今回は津田梅子を取り上げるぞ。

津田塾大学の創設者で、今度5千円札になるんだから、詳しく知りたいよな。

その辺のところを学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。昔の学者や作家も大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、津田梅子について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、津田梅子は江戸生まれ

津田梅子は、元治元年(1864年)12月3日、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)で誕生。父は津田仙、母は初子の次女で本名はむめ、明治35年(1902年)に漢字表記で梅子に改名。

父仙は、幕府崩壊の頃は長崎出張中で、国元にいる妻に4歳の梅子の教育をそろそろ始めるようにと手紙を送っていたことで、父仙の女子教育の関心の高さがあらわれているそう。幼い頃の梅子は手習いや踊りなどを学び、父の農園の手伝いも。

1-2、梅子の父津田仙が女子留学生に応募

梅子の父は、下総国佐倉藩堀田氏の家臣小島良親(善右衛門)の3男。桜井家の養子となり、15歳で佐倉藩藩校、成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)で、その後、藩主堀田正睦の命でオランダ語、英語の他、洋学や砲術を学び、安政2年(1855年)に出仕して、江戸で蘭学塾へ入門、森山栄之助の下で英語などを学んで文久元年(1861年)外国奉行の通訳として採用。慶応3年(1867年)幕府発注の軍艦引取り交渉のためアメリカへ派遣されるのに、福澤諭吉、尺振八とともに通訳として随行して半年滞在、新潟奉行、英学教授方、通訳などを歴任したそう。文久元年(1861年)に津田家の初子と結婚し婿養子に。

また、明治維新後は明治2年(1869年)に、築地のホテル館(小栗上野介発案で幕府が作った日本最初の本格的洋式ホテル)へ勤め、西洋野菜の栽培なども手がけるように。そして明治4年(1871年)、仙は明治政府の事業の北海道開拓使の嘱託に。北海道開拓使次官の黒田清隆は女子教育に関心を持っていて、政府が派遣する岩倉使節団に女子留学生を随行させることを企画、それを知った父仙が、梅子を応募させたということ

1-3、梅子、岩倉使節団の留学生に

ということで、明治4年(1871年)、黒田清隆が企画した女子留学生の募集は、出発のわずかひと月前のことで、最初の募集ではひとりの応募もなくて2度目の募集でやっと集まったということ。梅子は5人のうち最年少の満6歳で、他の女子留学生たちは、東京府の士族で秋田県吏の娘吉益亮子、新潟県士族で外務省役員の娘上田貞子、会津藩出身の山川捨松、兄が幕臣益田孝、永井繁子。梅子はこの4名と一緒に、この後10年アメリカで暮らすことに。

5人の娘たちの親は、それぞれ旧幕臣か佐幕藩の出身であり、賊軍の汚名を晴らして、家の再興をはかりたいなどと思っていたかもしれず、また親や親族がすでに留学や渡航経験があり、ある程度の海外事情を知っていたこと、梅子が後年回顧するに、「親たちはこの留学という機会が、私たちの将来に及ぼす意味が理解できる先見の明を持っていた」そう。

そして留学生には必要経費が官費で、更に年800ドルの小遣いが支給されることになっていたそうで、当時の1ドルは新1円(2万円相当)、800円は、当時の政府高官の年俸くらいだったということ。梅子たちは明治天皇の皇后、昭憲皇太后に謁見したが、皇后が侍の娘を謁見した最初の例だったそう。一行は11月に横浜を出港、サンフランシスコに到着後、アメリカ大陸を横断、同年12月にワシントンへ到着。

1-4、船のなか、到着後の梅子

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梅子たちは、長い船旅中、船酔いもあり船室で餞別のお菓子ばかり食べていたようですが、同行者のひとりが、それではいけないとお菓子を捨てて食事をさせて怖いおじさんと嫌われたとか、当時30歳の伊藤博文が、船室にやって来て船酔いに苦しむ彼女たちを慰めたりお話をして相手をしてくれて慕われたという話が。

そして梅子らは着物を着て渡米し、洋服を買おうと思っていたのだが、サンフランシスコに到着後、梅子らの着物姿をアメリカ人たちが見て大騒ぎするので、なかなか買わせてもらえず、何度も何度もお願いしてやっとシカゴで洋服を買わせてもらったそう。

