメリカでの暮らしに順応。最初は同じワシントン近郊のジョージタウンの家で世話になっていたが、半年たっても英語を覚えないので、別々のお家に分けられたということ。

捨松は、コネチカット州ニューヘイブン、プロテスタント会衆派の牧師レオナード・ベーコン宅に寄宿。4年近くベーコン家の娘同様に暮らして、英語を習得。この間、ベーコン牧師によってキリスト教の洗礼も受けたということ。ベーコン家の14人兄妹の末娘が捨松の生涯の親友となったアリス・ベーコン。捨松はその後、地元ニューヘイブンのヒルハウス高校を経て、永井しげとともにニューヨーク州ポキプシーの、アメリカを代表する女性知識人を輩出した名門ヴァッサー大学に進学。永井しげは、専門科である音楽学校を選び、英語をほぼ完璧に習得していた捨松は通常科に入学。
当時のヴァッサー大学は全寮制の女子大学で、東洋人の留学生は珍しい時代、「焼玉押さえ」など武勇談にも事欠かないサムライの娘「スティマツ」は、すぐに学内の人気者に。捨松の美しさと知性は、同学年の女子学生を魅了したようで、大学2年生で学生会の学年会会長に選ばれ、また傑出した頭脳をもった特別な学生だけが入会を許されるという、シェイクスピア研究会やフィラレシーズ会にも入会したということ。

\次のページで「2-2、捨松、日本人女性として初、ヴァッサー女子大を優秀な成績で卒業」を解説!/

2-2、捨松、日本人女性として初、ヴァッサー女子大を優秀な成績で卒業

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捨松の成績はいたって優秀で得意科目は生物学、そのうえに官費留学生として強い自覚を持ち、日本が置かれている国際情勢や内政上の課題にも明るかったそう。学年3位の通年成績で「偉大な名誉」(magna cum laude ) の称号を得て、アメリカの大学を卒業した初の日本人女性となったということ。卒業式では卒業生総代の一人に選ばれて、卒業論文の「英国の対日外交政策」をもとにした講演を行い、その内容は地元新聞に掲載されるほど。

このとき北海道開拓使はすでに廃止が決定していて、留学生には帰国命令が出たが、捨松は滞在延長を申請し許可。捨松は前年設立されたアメリカ赤十字社に強い関心を寄せていたので、大学卒業後、コネチカット看護婦養成学校に1年近く通って、日本人で初めて上級看護婦の免許を取得

2-3、捨松、日本に帰国するも失望の日々に

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捨松は、明治15年(1882年)11月、11年ぶりに帰国。新知識を身につけた捨松は、日本での赤十字社の設立や女子教育の発展に専心しようと希望に満ちていたそう。しかし考え方から立ち居振る舞いまでアメリカナイズされた捨松は、留学生仲間の永井しげとは日本語を使い、同市のエール大学で物理学を学んでいた次兄の健次郎と時々会って日本語を忘れないよう話したし、母への手紙も日本語で書いていたのに、日本語がかなり怪しくなっていたということ。その後、日常会話は数か月で出来るようになったが、漢字の読み書きが出来ず。

そして捨松のせっかくの知識を生かせるような職場は日本にはなく、北海道開拓使は廃止となり、仕事を斡旋してくれる者もいなくて孤立無援の捨松は、「アメリカ娘」と陰口を言われるまで。また、その頃の女性は10代で嫁に行く時代だったので、23歳の捨松は当時の女性としては婚期を逃した年齢、2歳年下の永井しげ(繁子)が早々に瓜生外吉と結婚。捨松も英語学者の神田乃武から縁談の申し出を受けるが、にべもなく断り、アリス・ベーコンに書き送った手紙には、「20歳を過ぎたばかりなのにもう売れ残りですって。想像できる? 母はこれでもう縁談も来ないでしょうなんて言っているの」と愚痴を。

2-4、捨松、大山巌と縁談が

ちょうどその頃、後妻を捜していたのが参議陸軍卿伯爵の大山巌(西郷隆盛の従弟)。大山は同郷の吉井友実の長女と結婚して3人の娘が生まれたが、3女出産後に妻は産褥で死去。大山の将来に期待をかけていた吉井は、後添いを探し求めて捨松に白羽の矢を。

