今回は森鴎外を取り上げるぞ。

「舞姫」で有名な作家ですが、軍医だったんだって。

その辺のところを明治時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。昔の学者や作家も大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、森鴎外について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、森鴎外は津和野の出身

Birthplace of Mori Ogai 20170503.jpg
By そらみみ - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

森鴎外(おうがい)は、文久2年(1862年)1月19日、石見国鹿足郡津和野町田村(現島根県津和野町町田)で誕生。父森静泰(後年、静男と改名)と、母峰子の長男で、本名は森 林太郎(りんたろう)、鴎外は号。

きょうだいは、弟2人と妹ひとり。5歳年下で慶応3年(1867年)生まれの篤次郎(三木竹二)と17歳年下で明治12年(1879年)生まれの潤三郎は、それぞれ劇評家、考証学者として活躍、また妹の小金井喜美子も歌人で翻訳家。

森家は代々津和野藩の典医を務めていて、鴎外の祖父と父は婿養子だったので、久々の跡継ぎとして期待されたということ。

1-2、鴎外の子供時代

image by PIXTA / 32058639

 鴎外は、藩医家の嫡男として、幼い頃から父に論語や孟子、オランダ語などを学び、藩校の養老館で四書五経を復読。当時の記録では9歳で15歳相当の学力とされていたので、家族と周囲から将来を期待されることに。

津和野藩は小藩ながら、長州に攻め込まれたら一発で終わりの場所柄か、藩士に武道よりも学問を奨励する傾向にあり、西周や鴎外などの輩出につながったのではと司馬遼太郎が解説。
 
明治5年(1872年)廃藩置県などがきっかけで10歳のときに父と上京。現在の墨田区東向島に住居。東京では官立医学校への入学に備えてドイツ語を習得のために、10月に私塾の進文学社に、その際に通学の都合で、政府高官だった親族の津和野藩出身の西周(にしあまね)の邸宅に一時期寄宿。翌年には津和野に残っていた家族も住居などを売却して上京、父の経営する医院のある千住に移住。

1-3、鴎外、東大医学部予科に12歳で入学

鴎外は、明治6年(1873年)11月、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科を受験、そのとき実年齢より2歳多く偽って12歳で入学、新入生は71名。そして定員30人の本科に進んで、ドイツ人教官たちの講義を受ける一方、佐藤元長について漢方医書を学び、また文学を乱読、漢詩、漢文に傾倒して和歌を作ったということ。
明治14年(1881年)7月4日、19歳で本科を8番で卒業(10人中)、大学に残って研究者にはなれなかったが、文部省派遣留学生としてドイツ留学を希望しつつ、父の病院の手伝いを。鴎外の進路未定の状況を見かねた同期生の小池正直、のちの陸軍省医務長は、陸軍軍医本部次長の石黒忠悳に鷗外の推薦状を出してくれたし、小池と同じく陸軍軍医で日本の耳鼻咽喉科学の創始者で、鴎外の親友賀古鶴所(かこつると)は、鷗外に陸軍省入りを勧めていたので、鷗外は、同年12月16日、陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務することに。

1-4、鴎外、ドイツ留学へ

鴎外が陸軍省に入省して半年後の明治15年(1882年)5月、東京大学医学部卒業の同期8名の中で最初に軍医本部付となって、ドイツのプロイセン王国の陸軍衛生制度に関する文献調査に従事することになり、翌年3月、「医政全書稿本」全12巻を役所に納めたそう。

そして明治17年(1884年)6月、衛生学の修学と、ドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学に。7月28日、明治天皇に拝謁し、賢所に参拝した後の8月24日、陸軍省派遣留学生として横浜港から出国、10月7日にフランスのマルセイユ港に到着。同月11日に首都ベルリンに。鷗外は横浜からマルセイユまでの航海中に「航西日記(こうせいにっき)」を書いたということ。

\次のページで「1-5、鴎外、約4年のドイツ留学を満喫」を解説!/

1-5、鴎外、約4年のドイツ留学を満喫

Mori-Ogai-Gedenkstätte.jpg
By Tischbeinahe - 投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, Link

鴎外は、最初の1年はライプツィヒで過ごし、ドイツの人たちとも親しく付き合い、ドレスデンでは美術館の絵画も鑑賞、王室関係者や軍人と交際し、舞踏会や貴族の夜会などにも出席し、友人も出来たということ。ドレスデンを離れる前日にナウマンの講演に反論したことで、のちにミュンヘンの一流紙上で論争に。また、ミュンヘン大学でペッテンコーファーに師事し、研究のかたわら、同世代の原田直次郎や近衛篤麿など名士の子息と交際、ベルリンでは、北里柴三郎博士とともにコッホに会い、細菌学入門講座を受講してコッホの衛生試験所に。

