大正日本史明治歴史

明治大正を生きた近代を代表する文豪兼軍医「森鴎外」を歴女が解説

1-5、鴎外、約4年のドイツ留学を満喫

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鴎外は、最初の1年はライプツィヒで過ごし、ドイツの人たちとも親しく付き合い、ドレスデンでは美術館の絵画も鑑賞、王室関係者や軍人と交際し、舞踏会や貴族の夜会などにも出席し、友人も出来たということ。ドレスデンを離れる前日にナウマンの講演に反論したことで、のちにミュンヘンの一流紙上で論争に。また、ミュンヘン大学でペッテンコーファーに師事し、研究のかたわら、同世代の原田直次郎や近衛篤麿など名士の子息と交際、ベルリンでは、北里柴三郎博士とともにコッホに会い、細菌学入門講座を受講してコッホの衛生試験所に。

また、カールスルーエで開催された第4回赤十字国際会議の日本代表(首席)の石黒忠悳の通訳官として発言し、「ブラボー」と声もかかり大きな反響を得たそう。
会議後にはウイーンに移動し、万国衛生会に日本政府代表として参加するなど、きらびやかな交流のある留学生活でしたが、留学が一年延長された代わり、地味な隊付勤務であるプロイセン近衛歩兵第2連隊の医務も経験。

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1-6、ベルリンではドイツ女性との出会いが

鴎外は、ベルリンでドイツ人女性との出会いもあり、鴎外が帰国した直後にドイツ人女性が来日し、滞在1月ほどで離日、これは小説「舞姫」の素材となり彼女とは後年、文通をしたなどで、鴎外はそのドイツ人女性を生涯忘れなかったそう。鷗外はドイツ留学中の出来事を「獨逸日記」に著述。

明治21年(1888年)7月5日、鷗外は石黒とともにベルリンから帰国の途につきロンドン、パリに立ち寄り、9月8日横浜港に到着。同日付で陸軍軍医学舎の教官に補されて、11月には陸軍大学校教官の兼補に。

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2-1、鴎外、翻訳、文筆活動も開始

鴎外は、ドイツ留学中も観劇などを盛んにしていましたが、明治22年(1889年)1月3日、「読売新聞」の付録に「小説論」を発表、同日の読売新聞から、弟の三木竹二とともにカルデロンの戯曲「調高矣津弦一曲」(原題:サラメヤの村長)を共訳、随時発表することに。徳富蘇峰は鴎外の翻訳戯曲を高く評価し、8月には蘇峰が主筆の民友社の雑誌「国民之友」夏期文芸付録に、訳詩集「於母影」を発表。

鴎外の「於母影」は、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えましたが、「於母影」の原稿料50円を元手に、弟竹二ら同人たちと日本最初の評論中心の専門誌「しがらみ草紙」を創刊、その後の日清戦争勃発で59号にて廃刊に。

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2-2、鴎外、「舞姫」を発表

鴎外は、当時珍しかった外国文学「即興詩人」「ファウスト」などの翻訳出版を皮切りに熱心に評論的啓蒙活動を続け、ドイツを舞台にした「舞姫」を「国民之友」に「うたかたの記」「文づかひ」を相次いで発表。日本人と外国人が恋愛関係になる「舞姫」は、読者を驚かせたそう。またドイツ三部作をめぐって石橋忍月と論争になり、自ら創刊した評論専門誌の「しがらみ草紙」上で坪内逍遥の記実主義を批判、没理想論争を繰り広げたということ。

鴎外は、文筆活動と並行して公職も明治22年(1889年)に東京美術学校(現・東京藝術大学)の美術解剖学講師、翌年からは約2年間東京専門学校の科外講師、明治25年(1892年)9月には慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)講師に。

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2-3、鴎外、日清戦争出征し、後に台湾勤務

明治27年(1894年)9月、日清戦争の勃発で鴎外は中路兵站軍医部長として朝鮮へ出征、一時帰国後同年10月、第二軍兵站軍医部長として清国へ、更に台湾へと出征。終戦後も日本に割譲された台湾で4か月ほどの勤務。明治29年(1896年)1月、「しがらみ草紙」廃刊後、幸田露伴や斎藤緑雨と「卍」を創刊、合評「三人冗語」を載せたりと当時の評壇の先頭に。

明治31年(1898年)7月9日の「万朝報』の連載「弊風一斑 蓄妾の実例」の中で、児玉せきとの交情をあばかれたためか、ドイツ留学から帰国後、恩人の薦めに従い海軍中将の娘と最初の見合い結婚をしたが、うまくいかず離婚したなども影響し小倉に左遷されることに。

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2-4、鴎外の小倉時代は左遷か

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明治33年(1900年)6月に鴎外は陸軍軍医監となり、小倉第十二師団の軍医部長として赴任。これが鴎外にとっては不本意な勤務で、軍内部の政治的抗争または私生活の醜聞、または日清戦争後の台湾平定での脚気大流行とその隠蔽などが原因ともされていますが、小倉時代は文学者鴎外として大きな転機となったということ。
もうひとつは東京の陸軍省の小池正直医務局長と鴎外は同期のライバル、軍隊の衛生事業の改良について対立したのが理由で、鴎外は左遷されたことを怒って、一旦は軍を辞めようとしたが親友の賀古鶴所の忠言で思いとどまった説。
そして、単なる左遷ではなく陸軍全体の人事の意向という説も。鴎外はそのころ陸軍内で、田村怡与造とともにクラウゼヴィッツの「戦争論」を研究中。この本は戦争の本質を説いた「戦争哲学書」で、難解な内容で文学的、哲学的な文体だったので、翻訳には単にドイツ語が解るだけではなく、文学的、哲学的素養のある陸軍関係者の鴎外が適役とされ、東京から離れて翻訳に専念するために小倉に赴任させたということ。

実際、鴎外は、明治33年(1900年)1月に「鴎外漁史とは誰ぞ」を発表し、文学的沈黙を宣言。小倉での3年弱の赴任中に、審美学、仏教研究、クラウゼヴッツ「戦争論」の翻訳、「即興詩人」の翻訳が完成、フランス語、サンスクリット語、ロシア語の独習などの学究的生活を送り、文学的復興に備えたそう。

私生活でも明治23年(1890年)に最初の妻登志子と離婚して以来独身だったのが、明治35年(1902年)1月、判事荒木博臣の長女茂子と見合い結婚。同年3月14日に東京の第一師団の軍医部長に転任。

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