
関東争いが激化
関東のせめぎ合いをしていた謙信と氏康及び氏政との二大勢力の戦いに激しさが増していきます。両大名の間を行ったり来たりしていた国人衆も多く、その一人として小田氏がいました。小田氏も十四代目の小田政治にて戦国大名となり常陸国でもそれなりの勢力を持っていました。白河結城氏との常陸北部での争いを終えた後に南部の攻略に取り掛かっていきます。
小山城攻めにも義昭と共に上杉方として加わっていた小田氏治は、氏康から味方になるよう誘いを受けたことで上杉方から離反し北条方に与しました。義昭は謙信が関東出兵をする1563年に常陸をを留守にした際に、縁戚の大掾貞国の府中城を攻撃し大掾氏を破ると大掾家の家督を実弟に継がせた氏治は義昭との争いに備えていきます。
小田氏との攻防
隙を付かれたことで常陸中部を氏治に固められてしまった義昭は、謙信に援軍を要請していくと危機を感じ取った謙信は直ちに出陣していきます。兵達を夜通し進めさせ援軍要請をした使者よりも早く常陸山王堂に布陣し、義昭に従軍していた真壁氏を驚かせました。謙信出陣の知らせを聞いた氏治は直ちに三千の兵を率いて発ち、山王堂前に陣を構えていきます。
1564年6月7日の八時頃に静かに上杉軍が丘の上から降りてきましたが、突如疾風の如く關の声を上げて小田軍に攻め込んできました。前線を死守するのは、小田四天王と呼ばれていた菅谷氏・飯塚氏・赤松氏・手塚氏です。真っ正面から魚鱗の陣の如く攻め込むも小田軍も上杉軍の勢いに負けじと弓矢や鉄砲などの迎え撃っていきました。
多くの死傷者を出していた上杉軍でしたが、一向に勢いを落とさないまま死者となってしまった味方を盾にしつつ大声を上げながら攻撃していきます。あまりの勢いに小田軍は徐々に後退していき体制を立て直そうとするも、追撃してくる上杉軍でした。
小田氏の衰退と義昭の急死
何とか防衛していた小田軍は、小田四天王を筆頭に奮戦していましたが菅谷政貞の弓矢の弦が切れてしまい弓が無くなってしまいます。家臣達に一度撤退するよういわれるも氏治に忠誠を誓った身であるためといい敵中に突撃していき討死してしまいました。十六時頃まで休みことなく激しい戦いが続いていき、追い込まれていく小田軍は敗北間近となり氏治は小田城まで撤退。
義昭は真壁氏幹と共に到着したのは謙信が氏治を小田城まで追い込んだ時でした。上杉・佐竹にて小田城を攻めている隙に、氏治は藤沢城まで逃げ込み老臣だった信太治房が最後まで小田城で戦うも上杉・佐竹の猛攻に耐えられず自害し小田城は義昭の城となっていきます。
残る敵勢力は下総結城氏だけで常陸国を統一する目前まで迫っていましたが、急死してしまい常陸統一が果たせず義重へと代が移っていきました。
大きな合戦はなかったものの義篤が残した佐竹一門を強固にさせていった
十四歳と若い年齢で家督を相続して義篤が残した佐竹一門と協力し合いながら常陸国での影響力を高めた義昭は相当な苦労をしながら毎日を過ごしていたことでしょう。下剋上の戦国時代では勝つか負けるかが家を存続の決めていたので、どの戦も負けられない戦いの日々だったと思います。
また現在は茨城県の地名で魅力度ランキングで下位に位置しておりますが、鉱山開発に着手したところが多数現存していたり朝日新聞社で発行している朝日新聞で佐竹氏の日本最古の古文書が発見されるなど歴史の深さが感じられる土地だと感じました。
義昭がしっかりと佐竹基盤を構築したことで跡目を継いだ義重が、五十万を超える大名になることができたのではないかと思います。