当時の日本陸軍が、フランス式兵制からドイツ式兵制への過渡期で、フランス語やドイツ語が流暢に話せる大山は、列強の外交官や武官たちとの膝詰め談判に自らあたれたが、鹿鳴館時代の外交の大きな部分を占めていたのは、夫人同伴の夜会や舞踏会、やもめの大山には、アメリカの名門大学を成績優秀で卒業し、フランス語やドイツ語に堪能な捨松はまさにうってつけのお相手だったよう。

2-5、大山巌、捨松に一目惚れ

そして吉井がお膳立てして大山が捨松に初めて会ったのは、捨松の留学仲間の永井しげと瓜生外吉の結婚披露宴で、大山は捨松に一目惚れ。

自他共に認める西洋かぶれの大山は、捨松の洗練された美しさにすっかり心を奪われたが、吉井を通じて大山からの縁談を持ちかけられた山川家では、会津若松城を攻めた薩摩人との縁談などもっての外と即座に断ったということ。しかし大山も諦めない。今度は従弟の西郷従道(隆盛の弟)を山川家に送り、説得にあたってもらうことに。捨松の長兄浩が、「山川家は賊軍の家臣ゆえ」といえば、大山も「自分も逆賊(西郷隆盛)の身内」といい、従道には通じず。そして従道が連日説得にあたると大山の誠意が山川家にも伝わって態度も軟化、最終的には浩から「本人次第」ということに。

捨松は「(大山)閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません」とデートを提案、大山もこれに応じたということ。捨松は、初めはこてこての薩摩弁を使う大山が何を言っているのかさっぱり理解できず、しかし英語では会話がはずみ、2人は18歳という親子ほどの歳の開きがあったが、デートを重ねるうちに捨松は大山の心の広さと茶目っ気のある人柄に惹かれ、交際3ヵ月で大山との結婚を決意。この頃アリスに書いた手紙に捨松は、「たとえどんなに家族から反対されても、私は彼と結婚するつもり」と。

明治16年(1883年)11月8日、大山巌と山川捨松との婚儀が厳かに行われ、その1ヵ月後、完成したばかりの鹿鳴館(ろくめいかん)での盛大な結婚披露宴は千人を超える招待者でごった返したが、捨松は招待客の中に入って行き、気さくに話しかけたということ。捨松は社交界デビューし、大成功したということですね。

3-1、捨松、鹿鳴館の花と呼ばれるように

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当時は鹿鳴館時代と呼ばれ、明治政府が必死に近代化をアピールして、形だけでもヨーロッパの先進国に近づいたと見せる上っ面の近代化とされていますが、近代以降ヨーロッパでは夜会や舞踏会で夫人同伴で出席し、食事や舞踏会を楽しみつつ外交上の駆け引きをするという、まあ日本でいう料亭政治みたいなことが行われていたのですね。
そういう必要に駆られて外務卿の井上馨が作ったのが、鹿鳴館で、官立の社交場として、夜会や舞踏会が連日のように開催され、諸外国の外交官に加え、明治政府の高官たちも外交官たちとの親睦を深めるために参加したということ。しかし日本女性それも高い身分の女性ほど、そういう公の場に出て気の利いた会話にダンス、人に見られるなんてとんでもない時代だったので、伊藤博文や陸奥宗光などの芸者出身の夫人が活躍したわけです。
列強諸国の外交官たちも表面は楽しみながら、文書や日記などでは日本人の下手くそなダンスや似合わない燕尾服やドレス姿を嘲笑していたということ。

その中で、捨松は一人水を得た魚のように生き生きと活躍、捨松は当時の日本人女性には珍しい長身で、センスのいいドレスを着こなし、英、仏、独語がペラペラ、ジョークを交えて諸外国の外交官たちと談笑、12歳の時から身につけた社交ダンスのステップもかろやかに、向かうところ敵なしの伯爵夫人は、鹿鳴館の花と呼ばれるように。

