室町時代戦国時代日本史歴史

平安時代から続く名家の「佐竹義昭」を戦国通サラリーマンが5分で徹底わかりやすく解説

関東圏内では鎌倉幕府が開かれたことで一時は、大繁栄していた都であったが、後醍醐天皇によって倒幕させられ幕府で力を持っていた者達が各国へ逃げていっていたな。しかしそのように追い込まれても下剋上だった戦国時代に入ってから名乗りを挙げてくる大名が多数存在していたようです。

今回は、急激に勢力を拡大させていった佐竹義昭を歴史マニアである歴史ライターwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

歴史を調べることが大好きなサラリーマン。戦国時代で大きく名乗りを挙げて現代まで家系を継続させた佐竹義昭の生涯を詳しく纏めて解説する。

佐竹氏の時期当主誕生

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義昭の誕生と佐竹氏の情勢から見ていきましょう。

発展途上中の佐竹氏

1531年10月3日に常陸で誕生した義昭は、幼名を徳寿丸と名乗っていました。義昭が誕生した頃は、父佐竹義篤が奔走しており北を佐竹氏が南を江戸氏と互いの利害関係を崩さないように和睦を結び勢力を拡大させている途中だったようです。ところが順調に進んで施策が実弟だった佐竹義元の離反によって両者が争うことになっていきました。

年齢が若く佐竹家臣団を纏めることが出来ていない状態に、不服を感じたことで小貫氏が守る部垂城を攻略すると部垂城を拠点に義篤と対立を深めていきます。この状況に義篤家臣の小場義実・高久義貞らが義元の味方となり1529年から戦いを繰り広げていました。

部垂十二年の乱

義篤と義元の争いは、直ぐには決着がつかず長い戦いとなっていきました。部垂城を居城としてからは、義元は部垂氏を名乗っていたようです。両者とも一歩も引かない状況となり長い年月が過ぎていきましたが、大きく動き出した1535年に高久氏を降伏させ優位となっていく義篤。

一時は義篤と和睦を結んでいた義元でしたが、義篤から和睦を破られ再度戦っていきました。1540年には父と争っていた那須氏に援軍を出し終えた途中に軍勢を部垂城に向けて奇襲攻撃を仕掛けていきます。一説によると義元に不満を持っていた家臣大賀氏が謀反の準備をしていたようで義篤へ手引きをしていました。この時に部垂城には五十名ほどの兵しかおらず、とても防衛できる準備もしていなく為す術なく義元一族は討ち取れていきます。

佐竹一門の確立

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義篤は内紛を片付けると、那須へ進出するために家督争い中だった那須政資を支援し急激に勢力を拡大させつつありました。支援中に白河結城氏を攻め立てていましたが、岩城氏の仲介によって一時的に和睦を結びます。しかし和睦も直ぐに破棄してしまい再び白河結城氏を攻撃していきました。

義篤が勢力拡大していた時に、敵対関係となってしまった江戸忠通も従軍すると南部に集中していた兵を北部に向けて常陸北部の統一を目指していきます。その間に佐竹一門を強固にするために佐竹宗家を復興させていきました。弟だった佐竹義里は佐竹南家を従兄弟にあたる佐竹義廉を佐竹北家に同じく従兄弟の佐竹義堅を佐竹東家を継がせ佐竹一門を確立させていきます。佐竹家を団結させたことで義篤は安心したのか1545年に三十八歳の若さで亡くなりました。

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