また、カールスルーエで開催された第4回赤十字国際会議の日本代表(首席)の石黒忠悳の通訳官として発言し、「ブラボー」と声もかかり大きな反響を得たそう。
会議後にはウイーンに移動し、万国衛生会に日本政府代表として参加するなど、きらびやかな交流のある留学生活でしたが、留学が一年延長された代わり、地味な隊付勤務であるプロイセン近衛歩兵第2連隊の医務も経験。

1-6、ベルリンではドイツ女性との出会いが

鴎外は、ベルリンでドイツ人女性との出会いもあり、鴎外が帰国した直後にドイツ人女性が来日し、滞在1月ほどで離日、これは小説「舞姫」の素材となり彼女とは後年、文通をしたなどで、鴎外はそのドイツ人女性を生涯忘れなかったそう。鷗外はドイツ留学中の出来事を「獨逸日記」に著述。

明治21年(1888年)7月5日、鷗外は石黒とともにベルリンから帰国の途につきロンドン、パリに立ち寄り、9月8日横浜港に到着。同日付で陸軍軍医学舎の教官に補されて、11月には陸軍大学校教官の兼補に。

2-1、鴎外、翻訳、文筆活動も開始

鴎外は、ドイツ留学中も観劇などを盛んにしていましたが、明治22年(1889年)1月3日、「読売新聞」の付録に「小説論」を発表、同日の読売新聞から、弟の三木竹二とともにカルデロンの戯曲「調高矣津弦一曲」(原題:サラメヤの村長)を共訳、随時発表することに。徳富蘇峰は鴎外の翻訳戯曲を高く評価し、8月には蘇峰が主筆の民友社の雑誌「国民之友」夏期文芸付録に、訳詩集「於母影」を発表。

鴎外の「於母影」は、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えましたが、「於母影」の原稿料50円を元手に、弟竹二ら同人たちと日本最初の評論中心の専門誌「しがらみ草紙」を創刊、その後の日清戦争勃発で59号にて廃刊に。

2-2、鴎外、「舞姫」を発表

鴎外は、当時珍しかった外国文学「即興詩人」「ファウスト」などの翻訳出版を皮切りに熱心に評論的啓蒙活動を続け、ドイツを舞台にした「舞姫」を「国民之友」に「うたかたの記」「文づかひ」を相次いで発表。日本人と外国人が恋愛関係になる「舞姫」は、読者を驚かせたそう。またドイツ三部作をめぐって石橋忍月と論争になり、自ら創刊した評論専門誌の「しがらみ草紙」上で坪内逍遥の記実主義を批判、没理想論争を繰り広げたということ。

鴎外は、文筆活動と並行して公職も明治22年(1889年)に東京美術学校(現・東京藝術大学)の美術解剖学講師、翌年からは約2年間東京専門学校の科外講師、明治25年(1892年)9月には慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)講師に。

2-3、鴎外、日清戦争出征し、後に台湾勤務

明治27年(1894年)9月、日清戦争の勃発で鴎外は中路兵站軍医部長として朝鮮へ出征、一時帰国後同年10月、第二軍兵站軍医部長として清国へ、更に台湾へと出征。終戦後も日本に割譲された台湾で4か月ほどの勤務。明治29年(1896年)1月、「しがらみ草紙」廃刊後、幸田露伴や斎藤緑雨と「卍」を創刊、合評「三人冗語」を載せたりと当時の評壇の先頭に。

明治31年(1898年)7月9日の「万朝報』の連載「弊風一斑 蓄妾の実例」の中で、児玉せきとの交情をあばかれたためか、ドイツ留学から帰国後、恩人の薦めに従い海軍中将の娘と最初の見合い結婚をしたが、うまくいかず離婚したなども影響し小倉に左遷されることに。

2-4、鴎外の小倉時代は左遷か

Mori Ogai house Kokura.jpg
By コンピュータが読み取れる情報は提供されていませんが、Historian~commonswikiだと推定されます(著作権の主張に基づく) - コンピュータが読み取れる情報は提供されていませんが、投稿者自身による作品だと推定されます(著作権の主張に基づく), CC 表示 2.5, Link