\次のページで「3-2、捨松、日本初のチャリティーバザー成功、看護婦学校を設立」を解説!/

3-2、捨松、日本初のチャリティーバザー成功、看護婦学校を設立

捨松は、有志共立東京病院を見学したとき、看護婦の姿がなく、病人の世話は雑用係の男性が数名というのにショックを受け、院長の高木兼寛に自らの経験を語り、患者のためにも女性の職場開拓のためにも、高木院長に看護婦養成学校開設を提言。高木も看護婦の必要性は認めていたが、財政難で実施が難しいという答え。

そこで捨松は、明治17年(1884年)6月12日から3日間にわたり、日本初のチャリティーバザー「鹿鳴館慈善会」を開催。捨松は品揃えから告知、そして販売にいたるまでを率先して行い、そうそうたる政府高官の妻たちを前に陣頭指揮をとったそう。そしてバザーは 3日間で1万2千人が入場、予想をはるかに上回る収益となり、当時の金額で8000円全額を共立病院へ寄付し、高木院長を感激させたということ。この資金をもとに2年後、日本初の看護婦学校の有志共立病院看護婦教育所が設立。明治24年(1891年)に起きた濃尾地震には、看護婦学校の卒業生たちが救助に派遣されて活躍したということ。

3-3、捨松、華族女学校設立準備委員に

捨松の噂を聞いた伊藤博文からの要請を受けて、明治17年(1884年)に、捨松は華族女学校 (学習院女学部) の設立準備委員に就任。親友の留学生仲間の津田梅子やアリス・ベーコンたちを教師に招聘。しかし華族女学校が開校すると、授業は旧態依然と良妻賢母のための儒教的道徳に沿った男尊女卑の内容で、捨松らを失望させたということ。

3-4、捨松、ボランティア活動の草分けに

明治20年(1887年)、捨松は日本赤十字社に働きかけて篤志看護婦人会を発足させ、2年後、救護員養成所も開校。捨松は後に、愛国婦人会理事や、赤十字篤志看護会理事にも就任。日清日露の戦争では、大山巌が参謀総長や満州軍総司令官として戦略上の責任者となったこともあり、捨松は寄付金集めや婦人会活動に携わるように。

そしてアメリカで取得した看護婦の資格を生かして、日本赤十字社で戦傷者の看護もこなし、政府高官夫人たちを動員、包帯作りを行う活動も。日清戦争では25万人の看護婦が動員され、日露戦争では120万人もの看護婦が集まって、従軍看護婦が一般女性の人気にもなったそう。

また捨松は、鹿鳴館で知り合った外交官らの人脈を活用し、積極的にアメリカの新聞や雑誌、イギリスのタイムズ紙などにも繰り返し投稿、日本の立場や苦しい財政事情などを訴えたところ、日本軍の総司令官の妻がヴァッサー大卒という意外さもあってか、捨松の投稿がアメリカ世論を親日的に導き、多額の義援金も。アメリカで集まった義援金は、アリス・ベーコンが捨松に送金し、さまざまな慈善活動に活用されたそう。
日本とロシア間の仲介役の米国高官は捨松を、「戦争を早期に終結させ、講話条約を有利にした影の功労者」と。

3-5、捨松、親友津田梅子の女子英学塾を支援

明治33年(1900年)に津田梅子が女子英学塾(後の津田塾大学)を設立し、捨松は瓜生繁子ともに全面的に支援。アリスも日本に再招聘し自分たちの手で理想とする学校を作り、教育方針に第三者の容喙を許さないと金銭的援助を拒んだ梅子の方針で、捨松も繁子もアリスも無料奉仕を。捨松は英学塾の顧問となり、後に理事や同窓会長を務め、積極的に塾の運営にも関与。

捨松は、夫の巌が大正5年(1916年)12月10日に75歳で病死後、公の場には出なくなったが、大正8年(1919年)に津田梅子が病に倒れて女子英学塾が混乱すると、捨松が運営を取り仕切り、梅子が病気療養で退任後の後任者も捨松がなんとか指名し、新塾長の就任を見届けた翌日に、世界中に大流行したスペイン風邪で倒れて58歳で死去。