2-1、梅子、アメリカ生活開始

アメリカに着いた梅子たちを世話したのは、日本弁務官としてワシントンに駐在していた森有礼で、ワシントン郊外のジョージタウンにある画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられたそう。この頃、留学中だった新島襄(後の同志社大学創立者)が会いに来て、梅子らとおしゃべりを楽しんだそうで、「この子のようにかわいらしく聡い子供を見たことがない」と感想を書いた手紙が残っているということ。しかし5人一緒で英語が上達せず、5月には森有礼の斡旋で、留学生はワシントン市内に別々の家庭に住まわされることに。

そして10月には上田悌子、吉益亮子の2名が病気で帰国。残った3人が梅子、山川捨松(のちの大山捨松)、永井繁子(のちの瓜生繁子)で、3人は生涯友情が続き、梅子が「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立するときにも2人は助力したということ。

\次のページで「2-2、梅子、ランマン家で生活、洗礼も受ける」を解説!/

2-2、梅子、ランマン家で生活、洗礼も受ける

梅子はその後再びランマン家に預けられて、10数年を過ごすことになったが、英語、ピアノなどを学び、市内のコレジエト・インスティチュートへ通ったということ。梅子はキリスト教への信仰も芽生え、ランマン夫妻に信仰を薦められたわけではないが、明治6年(1873年)7月、8歳で特定の宗派に属さないフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受けたそう。このとき梅子と話した牧師は「感性と表現力はいくつか年上のアメリカの子よりも優れている」と述べたということ。

明治11年(1878年)コレジエト校を卒業し、私立の女学校アーチャー・インスティチュートへ進学。ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学び、ランマン夫妻に連れ添われて各地を休暇旅行も。

そして明治14年(1881年)には開拓使から帰国命令が出るが、在学中であった山川捨松と梅子は延長を申請、明治15年(1882年)7月に卒業。同年11月には日本へ帰国することに。

3-1、帰国後の梅子

梅子らは11年ぶりに帰国したが、6歳からアメリカで生活した梅子は、帰国した時、すっかり日本語を忘れていたので、母や弟妹とも会話が出来ずに、英語ができる父仙や姉琴子に通訳をしてもらったとか、晩年まで、鰻と柳、罠と穴、の聞き取りに苦労したというエピソードもあり、英語とアメリカ式の生活の方がなじみがあり、靴を脱がずに家に上がる始末で日本の風習に不慣れになったということ。

また、大金を使って梅子らを留学させたのにも関わらず、明治政府は梅子らを受け入れる素地を作っておかなかったせいもあり、儒学の価値観が色濃く残る日本では、せっかくの有能な女子留学生の活躍できる職業分野がなかったのですね。
山川捨松と永井繁子はそれぞれ軍人と結婚することに。

3-2、梅子、伊藤博文と再会、子女の教育を任される

当時の東京は、まさに鹿鳴館時代でしたが、梅子は明治16年(1883年)に、外務卿井上馨の邸で開かれた夜会に招待され、岩倉使節団で渡米するときに同じ船に乗っていた伊藤博文と再会、伊藤は得意の英語で話しかけたということ。

梅子はこの再会を喜び、伊藤も女子教育に関心があったので、華族子女を対象にした教育を行う私塾桃夭女塾を主宰していた歌人の下田歌子を紹介。またこの頃、梅子は父仙との確執もあったそうで、伊藤の娘たちの英語指導や通訳として雇われて伊藤家に滞在し、下田歌子から日本語を学び、「桃夭女塾」へ英語教師として通うように。

明治18年(1885年)には伊藤の推薦で、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師に。明治19年(1886年)には職制変更で嘱託に。尚、伊藤は、帰宅後に梅子と国の将来について語り合ったりもしていて、梅子は先進国の教養溢れた情報通なので、伊藤は梅子を顧問のようにみていたそう。

3-3、梅子、上流社会になじめず、縁談も断る

梅子は華族女学校で3年余り教えたが、上流階級的気風には馴染めなかったので、この頃に何度か薦められた縁談も断り、「二度と結婚の話はしないでください。話を聞くだけでもうんざりです」と手紙に書いたほどで、日本人の結婚観に辟易して生涯未婚を誓ったということ。

明治21年(1888年)には、留学時代の友人アリス・ベーコンが来日、彼女に薦められて再度の留学を決意し、父の仙の知人で日本の商業教育に携わっていたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘、クララ・ホイットニーの仲介で、留学希望を伝えて学費免除の承諾を得、校長の西村茂樹から2年間の留学が許可されて、明治22年(1889年)7月、梅子は24歳のときに女性の地位を向上させる方法を研究するためだ再び渡米。

