大正日本史明治歴史

明治大正を生きた近代を代表する文豪兼軍医「森鴎外」を歴女が解説

2-5、鴎外、日露戦争に出征後、陸軍医のトップに

鴎外は明治35年(1902年)3月、第1師団軍医部長の辞令を受け、新妻とともに東京に赴任。6月、廃刊した「めざまし草」と上田敏主宰の「芸苑」を合併した「芸文」を創刊、出版社とのトラブルで廃刊し、10月に後身の「万年艸」創刊。12月に初めて戯曲を執筆。

明治37年(1904年)2月から明治39年(1906年)1月まで、日露戦争に第2軍軍医部長として出征。 明治40年(1907年)10月、陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、人事権を持つ軍医のトップである陸軍省医務局長に就任。

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2-6、鴎外、文学も活発に

また鴎外は、明治40年(1907年)9月には美術審査員に任じられ、第1回文部省美術展覧会(初期文展)西洋画部門審査の主任に。明治42年(1909年)には「スバル」が創刊、同誌に毎号寄稿して創作活動を再開、「半日」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」「青年」「仮面」「静」などの戯曲も発表。「スバル」創刊年の7月、鷗外は東京帝国大学から文学博士の学位を授与。

しかし、直後に「ヰタ・セクスアリス」(同誌7月号)が発売禁止処分を受け、内務省の警保局長が陸軍省を訪れた8月には陸軍次官石本新六から戒飭(かいちょく)されたので、12月、「予が立場」でレジグナチオン(諦念)をキーワードに弁明を。

鴎外は、明治43年(1910年)、慶應義塾大学の文学科顧問に就任して教授職に永井荷風を推薦し、慶應義塾大学幹事の石田新太郎の主導で上田敏を顧問に、永井荷風を主幹に、「三田文學」を創刊。また年には、「ファスチェス」で発禁問題、「沈黙の塔」「食堂」では社会主義や無政府主義に触れるなど政治色のある作品を発表、明治44年(1911年)「カズイスチカ」「妄想」を発表、「青年」の完結後、「雁」と「灰燼」の2長編を同時連載。

4月の「文芸の主義」(原題:文芸断片)では、冒頭「芸術に主義というものは本来ない」としたうえで、「無政府主義と、それに芽ざした社会主義との排斥のために、個人主義という漠然たる名を附けて芸術に迫害を加えるのは、国家のために惜むべき事で、学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えない」と結んだそう。当時は、身辺に題材をとった作品から思想色の濃い作品、教養小説や戯曲などを執筆、「ファウスト」などゲーテの3作品をはじめとする外国文学の翻訳、解説なども。

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2-7、鴎外、歴史小説に新境地を

大正元年(1912年)8月、実在の人物を資料にそって事実のまま叙述した、鷗外の作品の最初のものである「羽鳥千尋」を発表。翌9月13日、明治天皇崩御による乃木希典の殉死に影響を受け、5日後に書いた「興津弥五右衛門の遺書」(初稿)を機に歴史小説に進み、歴史そのままの「阿部一族」、歴史離れの「山椒大夫」「高瀬舟」、史伝「渋江抽斎」で結実。

ただし、大正4年(1915年)頃まで現代小説も並行して執筆、大正5年(1916年)には、後世の鷗外研究家や評論家から重要視される随筆「空車」(むなぐるま)を、大正7年(1918年)1月には随筆「礼儀小言」を著したということ。

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2-8、陸軍は退役し、文豪として芸術部門で歴任

Mori Ogai in the atelier of Sculptor Takeishi Kozaburo in 1916.jpg
By 不明 – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, Link

大正5年(1916年)、鴎外は陸軍省医務局長を8年半勤めた後予備役に編入。その後、大正7年(1918年)12月、帝室博物館(現:東京国立博物館)総長兼図書頭、翌年、帝室制度審議会御用掛、さらに大正7年(1918年)9月、帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長に。また鴎外は、元号の「明治」と「大正」に否定的だったので、宮内省図書頭として天皇の諡(おくりな)と元号の考証と編纂に着手したが、「帝諡考」は刊行したものの、病状の悪化で吉田増蔵に後を託したということ。後年この吉田が未完の「元号考」の刊行に尽力、元号案「昭和」を提出したそう。

大正11年(1922年)7月9日、腎萎縮、肺結核のために60歳で死去。
余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 」で始まる7月6日付の有名な遺言で、鴎外の墓には一切の栄誉と称号を排して、森林太郎ノ墓に。

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3-1、鴎外の逸話

鴎外は日記を残しているし、有名な逸話がいくつもありますが、ここではそのなかでも興味深いものをご紹介しますね。

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3-2,、ペンネームの由来

鴎外は30以上のペンネームを使ったということですが、明治23年(1890年)「舞姫」発表頃から、森鴎外のペンネームを使っているそう。

鴎外の由来はいくつかあって、友人の斉藤勝寿の雅号の鴎外漁史からとった、または杜甫の漢詩の「王十二判官に別る」の「柔艫軽鴎の外,悽を含んで汝の賢を覚る」からという説。千住の「鴎(かもめ)の渡し」からで、かもめの渡しは吾妻橋上流にあった遊郭の吉原を指す名称でもあり、鴎外とは遊興の地に近寄らず、遠く離れて千住にいるという意味という説などが。

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