関東圏内では鎌倉幕府が開かれたことで一時は、大繁栄していた都であったが、後醍醐天皇によって倒幕させられ幕府で力を持っていた者達が各国へ逃げていっていたな。しかしそのように追い込まれても下剋上だった戦国時代に入ってから名乗りを挙げてくる大名が多数存在していたようです。

今回は、急激に勢力を拡大させていった佐竹義昭を歴史マニアである歴史ライターwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

歴史を調べることが大好きなサラリーマン。戦国時代で大きく名乗りを挙げて現代まで家系を継続させた佐竹義昭の生涯を詳しく纏めて解説する。

佐竹氏の時期当主誕生

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義昭の誕生と佐竹氏の情勢から見ていきましょう。

発展途上中の佐竹氏

1531年10月3日に常陸で誕生した義昭は、幼名を徳寿丸と名乗っていました。義昭が誕生した頃は、父佐竹義篤が奔走しており北を佐竹氏が南を江戸氏と互いの利害関係を崩さないように和睦を結び勢力を拡大させている途中だったようです。ところが順調に進んで施策が実弟だった佐竹義元の離反によって両者が争うことになっていきました。

年齢が若く佐竹家臣団を纏めることが出来ていない状態に、不服を感じたことで小貫氏が守る部垂城を攻略すると部垂城を拠点に義篤と対立を深めていきます。この状況に義篤家臣の小場義実・高久義貞らが義元の味方となり1529年から戦いを繰り広げていました。

部垂十二年の乱

義篤と義元の争いは、直ぐには決着がつかず長い戦いとなっていきました。部垂城を居城としてからは、義元は部垂氏を名乗っていたようです。両者とも一歩も引かない状況となり長い年月が過ぎていきましたが、大きく動き出した1535年に高久氏を降伏させ優位となっていく義篤。

一時は義篤と和睦を結んでいた義元でしたが、義篤から和睦を破られ再度戦っていきました。1540年には父と争っていた那須氏に援軍を出し終えた途中に軍勢を部垂城に向けて奇襲攻撃を仕掛けていきます。一説によると義元に不満を持っていた家臣大賀氏が謀反の準備をしていたようで義篤へ手引きをしていました。この時に部垂城には五十名ほどの兵しかおらず、とても防衛できる準備もしていなく為す術なく義元一族は討ち取れていきます。

佐竹一門の確立

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義篤は内紛を片付けると、那須へ進出するために家督争い中だった那須政資を支援し急激に勢力を拡大させつつありました。支援中に白河結城氏を攻め立てていましたが、岩城氏の仲介によって一時的に和睦を結びます。しかし和睦も直ぐに破棄してしまい再び白河結城氏を攻撃していきました。

義篤が勢力拡大していた時に、敵対関係となってしまった江戸忠通も従軍すると南部に集中していた兵を北部に向けて常陸北部の統一を目指していきます。その間に佐竹一門を強固にするために佐竹宗家を復興させていきました。弟だった佐竹義里は佐竹南家を従兄弟にあたる佐竹義廉を佐竹北家に同じく従兄弟の佐竹義堅を佐竹東家を継がせ佐竹一門を確立させていきます。佐竹家を団結させたことで義篤は安心したのか1545年に三十八歳の若さで亡くなりました。

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十七代当主

義篤が亡くなり家督を継いでいく義昭を見てきましょう。

佐竹三家体制

家督を継いだ義昭でしたが、十四歳と若年だったため佐竹家を統率することは難しい状態でした。そのため義篤の代に復興させていた佐竹宗家の佐竹南義里ら三人によって佐竹領土内の政務を取り仕切っていきます。義昭も当主としての器を身に着けるために叔父だった南義里に度々、相談して物事を決めていました。また佐竹宗家で政務を取り仕切りながら三人で交代しながら政務を行っていたことを佐竹三家と呼びます。

幸いなことに佐竹宗家は分立するほどの支配力を持っていなかったため、義昭から離反することなく全員で協力しながら常陸北部を中心に佐竹氏の地盤を固めていきました。義昭の時代では義篤の勢力拡大して行ったことで戦国大名と呼ばれる存在となり大規模な勢力を擁しています。佐竹氏と同等の勢力を持っていたのが白河結城氏・小田氏でした。

