大正日本史明治歴史

12歳でアメリカへ留学した「大山捨松」鹿鳴館で活躍した会津女性について歴女がわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ、今回は大山捨松を取り上げるぞ。

この人もアメリカ留学から帰って活躍したパイオニアだ。何をしたのか、もっと詳しく知りたいよな。

その辺のところを学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大山捨松について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、大山捨松は会津藩家老の娘

大山捨松(すてまつ)は、安政7年(1860年)、会津若松で誕生。父は会津藩国家老山川尚江重固(なおえ しげかた)、母、艶(えん、歌人で号は唐衣からころも)との間の末娘。本名はさき、咲子、後に留学するときに捨松と改名。ここでは捨松で統一。

捨松が生まれたとき、父は既に亡く、幼少の頃は祖父の兵衛重英(ひょうえ しげひで)が、その後は長兄の大蔵(おおくら、後の山川浩)が父親がわりに。きょうだいは、長姉の二葉、長男の浩(大蔵)、次女の三和、三女の操、次男の健次郎、四女の常盤。(12人のうち5人が夭折)。

1-2、捨松、8歳で会津戦争を経験

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捨松は、知行1000石の家老の娘で不自由なく育ったが、慶応4年(1868年)8月、会津戦争勃発。数え年8歳の捨松は家族と共に会津若松城に籠城、負傷兵の手当てや炊き出しを手伝い、そして城内に着弾した焼玉式焼夷弾に、一斉に駆け寄って濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業を担当。捨松はこれで大怪我をしたことも。そしてすぐ側で長兄大蔵の妻が重傷を負って亡くなるのも体験。このとき会津若松城に、大砲を雨あられと撃ち込んでいた官軍の砲兵隊長が薩摩藩の大山弥助(のちの大山巌で捨松の夫)だったということ。

1-3、捨松、降伏後、フランス人家庭に里子に出される

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 会津藩は、1か月の攻防の後官軍に降伏し、会津23万石は改易、1年後に改めて陸奥斗南3万石に。しかし斗南藩は下北半島最北端の不毛の地で3万石とは名ばかり、実質石高は7000石足らずだったので、会津藩士たちの生活は過酷を極め、飢えと寒さで大変な状況だったので、山川家では末娘の捨松を海を隔てた函館へ。

日本初のロシア正教牧師で元土佐藩士の沢辺琢磨(坂本龍馬の従弟)、新島襄がアメリカに密航する際に援助した人物のもとに里子に出し、沢辺の紹介でフランス人の家庭に引き取られたということ。捨松はここで西洋文化に触れる生活を体験

1-4、捨松、アメリカ留学に応募

明治4年(1871年)、アメリカ視察旅行から帰国した北海道開拓使次官の黒田清隆は、数人の若者をアメリカに留学生として送り、未開の地を開拓する方法や技術など、北海道開拓に有用な知識を学ばせることを計画。黒田は西部の荒野で男性と肩を並べて開拓するアメリカ女性に感銘を受け、女子教育に関心を持ったため、留学生の募集は当初から男女若干名という例のないものに。

開拓使のこの計画は政府主導による10年間の官費留学という大がかりなものに発展し、この年出発することになっていた岩倉使節団に随行しての渡米が決定。捨松の次兄の健次郎(後の東大総長)も、この留学生に選抜されたということ。健次郎をはじめ、戊辰戦争で賊軍とされた東北諸藩の上級士族は、この官費留学で名誉挽回の好機と子弟を積極的に応募させたが、女子の応募者は皆無で、2度目の応募でやっと5人が応募したそう。

明治初期は女子に高等教育を受けさせ、10年間もの間単身異国の地に送り出すなんて、とても考えられない時代だったのだが、捨松はなにしろ8歳で籠城という体験をしたうえ、函館のフランス人家庭で西洋式の生活習慣にある程度慣れていること、やはり留学生となる次兄の健次郎がいることもあって、満11歳の捨松を応募させることに。捨松を含めて5人の全員が旧幕臣や賊軍の娘で、しかも西欧に渡航経験や関心のある親兄弟を持っていて、全員が合格。

尚、このとき10年間の留学を「捨てたつもりで待つ」という意味で、母によって捨松と改名。
また捨松がアメリカに向けて船出した翌日、大山弥助改め大山巌も横浜港を発ってジュネーヴへ留学。

2-1、捨松、アリス・ベーコンと出会う

 捨松らは、アメリカ丸という外輪船に乗って、横浜から23日かかってサンフランシスコに到着。その後、5人の女子留学生のうち思春期を過ぎていた年長の2人は、ほどなくホームシックでその年のうちに帰国したが、年少の捨松、永井しげ、津田梅子は、アメリカでの暮らしに順応。最初は同じワシントン近郊のジョージタウンの家で世話になっていたが、半年たっても英語を覚えないので、別々のお家に分けられたということ。

捨松は、コネチカット州ニューヘイブン、プロテスタント会衆派の牧師レオナード・ベーコン宅に寄宿。4年近くベーコン家の娘同様に暮らして、英語を習得。この間、ベーコン牧師によってキリスト教の洗礼も受けたということ。ベーコン家の14人兄妹の末娘が捨松の生涯の親友となったアリス・ベーコン。捨松はその後、地元ニューヘイブンのヒルハウス高校を経て、永井しげとともにニューヨーク州ポキプシーの、アメリカを代表する女性知識人を輩出した名門ヴァッサー大学に進学。永井しげは、専門科である音楽学校を選び、英語をほぼ完璧に習得していた捨松は通常科に入学。
当時のヴァッサー大学は全寮制の女子大学で、東洋人の留学生は珍しい時代、「焼玉押さえ」など武勇談にも事欠かないサムライの娘「スティマツ」は、すぐに学内の人気者に。捨松の美しさと知性は、同学年の女子学生を魅了したようで、大学2年生で学生会の学年会会長に選ばれ、また傑出した頭脳をもった特別な学生だけが入会を許されるという、シェイクスピア研究会やフィラレシーズ会にも入会したということ。

\次のページで「2-2、捨松、日本人女性として初、ヴァッサー女子大を優秀な成績で卒業」を解説!/

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