明治33年(1900年)6月に鴎外は陸軍軍医監となり、小倉第十二師団の軍医部長として赴任。これが鴎外にとっては不本意な勤務で、軍内部の政治的抗争または私生活の醜聞、または日清戦争後の台湾平定での脚気大流行とその隠蔽などが原因ともされていますが、小倉時代は文学者鴎外として大きな転機となったということ。
もうひとつは東京の陸軍省の小池正直医務局長と鴎外は同期のライバル、軍隊の衛生事業の改良について対立したのが理由で、鴎外は左遷されたことを怒って、一旦は軍を辞めようとしたが親友の賀古鶴所の忠言で思いとどまった説。
そして、単なる左遷ではなく陸軍全体の人事の意向という説も。鴎外はそのころ陸軍内で、田村怡与造とともにクラウゼヴィッツの「戦争論」を研究中。この本は戦争の本質を説いた「戦争哲学書」で、難解な内容で文学的、哲学的な文体だったので、翻訳には単にドイツ語が解るだけではなく、文学的、哲学的素養のある陸軍関係者の鴎外が適役とされ、東京から離れて翻訳に専念するために小倉に赴任させたということ。

実際、鴎外は、明治33年(1900年)1月に「鴎外漁史とは誰ぞ」を発表し、文学的沈黙を宣言。小倉での3年弱の赴任中に、審美学、仏教研究、クラウゼヴッツ「戦争論」の翻訳、「即興詩人」の翻訳が完成、フランス語、サンスクリット語、ロシア語の独習などの学究的生活を送り、文学的復興に備えたそう。

私生活でも明治23年(1890年)に最初の妻登志子と離婚して以来独身だったのが、明治35年(1902年)1月、判事荒木博臣の長女茂子と見合い結婚。同年3月14日に東京の第一師団の軍医部長に転任。

\次のページで「2-5、鴎外、日露戦争に出征後、陸軍医のトップに」を解説!/

2-5、鴎外、日露戦争に出征後、陸軍医のトップに

鴎外は明治35年(1902年)3月、第1師団軍医部長の辞令を受け、新妻とともに東京に赴任。6月、廃刊した「めざまし草」と上田敏主宰の「芸苑」を合併した「芸文」を創刊、出版社とのトラブルで廃刊し、10月に後身の「万年艸」創刊。12月に初めて戯曲を執筆。

明治37年(1904年)2月から明治39年(1906年)1月まで、日露戦争に第2軍軍医部長として出征。 明治40年(1907年)10月、陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、人事権を持つ軍医のトップである陸軍省医務局長に就任。

2-6、鴎外、文学も活発に

また鴎外は、明治40年(1907年)9月には美術審査員に任じられ、第1回文部省美術展覧会(初期文展)西洋画部門審査の主任に。明治42年(1909年)には「スバル」が創刊、同誌に毎号寄稿して創作活動を再開、「半日」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」「青年」「仮面」「静」などの戯曲も発表。「スバル」創刊年の7月、鷗外は東京帝国大学から文学博士の学位を授与。

しかし、直後に「ヰタ・セクスアリス」(同誌7月号)が発売禁止処分を受け、内務省の警保局長が陸軍省を訪れた8月には陸軍次官石本新六から戒飭(かいちょく)されたので、12月、「予が立場」でレジグナチオン(諦念)をキーワードに弁明を。

鴎外は、明治43年(1910年)、慶應義塾大学の文学科顧問に就任して教授職に永井荷風を推薦し、慶應義塾大学幹事の石田新太郎の主導で上田敏を顧問に、永井荷風を主幹に、「三田文學」を創刊。また年には、「ファスチェス」で発禁問題、「沈黙の塔」「食堂」では社会主義や無政府主義に触れるなど政治色のある作品を発表、明治44年(1911年)「カズイスチカ」「妄想」を発表、「青年」の完結後、「雁」と「灰燼」の2長編を同時連載。

4月の「文芸の主義」(原題:文芸断片)では、冒頭「芸術に主義というものは本来ない」としたうえで、「無政府主義と、それに芽ざした社会主義との排斥のために、個人主義という漠然たる名を附けて芸術に迫害を加えるのは、国家のために惜むべき事で、学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えない」と結んだそう。当時は、身辺に題材をとった作品から思想色の濃い作品、教養小説や戯曲などを執筆、「ファウスト」などゲーテの3作品をはじめとする外国文学の翻訳、解説なども。

2-7、鴎外、歴史小説に新境地を

大正元年(1912年)8月、実在の人物を資料にそって事実のまま叙述した、鷗外の作品の最初のものである「羽鳥千尋」を発表。翌9月13日、明治天皇崩御による乃木希典の殉死に影響を受け、5日後に書いた「興津弥五右衛門の遺書」(初稿)を機に歴史小説に進み、歴史そのままの「阿部一族」、歴史離れの「山椒大夫」「高瀬舟」、史伝「渋江抽斎」で結実。