\次のページで「3-4、梅子、ブリンマー・カレッジで生物学を学ぶ」を解説!/

3-4、梅子、ブリンマー・カレッジで生物学を学ぶ

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梅子はフィラデルフィア郊外のリベラル・アーツ・カレッジ、セブン・シスターズ 大学)ひとつ、ブリンマー・カレッジで生物学を専攻、3年課程を切り上げて終了させ、留学2年目には蛙の発生に関する論文を執筆。また、自らの使命とした教授法に関しては、州立のオズウィゴー師範学校で研究したそう。

尚、梅子に留学を勧めたアリス・ベーコンは日本習俗に関心を持ち、日本女性に関する研究をしていたので、アリスがアメリカへ帰国して「日本の女性」を出版する際、梅子も手助けをしたそう。アリスの研究は、梅子が日本の女性教育に関心を持つきっかけになったと言われていて、梅子は留学を一年延長し日本女性留学のための奨学金設立を発起、公演や募金活動などを行ったということ。

梅子は大学から学究を続けるよう勧められたが、明治25年(1892年)8月に帰国。
梅子は帰国後、再び華族女学校に勤めるようになり、自宅で女学生を預かるなど積極的に援助、明治27年(1894年)には明治女学院でも講師を務め、明治31年(1898年)5月には女子高等師範学校教授も兼任。

3-5、日本婦人米国奨学金制度を設立

梅子はアメリカ留学中に、日本の実情を訴える公演などで寄付金8000ドルを集め、明治24年(1891年)に「日本婦人米国奨学金制度」を設立。

その後、この制度を利用して計25人の日本女性がアメリカに留学。第一号受給者として明治26年(1893年)に渡米した松田道は明治32年(1899年)にブリンマー・カレッジを卒業し、大正11年(1922年)に同志社女子高等学校校長に。また、河井道(恵泉女学園創立者、ブリンマー・カレッジ1904年卒)、鈴木歌(華族女学校教授、ブリンマー・カレッジ1904-1906年)、木村文子(東京女子師範学校教授)、星野あい(津田塾大学学長、ブリンマー・カレッジ1912年卒)など、この制度で留学した多くが女子教育の指導者に。そして梅子の母校の奨学金留学生を受け入れたブリンマー・カレッジの卒業生には、レオニー・ギルモアなど来日して英語教師となった者も。

3-6、梅子、米国の万国婦人連合大会に日本代表として出席

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梅子は明治31年(1898年)34歳のとき、アメリカのデンバーでの万国婦人連合大会に日本代表として出席。このとき、女子高等専門教育の発展に力を尽くすことを決意。また当時18歳のヘレン・ケラーにも面会し、イギリスに渡って、ナイチンゲール訪問、イギリス聖公会の信者だったのでヨーク大主教にも会見したそう。

3-7、梅子、女子英学塾を開校

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成瀬仁蔵の女子大学創設運動や、明治32年(1899年)に高等女学校令、私立学校令が公布されて法整備が整い、女子教育への機運が高まったことで、梅子は明治33年(1900年)に教職を辞職し、父の仙やアリス・ベーコン、大山捨松、瓜生繁子、桜井彦一郎らの協力者の援助で、明治33年(1900年)7月に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立願を東京府知事に提出。認可を受けて東京麹町区に開校し、塾長となり、華族平民の別のない女子教育を志向して、一般女子の教育を開始。

梅子が開校した女子英学塾は、行儀作法の延長の女子教育とは違って進歩的で自由な、レベルの高い授業が評判だったということで、当初はあまりの厳しさに脱落者が相次いだそう。梅子は独自の教育方針を貫き通したいと資金援助を小規模にしたせいで梅子やベーコンらの友人は最初は無報酬で参加、学生や教師の増加、拡張のための土地建物の購入費など経営は厳しかったが、明治36年(1903年)の専門学校令公布で、塾を社団法人に。

梅子は塾の創業期に健康を損なったせいで、塾経営の基礎が整うと大正8年(1919年)1月に塾長を辞任。その後は鎌倉の別荘で長期の闘病生活に入り、昭和4年(1929年)に脳出血のため64歳で死去。
墓所は、東京都小平市に在る津田塾大学の構内に。
女子英学塾は梅子の死後に津田英学塾と改名したが、校舎は後に戦災で失われ、津田塾大学として正式に落成し開校したのは、梅子の没後19年目の昭和23年(1948年)。