鉱山開発

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戦国大名となると勢力を拡大するためには、兵を集めるための資金が必要となっていきます。支配国の領土内から税の取り立てして資金を調達している他に、鉱山開発を各地で進めていた状況でした。義昭の領土内にも鉱山が多数あり鉱山開発に力を入れていきます。国誌には鉱山開発をした地域で、瀬谷・部垂・金澤など鉱山を削って砂金を手に入れていました。

中でも八溝金山では国内でも多くの砂金が採取することが出来る鉱山だったようで時代を遡ると二番目に古い金山とされています。ここまで多くの砂金が採取出来るとなると当然ながら隣国の大名が攻め込んでくる場所とされていました。白河結城氏も八溝金山を狙って侵攻されることがあったため、兵を陸奥依上保まで進めさせ防衛していたようです。

臣従していた江戸氏の裏切り

義昭の時代では、臣従していた江戸忠通が義昭との関係が悪化していき対立していきました。1547年から1550年にかけて争っていき当初は両者一歩も引かない戦いを繰り広げていましたが、戸村で勝利を収めた忠通はこのまま勢いに乗っていきます。忠通は義昭と宿敵だった白河結城氏とも和睦を結び更に追い打ちをかけていきましたが、次第に義昭が優勢をなっていき1551年に忠通は義昭に降伏し再び佐竹氏に臣従していきました。

江戸氏を降伏させたことで、常陸中部を掌握していくと家臣団を統制し直し佐竹基盤を固め勢力拡大を図るために敵国へ侵攻していきます。そして忠通と合戦を繰り広げている最中に、嫡男佐竹義重が誕生しました。

常陸勢力を急激に拡大させていく

江戸氏を臣従させると敵対していた岩城氏に属していた大塚氏が、急成長していた義昭に臣従していくと1552年には岩城一族の船尾昭直も岩城氏から離れ義昭に従っていきました。この影響によって更に佐竹勢力を拡大させていきます。また隣国の下野では全盛期を築いていた宇都宮成綱から宇都宮忠綱へと当主が変わっていくと家臣達から反感を買い宇都宮氏内部で争っていました。

1557年になると宇都宮氏内部での内紛が激化していくと,壬生氏に居城だった宇都宮城を奪取されてしまいます。これを救うべく芳賀氏が奔走し関係のあった江戸氏や古河公家の足利義氏と北条氏康を通して義昭に援軍を依頼していきました。義昭は恩義を売るために、依頼を受け出陣すると宇都宮広綱を助け出し壬生氏に奪取されてしまった宇都宮城を奪還するため五千の兵を率いて宇都宮城へ攻め込み見事奪還することができます。

\次のページで「白河結城氏を追い込んでいく」を解説!/

白河結城氏を追い込んでいく

広綱と協力して壬生氏を宇都宮城から追い出し奪還すると、広綱と婚姻関係を結び関係性を構築させていきます。下野国での争いが一段落し常陸で残る大きな勢力は白河結城氏と小田氏となっていました。長い間、白河結城氏と領土争いを繰り広げていた義昭でしたが婚姻関係を結んだ宇都宮氏と白河結城氏を攻め込むために連合軍を結成します。

この時の当主は結城晴綱で、関係性の深い蘆名氏や北条氏と友好関係を構築していき義昭に抵抗していくも那須氏との争いで勢力が徐々に縮小していき義昭が優勢となっていきました。不利な状況が好転しないと感じた晴綱は北条氏を介して義昭に和睦を申し込んできます。

常陸国を統一目前に迫る

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この頃が義昭の中でも一番勢力が拡大していた時期でした。

公方からも和睦を進められる

氏康から和睦をするように勧められていた義昭でしたが、氏康の他にも古河公方も同様に和睦の仲介をしていました。しかしこの頃の古河公方は氏康の甥が足利義氏を第五代古河公方に座っていたことで、事実上の実権を氏康が掌握していたとされています。二人の和睦依頼を受けて義昭は一旦は白河結城氏と和睦する動きを見せていました。

動き出そうとしていた義昭でしたが、古河公方が氏康によって実権を握られていたことを見抜き和睦を拒絶していきます。これにより再び和睦を白紙にして白河結城氏への攻撃を強めていき勢力拡大を図っていきました。