4-1、捨松の逸話

捨松の兄たちも優秀な人たちだとか、ちょっとした逸話をご紹介しますね。

\次のページで「4-2、会津藩山川家の兄弟縁者たち」を解説!/

4-2、会津藩山川家の兄弟縁者たち

捨松の祖父兵衛は300石だったが、幕末会津藩の財政を担当して1000石の国家老になった理財の才のある人。

長兄浩は文久2年(1862年)、藩主松平容保の京都守護職拝命に伴って上洛、慶応2年(1866年)には幕府の使者と同行してロシアへ渡航しヨーロッパ諸国を見聞。会津戦争当時は青年家老として第一線を指揮し、明治後は陸軍に入り、西南戦争などで知恵山川と呼ばれ、高等師範学校や貴族院議員なども務めて男爵に授爵、幕末の一級史料「京都守護職始末」の著者としても有名。

次兄の健次郎は、イエール大留学後、物理学者、教育者、東京帝国大学総長、九州帝国大学(九州大学の前身)初代総長、私立明治専門学校(九州工業大学の前身)総裁、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、旧制武蔵高等学校(武蔵中学校・高等学校および武蔵大学の前身)校長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任し男爵に叙爵。

長姉の 二葉も、お茶の水大学の前身である女子高等師範学校に寄宿舎長として28年勤めた教育者。

また、会津戦争で自決した白虎隊士で、ただひとり奇蹟的に蘇生した飯沼定吉は、母えんの実妹の次男で捨松の従兄弟。

4-3、大山巌と捨松夫妻はおしどり夫婦として有名

 捨松は、時新聞記者のインタビューで、「閣下はやはり奥様の事を一番お好きでいらっしゃるのでしょうね」と質問されて、「違いますよ。一番お好きなのは児玉さん(陸軍参謀の児玉源太郎)、二番目が私で、三番目がビーフステーキ。ステーキには勝てますけど、児玉さんには勝てませんの」と、当時の女性には真似できないようなウィットに富んだ会話でかわしたそう。

捨松は大山との間に2男1女に恵まれ、大山の先妻の3人の娘たちも分け隔てなく可愛がり、ママちゃんと呼ばれて慕われ、捨松は絵にかいた良妻賢母で家庭円満だったということ。

4-4、「不如帰」と捨松

徳富蘆花の小説「不如帰」の浪子は、大山巌と先妻との長女で結核のために20歳で早世した信子がモデルと言われていて、この小説に描かれた冷淡な継母が捨松の実像と信じ込んだ読者が多く、捨松はあらぬ誹謗中傷をうけ、匿名の心ない投書を受け取ることすらあったということで、捨松は晩年までそうした風評に悩んだそう。

しかし実際は小説とは違い、信子の発病後、一方的に信子を離婚して実家に送り返したのは夫の三島彌太郎本人とその母で、信子に対する婚家の薄情な仕打ちに捨松は思い悩んだそう。見かねた津田梅子が、三島家に乗り込んで姑に対し猛抗議をしたほどで、ほんとうは捨松が看護婦の資格を生かして親身に信子を看護、気兼ねなく落ち着いて療養に専念するために邸内の陽当たりの良い場所に離れを建てさせ、夫の巌が日清戦争の戦地から戻ったときも、信子の小康状態のときに親子3人で関西旅行に行ったりしたということ。

徳富蘆花がこの件に関して公に謝罪したのは、「不如帰」上梓から19年後の大正8年(1919年)で、捨松が急逝する直前。雑誌「婦人世界」で盧花は、「「不如歸」の小說は姑と繼母を惡者にしなければ、人の淚をそゝることが出來ぬから誇張して書いた」と認めた上で、捨松に対しては「お氣の毒にたえない」と遅きに失した詫びを入れたということ。

小説「不如帰」とは
「不如帰」(ほととぎす)は、徳冨蘆花(とくとみろか)が書いた小説で、明治31年(1898年)~明治32年(1899年)にかけて国民新聞に掲載され、のちに出版されてベストセラーに。