令和6年(2024年)上半期を目処に執行される予定の紙幣改定で、五千円紙幣に梅子の肖像が使用されることが決定。

4-1、梅子の親族

梅子の母初子の姉武子は、田安家の徳川 慶頼(よしより)の側室で、16代を継いだ徳川家達(いえさと)の生母。昔は母とは呼ばれなかったが、実質的に家達と梅子はいとこどうしということに。

梅子は生涯独身で、晩年に甥にあたる津田眞を養子に迎え、津田眞の娘あい子と西郷隆盛の曾孫西郷隆晄の次男として生まれた写真家津田直は祖父津田眞と養子縁組をし、2000年津田梅子家当主を継いだということ。また、司法通訳翻訳論者、社会学者、フィリピン研究者の津田守は又甥。

4-2、梅子の父、津田仙

父仙は、梅子が留学に出発した翌月に開拓使を辞職後、民部省に勤めたが、明治6年(1873年)に、ウイーン万国博覧会に副総裁として出席の日本赤十字社の創設者、佐野常民の書記官として随行し、現地でオランダ人農学者のダニエル・ホイブレイクの指導を受け、帰国後の明治7年(1874年)5月に口述記録をまとめて「農業三事」として出版。また、仙がウィーン万博からもたらしたニセアカシアの種子は、明治8年(1875年)に大手町に植えられて東京初の街路樹に。

そして農産物の栽培・販売・輸入、農産についての書籍・雑誌の出版などを事業とする学農社を設立、農学校も併設し、キリスト教指導も行い、学農社雑誌局発行の「農業雑誌」で日本最初にアメリカ産トウモロコシの種を通信販売。

尚、仙も日本でキリスト教の洗礼を受け、親交のあった内村鑑三や新渡戸稲造らは仙の死後追悼文を発表、仙の事業を讃えて、「大平民」と呼んだということ。

\次のページで「4-3、梅子の都市伝説」を解説!/

4-3、梅子の都市伝説

梅子のお墓は、津田塾大学の校舎から少し離れたグラウンドの奥にあるのですが、お墓参りをすると梅子の呪いがあるという伝説があるそう。
1回お参りすると結婚が出来なくなり、2回お参りすると離婚、在学中に3回お参りすると呪いは解かれるというものですが、実際は、1回しかお参りしていないのに結婚、離婚した方も、2回のお参りで離婚しない方もいるということ。

先見性を持ち、自分の理想を貫いた先進的な女性

津田梅子は明治初期にわずか6歳で何か月もの船旅でアメリカに留学して色々な知識を得たものの、17歳で帰国後は日本になじめず、周囲のすすめる結婚も断りもう一度23歳で目的をもって留学し、帰国後は女子教育に専念して今も名門難関の津田塾大学を創設しました。

ドナルド・キーン氏によれば、梅子の英語は完ぺきで、「彼女の文を読んで英語国民でないことに気づく者はいないだろう」「開国以来最初の真のコスモポリタンな日本人」と、英語ペラペラで威厳のある、相当に聡明でしっかりした女性だったはず。

梅子は日記も英語で書き、アメリカやイギリスの方が居心地が良い、英語で話したり書く方が自然となっていたし、アメリカの大学で学究生活を勧められたにもかかわらず、日本の女性教育のためにと帰国し、色々な明治期の古い価値観と戦い苦労して自分が理想とする学校を創設したなんて、そこはやっぱり、やまとなでしこそのもののような気がします。

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大正日本史明治歴史

6歳でアメリカ留学した「津田梅子」女子教育に生涯を捧げた最初の帰国子女を歴女がわかりやすく解説

今回は津田梅子を取り上げるぞ。

津田塾大学の創設者で、今度5千円札になるんだから、詳しく知りたいよな。

その辺のところを学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。昔の学者や作家も大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、津田梅子について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、津田梅子は江戸生まれ

津田梅子は、元治元年(1864年)12月3日、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)で誕生。父は津田仙、母は初子の次女で本名はむめ、明治35年(1902年)に漢字表記で梅子に改名。

父仙は、幕府崩壊の頃は長崎出張中で、国元にいる妻に4歳の梅子の教育をそろそろ始めるようにと手紙を送っていたことで、父仙の女子教育の関心の高さがあらわれているそう。幼い頃の梅子は手習いや踊りなどを学び、父の農園の手伝いも。