佐竹氏へ従軍していく国人衆と上杉氏の動向

結城晴綱を寺山城で破ると羽黒山城まで攻め落とし、常陸において義昭の影響力が強くなっていくと次第に国人衆も義昭に従軍していきました。宍戸氏や真壁氏らが属していくも、敵対していた氏康の跡目を継いだ北条氏政も同様に関東一円を支配下にしていきます。攻撃の手は北関東まで伸びてきていたことで、単独では勝てないと判断した義昭は越後の龍の異名を持つ上杉謙信を頼り同盟を持ち掛けていきました。

謙信もまた関東出兵をするために、上野国の館林城を攻略し下野国の攻略に着手する予定だったが唐沢山城の城主だった佐野氏を再三攻めるも攻略とはなりませんでした。また北条氏と武田氏が甲相同盟を結んでおり両者とも領地を奪い合いをしていたことで、国人衆は優勢な方に味方していきます。謙信は再び唐沢山城に総攻撃を仕掛けていくも徹底した防衛により城を陥落させるに至らず、義昭と広綱を介して佐野氏を説得し佐野氏を一時的に上杉方へと引き入れていました。

謙信と同盟

関東管領だった謙信は関東攻略の要だった唐沢山城を取り込み、山内上杉氏と遠い親戚にあたる義昭は謙信と同盟を組み小山秀綱が守る小山城を攻めて攻略していきました。1562年には義昭は元服したばかりの嫡男義重に家督を譲り隠居していくも佐竹氏の実権は握っていたようです。

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関東争いが激化

関東のせめぎ合いをしていた謙信と氏康及び氏政との二大勢力の戦いに激しさが増していきます。両大名の間を行ったり来たりしていた国人衆も多く、その一人として小田氏がいました。小田氏も十四代目の小田政治にて戦国大名となり常陸国でもそれなりの勢力を持っていました。白河結城氏との常陸北部での争いを終えた後に南部の攻略に取り掛かっていきます。

小山城攻めにも義昭と共に上杉方として加わっていた小田氏治は、氏康から味方になるよう誘いを受けたことで上杉方から離反し北条方に与しました。義昭は謙信が関東出兵をする1563年に常陸をを留守にした際に、縁戚の大掾貞国の府中城を攻撃し大掾氏を破ると大掾家の家督を実弟に継がせた氏治は義昭との争いに備えていきます。

小田氏との攻防

小田城跡
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隙を付かれたことで常陸中部を氏治に固められてしまった義昭は、謙信に援軍を要請していくと危機を感じ取った謙信は直ちに出陣していきます。兵達を夜通し進めさせ援軍要請をした使者よりも早く常陸山王堂に布陣し、義昭に従軍していた真壁氏を驚かせました。謙信出陣の知らせを聞いた氏治は直ちに三千の兵を率いて発ち、山王堂前に陣を構えていきます。

1564年6月7日の八時頃に静かに上杉軍が丘の上から降りてきましたが、突如疾風の如く關の声を上げて小田軍に攻め込んできました。前線を死守するのは、小田四天王と呼ばれていた菅谷氏・飯塚氏・赤松氏・手塚氏です。真っ正面から魚鱗の陣の如く攻め込むも小田軍も上杉軍の勢いに負けじと弓矢や鉄砲などの迎え撃っていきました。

多くの死傷者を出していた上杉軍でしたが、一向に勢いを落とさないまま死者となってしまった味方を盾にしつつ大声を上げながら攻撃していきます。あまりの勢いに小田軍は徐々に後退していき体制を立て直そうとするも、追撃してくる上杉軍でした。

小田氏の衰退と義昭の急死

何とか防衛していた小田軍は、小田四天王を筆頭に奮戦していましたが菅谷政貞の弓矢の弦が切れてしまい弓が無くなってしまいます。家臣達に一度撤退するよういわれるも氏治に忠誠を誓った身であるためといい敵中に突撃していき討死してしまいました。十六時頃まで休みことなく激しい戦いが続いていき、追い込まれていく小田軍は敗北間近となり氏治は小田城まで撤退。

義昭は真壁氏幹と共に到着したのは謙信が氏治を小田城まで追い込んだ時でした。上杉・佐竹にて小田城を攻めている隙に、氏治は藤沢城まで逃げ込み老臣だった信太治房が最後まで小田城で戦うも上杉・佐竹の猛攻に耐えられず自害し小田城は義昭の城となっていきます。