この小説は、片岡中将の愛娘浪子が、実家の冷たい継母、横恋慕する千々岩、気むずかしい姑に苦しみながらも、海軍少尉川島武男男爵との幸福な結婚生活を。しかし夫の武男が日清戦争へ出陣、浪子は結核を理由に姑によって離婚を強いられ、実家に戻ると薄情な継母に疎まれ、父が建てた離れで夫を慕いながら寂しくはかない生涯を終える悲恋のストーリーで、「ああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」の名ゼリフが当時の流行語に。

近代日本に最初に花開いたアカデミックな女性

大山捨松は武家の大家に生まれたが、会津戦争で悲惨な戦争体験と家の没落で幼い頃に大変な体験をした後、単身アメリカに留学して当時の最先端の教養をしっかり身に付けました。しかし帰国しても日本は捨松を受け入れる体制にはなっておらず失望する実情で、そのうえアメリカ女と陰口まで叩かれていたところを、思いがけず陸軍の大物大山巌と幸せな結婚をして社交界の花となりました。

そこからが捨松のターン、あの鹿鳴館の花と呼ばれ、アメリカで身に付けた教養をフルに生かして大活躍、会津戦争体験からアメリカで取得した看護婦の資格も役に立ち、日本初の看護婦学校設立、日本赤十字などのために基金集めの日本初のバザー開催が大成功、日清日露戦争でのボランティア活動、日露戦争では外国の新聞へ英語で寄稿して日本擁護論展開も大反響、そして盟友津田梅子の英語塾設立のバックアップで日本の女性教育に貢献と、エネルギッシュで圧倒されるような活躍ぶりでした。

今ではすっかり忘れ去られた当時の人気小説「不如帰」での誤解なんて、もはやご愛嬌と言っていいのではと思うほどで、捨松は会津人の気概を失わず、アメリカ的な先進気鋭の風を持ち込んだ有能で立派な女性として、忘れられない存在に。

" /> 12歳でアメリカへ留学した「大山捨松」鹿鳴館で活躍した会津女性について歴女がわかりやすく解説 – Study-Z
大正日本史明治歴史

12歳でアメリカへ留学した「大山捨松」鹿鳴館で活躍した会津女性について歴女がわかりやすく解説

今回は大山捨松を取り上げるぞ。

この人もアメリカ留学から帰って活躍したパイオニアです。何をしたのか、もっと詳しく知りたいよな。

その辺のところを学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大山捨松について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、大山捨松は会津藩家老の娘

大山捨松(すてまつ)は、安政7年(1860年)、会津若松で誕生。父は会津藩国家老山川尚江重固(なおえ しげかた)、母、艶(えん、歌人で号は唐衣からころも)との間の末娘。本名はさき、咲子、後に留学するときに捨松と改名。ここでは捨松で統一。

捨松が生まれたとき、父は既に亡く、幼少の頃は祖父の兵衛重英(ひょうえ しげひで)が、その後は長兄の大蔵(おおくら、後の山川浩)が父親がわりに。きょうだいは、長姉の二葉、長男の浩(大蔵)、次女の三和、三女の操、次男の健次郎、四女の常盤。(12人のうち5人が夭折)。

1-2、捨松、8歳で会津戦争を経験

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捨松は、知行1000石の家老の娘で不自由なく育ったが、慶応4年(1868年)8月、会津戦争勃発。数え年8歳の捨松は家族と共に会津若松城に籠城、負傷兵の手当てや炊き出しを手伝い、そして城内に着弾した焼玉式焼夷弾に、一斉に駆け寄って濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業を担当。捨松はこれで大怪我をしたことも。そしてすぐ側で長兄大蔵の妻が重傷を負って亡くなるのも体験。このとき会津若松城に、大砲を雨あられと撃ち込んでいた官軍の砲兵隊長が薩摩藩の大山弥助(のちの大山巌で捨松の夫)だったということ。