1-2、梅子の父津田仙が女子留学生に応募

梅子の父は、下総国佐倉藩堀田氏の家臣小島良親(善右衛門)の3男。桜井家の養子となり、15歳で佐倉藩藩校、成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)で、その後、藩主堀田正睦の命でオランダ語、英語の他、洋学や砲術を学び、安政2年(1855年)に出仕して、江戸で蘭学塾へ入門、森山栄之助の下で英語などを学んで文久元年(1861年)外国奉行の通訳として採用。慶応3年(1867年)幕府発注の軍艦引取り交渉のためアメリカへ派遣されるのに、福澤諭吉、尺振八とともに通訳として随行して半年滞在、新潟奉行、英学教授方、通訳などを歴任したそう。文久元年(1861年)に津田家の初子と結婚し婿養子に。

また、明治維新後は明治2年(1869年)に、築地のホテル館(小栗上野介発案で幕府が作った日本最初の本格的洋式ホテル)へ勤め、西洋野菜の栽培なども手がけるように。そして明治4年(1871年)、仙は明治政府の事業の北海道開拓使の嘱託に。北海道開拓使次官の黒田清隆は女子教育に関心を持っていて、政府が派遣する岩倉使節団に女子留学生を随行させることを企画、それを知った父仙が、梅子を応募させたということ

1-3、梅子、岩倉使節団の留学生に

ということで、明治4年(1871年)、黒田清隆が企画した女子留学生の募集は、出発のわずかひと月前のことで、最初の募集ではひとりの応募もなくて2度目の募集でやっと集まったということ。梅子は5人のうち最年少の満6歳で、他の女子留学生たちは、東京府の士族で秋田県吏の娘吉益亮子、新潟県士族で外務省役員の娘上田貞子、会津藩出身の山川捨松、兄が幕臣益田孝、永井繁子。梅子はこの4名と一緒に、この後10年アメリカで暮らすことに。

5人の娘たちの親は、それぞれ旧幕臣か佐幕藩の出身であり、賊軍の汚名を晴らして、家の再興をはかりたいなどと思っていたかもしれず、また親や親族がすでに留学や渡航経験があり、ある程度の海外事情を知っていたこと、梅子が後年回顧するに、「親たちはこの留学という機会が、私たちの将来に及ぼす意味が理解できる先見の明を持っていた」そう。

そして留学生には必要経費が官費で、更に年800ドルの小遣いが支給されることになっていたそうで、当時の1ドルは新1円(2万円相当)、800円は、当時の政府高官の年俸くらいだったということ。梅子たちは明治天皇の皇后、昭憲皇太后に謁見したが、皇后が侍の娘を謁見した最初の例だったそう。一行は11月に横浜を出港、サンフランシスコに到着後、アメリカ大陸を横断、同年12月にワシントンへ到着。

1-4、船のなか、到着後の梅子

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梅子たちは、長い船旅中、船酔いもあり船室で餞別のお菓子ばかり食べていたようですが、同行者のひとりが、それではいけないとお菓子を捨てて食事をさせて怖いおじさんと嫌われたとか、当時30歳の伊藤博文が、船室にやって来て船酔いに苦しむ彼女たちを慰めたりお話をして相手をしてくれて慕われたという話が。

そして梅子らは着物を着て渡米し、洋服を買おうと思っていたのだが、サンフランシスコに到着後、梅子らの着物姿をアメリカ人たちが見て大騒ぎするので、なかなか買わせてもらえず、何度も何度もお願いしてやっとシカゴで洋服を買わせてもらったそう。

2-1、梅子、アメリカ生活開始

アメリカに着いた梅子たちを世話したのは、日本弁務官としてワシントンに駐在していた森有礼で、ワシントン郊外のジョージタウンにある画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられたそう。この頃、留学中だった新島襄(後の同志社大学創立者)が会いに来て、梅子らとおしゃべりを楽しんだそうで、「この子のようにかわいらしく聡い子供を見たことがない」と感想を書いた手紙が残っているということ。しかし5人一緒で英語が上達せず、5月には森有礼の斡旋で、留学生はワシントン市内に別々の家庭に住まわされることに。

そして10月には上田悌子、吉益亮子の2名が病気で帰国。残った3人が梅子、山川捨松(のちの大山捨松)、永井繁子(のちの瓜生繁子)で、3人は生涯友情が続き、梅子が「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立するときにも2人は助力したということ。

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