
十七代当主
義篤が亡くなり家督を継いでいく義昭を見てきましょう。
佐竹三家体制
家督を継いだ義昭でしたが、十四歳と若年だったため佐竹家を統率することは難しい状態でした。そのため義篤の代に復興させていた佐竹宗家の佐竹南義里ら三人によって佐竹領土内の政務を取り仕切っていきます。義昭も当主としての器を身に着けるために叔父だった南義里に度々、相談して物事を決めていました。また佐竹宗家で政務を取り仕切りながら三人で交代しながら政務を行っていたことを佐竹三家と呼びます。
幸いなことに佐竹宗家は分立するほどの支配力を持っていなかったため、義昭から離反することなく全員で協力しながら常陸北部を中心に佐竹氏の地盤を固めていきました。義昭の時代では義篤の勢力拡大して行ったことで戦国大名と呼ばれる存在となり大規模な勢力を擁しています。佐竹氏と同等の勢力を持っていたのが白河結城氏・小田氏でした。
鉱山開発

戦国大名となると勢力を拡大するためには、兵を集めるための資金が必要となっていきます。支配国の領土内から税の取り立てして資金を調達している他に、鉱山開発を各地で進めていた状況でした。義昭の領土内にも鉱山が多数あり鉱山開発に力を入れていきます。国誌には鉱山開発をした地域で、瀬谷・部垂・金澤など鉱山を削って砂金を手に入れていました。
中でも八溝金山では国内でも多くの砂金が採取することが出来る鉱山だったようで時代を遡ると二番目に古い金山とされています。ここまで多くの砂金が採取出来るとなると当然ながら隣国の大名が攻め込んでくる場所とされていました。白河結城氏も八溝金山を狙って侵攻されることがあったため、兵を陸奥依上保まで進めさせ防衛していたようです。
臣従していた江戸氏の裏切り
義昭の時代では、臣従していた江戸忠通が義昭との関係が悪化していき対立していきました。1547年から1550年にかけて争っていき当初は両者一歩も引かない戦いを繰り広げていましたが、戸村で勝利を収めた忠通はこのまま勢いに乗っていきます。忠通は義昭と宿敵だった白河結城氏とも和睦を結び更に追い打ちをかけていきましたが、次第に義昭が優勢をなっていき1551年に忠通は義昭に降伏し再び佐竹氏に臣従していきました。
江戸氏を降伏させたことで、常陸中部を掌握していくと家臣団を統制し直し佐竹基盤を固め勢力拡大を図るために敵国へ侵攻していきます。そして忠通と合戦を繰り広げている最中に、嫡男佐竹義重が誕生しました。
常陸勢力を急激に拡大させていく
江戸氏を臣従させると敵対していた岩城氏に属していた大塚氏が、急成長していた義昭に臣従していくと1552年には岩城一族の船尾昭直も岩城氏から離れ義昭に従っていきました。この影響によって更に佐竹勢力を拡大させていきます。また隣国の下野では全盛期を築いていた宇都宮成綱から宇都宮忠綱へと当主が変わっていくと家臣達から反感を買い宇都宮氏内部で争っていました。
1557年になると宇都宮氏内部での内紛が激化していくと,壬生氏に居城だった宇都宮城を奪取されてしまいます。これを救うべく芳賀氏が奔走し関係のあった江戸氏や古河公家の足利義氏と北条氏康を通して義昭に援軍を依頼していきました。義昭は恩義を売るために、依頼を受け出陣すると宇都宮広綱を助け出し壬生氏に奪取されてしまった宇都宮城を奪還するため五千の兵を率いて宇都宮城へ攻め込み見事奪還することができます。
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