1-3、捨松、降伏後、フランス人家庭に里子に出される

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 会津藩は、1か月の攻防の後官軍に降伏し、会津23万石は改易、1年後に改めて陸奥斗南3万石に。しかし斗南藩は下北半島最北端の不毛の地で3万石とは名ばかり、実質石高は7000石足らずだったので、会津藩士たちの生活は過酷を極め、飢えと寒さで大変な状況だったので、山川家では末娘の捨松を海を隔てた函館へ。

日本初のロシア正教牧師で元土佐藩士の沢辺琢磨(坂本龍馬の従弟)、新島襄がアメリカに密航する際に援助した人物のもとに里子に出し、沢辺の紹介でフランス人の家庭に引き取られたということ。捨松はここで西洋文化に触れる生活を体験

1-4、捨松、アメリカ留学に応募

明治4年(1871年)、アメリカ視察旅行から帰国した北海道開拓使次官の黒田清隆は、数人の若者をアメリカに留学生として送り、未開の地を開拓する方法や技術など、北海道開拓に有用な知識を学ばせることを計画。黒田は西部の荒野で男性と肩を並べて開拓するアメリカ女性に感銘を受け、女子教育に関心を持ったため、留学生の募集は当初から男女若干名という例のないものに。

開拓使のこの計画は政府主導による10年間の官費留学という大がかりなものに発展し、この年出発することになっていた岩倉使節団に随行しての渡米が決定。捨松の次兄の健次郎(後の東大総長)も、この留学生に選抜されたということ。健次郎をはじめ、戊辰戦争で賊軍とされた東北諸藩の上級士族は、この官費留学で名誉挽回の好機と子弟を積極的に応募させたが、女子の応募者は皆無で、2度目の応募でやっと5人が応募したそう。

明治初期は女子に高等教育を受けさせ、10年間もの間単身異国の地に送り出すなんて、とても考えられない時代だったのだが、捨松はなにしろ8歳で籠城という体験をしたうえ、函館のフランス人家庭で西洋式の生活習慣にある程度慣れていること、やはり留学生となる次兄の健次郎がいることもあって、満11歳の捨松を応募させることに。捨松を含めて5人の全員が旧幕臣や賊軍の娘で、しかも西欧に渡航経験や関心のある親兄弟を持っていて、全員が合格。

尚、このとき10年間の留学を「捨てたつもりで待つ」という意味で、母によって捨松と改名。
また捨松がアメリカに向けて船出した翌日、大山弥助改め大山巌も横浜港を発ってジュネーヴへ留学。

2-1、捨松、アリス・ベーコンと出会う

 捨松らは、アメリカ丸という外輪船に乗って、横浜から23日かかってサンフランシスコに到着。その後、5人の女子留学生のうち思春期を過ぎていた年長の2人は、ほどなくホームシックでその年のうちに帰国したが、年少の捨松、永井しげ、津田梅子は、アメリカでの暮らしに順応。最初は同じワシントン近郊のジョージタウンの家で世話になっていたが、半年たっても英語を覚えないので、別々のお家に分けられたということ。

捨松は、コネチカット州ニューヘイブン、プロテスタント会衆派の牧師レオナード・ベーコン宅に寄宿。4年近くベーコン家の娘同様に暮らして、英語を習得。この間、ベーコン牧師によってキリスト教の洗礼も受けたということ。ベーコン家の14人兄妹の末娘が捨松の生涯の親友となったアリス・ベーコン。捨松はその後、地元ニューヘイブンのヒルハウス高校を経て、永井しげとともにニューヨーク州ポキプシーの、アメリカを代表する女性知識人を輩出した名門ヴァッサー大学に進学。永井しげは、専門科である音楽学校を選び、英語をほぼ完璧に習得していた捨松は通常科に入学。
当時のヴァッサー大学は全寮制の女子大学で、東洋人の留学生は珍しい時代、「焼玉押さえ」など武勇談にも事欠かないサムライの娘「スティマツ」は、すぐに学内の人気者に。捨松の美しさと知性は、同学年の女子学生を魅了したようで、大学2年生で学生会の学年会会長に選ばれ、また傑出した頭脳をもった特別な学生だけが入会を許されるという、シェイクスピア研究会やフィラレシーズ会にも入会したということ。

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