残る敵勢力は下総結城氏だけで常陸国を統一する目前まで迫っていましたが、急死してしまい常陸統一が果たせず義重へと代が移っていきました。

大きな合戦はなかったものの義篤が残した佐竹一門を強固にさせていった

十四歳と若い年齢で家督を相続して義篤が残した佐竹一門と協力し合いながら常陸国での影響力を高めた義昭は相当な苦労をしながら毎日を過ごしていたことでしょう。下剋上の戦国時代では勝つか負けるかが家を存続の決めていたので、どの戦も負けられない戦いの日々だったと思います。

また現在は茨城県の地名で魅力度ランキングで下位に位置しておりますが、鉱山開発に着手したところが多数現存していたり朝日新聞社で発行している朝日新聞で佐竹氏の日本最古の古文書が発見されるなど歴史の深さが感じられる土地だと感じました。

義昭がしっかりと佐竹基盤を構築したことで跡目を継いだ義重が、五十万を超える大名になることができたのではないかと思います。

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室町時代戦国時代日本史歴史

平安時代から続く名家の「佐竹義昭」を戦国通サラリーマンが5分で徹底わかりやすく解説

関東圏内では鎌倉幕府が開かれたことで一時は、大繁栄していた都であったが、後醍醐天皇によって倒幕させられ幕府で力を持っていた者達が各国へ逃げていっていたな。しかしそのように追い込まれても下剋上だった戦国時代に入ってから名乗りを挙げてくる大名が多数存在していたようです。

今回は、急激に勢力を拡大させていった佐竹義昭を歴史マニアである歴史ライターwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

歴史を調べることが大好きなサラリーマン。戦国時代で大きく名乗りを挙げて現代まで家系を継続させた佐竹義昭の生涯を詳しく纏めて解説する。

佐竹氏の時期当主誕生

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義昭の誕生と佐竹氏の情勢から見ていきましょう。

発展途上中の佐竹氏

1531年10月3日に常陸で誕生した義昭は、幼名を徳寿丸と名乗っていました。義昭が誕生した頃は、父佐竹義篤が奔走しており北を佐竹氏が南を江戸氏と互いの利害関係を崩さないように和睦を結び勢力を拡大させている途中だったようです。ところが順調に進んで施策が実弟だった佐竹義元の離反によって両者が争うことになっていきました。

年齢が若く佐竹家臣団を纏めることが出来ていない状態に、不服を感じたことで小貫氏が守る部垂城を攻略すると部垂城を拠点に義篤と対立を深めていきます。この状況に義篤家臣の小場義実・高久義貞らが義元の味方となり1529年から戦いを繰り広げていました。

部垂十二年の乱

義篤と義元の争いは、直ぐには決着がつかず長い戦いとなっていきました。部垂城を居城としてからは、義元は部垂氏を名乗っていたようです。両者とも一歩も引かない状況となり長い年月が過ぎていきましたが、大きく動き出した1535年に高久氏を降伏させ優位となっていく義篤。

一時は義篤と和睦を結んでいた義元でしたが、義篤から和睦を破られ再度戦っていきました。1540年には父と争っていた那須氏に援軍を出し終えた途中に軍勢を部垂城に向けて奇襲攻撃を仕掛けていきます。一説によると義元に不満を持っていた家臣大賀氏が謀反の準備をしていたようで義篤へ手引きをしていました。この時に部垂城には五十名ほどの兵しかおらず、とても防衛できる準備もしていなく為す術なく義元一族は討ち取れていきます。

佐竹一門の確立

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義篤は内紛を片付けると、那須へ進出するために家督争い中だった那須政資を支援し急激に勢力を拡大させつつありました。支援中に白河結城氏を攻め立てていましたが、岩城氏の仲介によって一時的に和睦を結びます。しかし和睦も直ぐに破棄してしまい再び白河結城氏を攻撃していきました。

義篤が勢力拡大していた時に、敵対関係となってしまった江戸忠通も従軍すると南部に集中していた兵を北部に向けて常陸北部の統一を目指していきます。その間に佐竹一門を強固にするために佐竹宗家を復興させていきました。弟だった佐竹義里は佐竹南家を従兄弟にあたる佐竹義廉を佐竹北家に同じく従兄弟の佐竹義堅を佐竹東家を継がせ佐竹一門を確立させていきます。佐竹家を団結させたことで義篤は安心したのか1545年に三十八歳の若さで亡くなりました。

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