ただし、大正4年(1915年)頃まで現代小説も並行して執筆、大正5年(1916年)には、後世の鷗外研究家や評論家から重要視される随筆「空車」(むなぐるま)を、大正7年(1918年)1月には随筆「礼儀小言」を著したということ。

2-8、陸軍は退役し、文豪として芸術部門で歴任

Mori Ogai in the atelier of Sculptor Takeishi Kozaburo in 1916.jpg
By 不明 - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, Link

大正5年(1916年)、鴎外は陸軍省医務局長を8年半勤めた後予備役に編入。その後、大正7年(1918年)12月、帝室博物館(現:東京国立博物館)総長兼図書頭、翌年、帝室制度審議会御用掛、さらに大正7年(1918年)9月、帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長に。また鴎外は、元号の「明治」と「大正」に否定的だったので、宮内省図書頭として天皇の諡(おくりな)と元号の考証と編纂に着手したが、「帝諡考」は刊行したものの、病状の悪化で吉田増蔵に後を託したということ。後年この吉田が未完の「元号考」の刊行に尽力、元号案「昭和」を提出したそう。

大正11年(1922年)7月9日、腎萎縮、肺結核のために60歳で死去。
余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 」で始まる7月6日付の有名な遺言で、鴎外の墓には一切の栄誉と称号を排して、森林太郎ノ墓に。

3-1、鴎外の逸話

鴎外は日記を残しているし、有名な逸話がいくつもありますが、ここではそのなかでも興味深いものをご紹介しますね。

3-2,、ペンネームの由来

鴎外は30以上のペンネームを使ったということですが、明治23年(1890年)「舞姫」発表頃から、森鴎外のペンネームを使っているそう。

鴎外の由来はいくつかあって、友人の斉藤勝寿の雅号の鴎外漁史からとった、または杜甫の漢詩の「王十二判官に別る」の「柔艫軽鴎の外,悽を含んで汝の賢を覚る」からという説。千住の「鴎(かもめ)の渡し」からで、かもめの渡しは吾妻橋上流にあった遊郭の吉原を指す名称でもあり、鴎外とは遊興の地に近寄らず、遠く離れて千住にいるという意味という説などが。

\次のページで「3-3、嫁姑問題に悩まされた」を解説!/

3-3、嫁姑問題に悩まされた

鴎外の最初の結婚は、無理矢理に好きでもない女性と結婚させられたせいか、長男は生まれたが離婚。その後、41歳で18歳年下の志げと結婚、絶世の美人だが名家の令嬢らしくかなりのわがままで悪妻として有名ですが、鴎外の母とのバトルも激しく鴎外は悩まされ続け、その様子は「半日」という短編小説にも。

鴎外の母は、嫁には財布を握らせず、そのこともあって姑と暮らすのを嫌がる志げは子供を連れて別居し、鴎外は嫁の家と実家を行き来する二重生活を送ったということ。

そして鴎外は志げに小説を書いて発散することを勧め、仕上がった作品を鴎外が校閲したりと夫婦で過ごす時間が増えて夫婦のコミュニケーションが深まり、志げのイライラもおさまったが、志げは夫の鷗外が補筆しまくった原稿を、そのまま出版社へ持ちこんだそう。
鴎外の子供たちは、それぞれ父について書いていて、鴎外はたいへんに愛情深く繊細でいて心の強い人だったそう。

3-4、鴎外と脚気

Ogai Mori.jpg
By published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) - The Japanese book "幕末・明治・大正 回顧八十年史" (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, Link

鴎外は歴史に残る近代文学者ですが、軍医としてはすさまじい汚点を残しています。

今では脚気という病気はビタミンB1不足で起こるのは常識ですが、当時はビタミンが発見されておらず、脚気は幕末から明治の日本では、14代将軍徳川家茂、その夫人の和宮から庶民に至るまで、脚気で亡くなった人は多く、コレラ、結核と並ぶ深刻な病気。しかしヨーロッパにはない病気だったので、アジアの風土病であるとか、アジア特有の細菌が原因だと考える研究者は多かったということ。

細菌学は当時の医学の最先端で、細菌学者のコッホも脚気は細菌が原因で、病原菌が発見されると考えていたなど、この時代の医学では脚気細菌説は自然なことだったそう。なのでドイツ医学の東大医学部で学び、ドイツ留学した陸軍軍医の鴎外は脚気細菌説をとったのですね。

しかしイギリスで最新の臨床内科を学んだ海軍軍医の高木兼寛は、ヨーロッパに脚気がないので、脚気の原因を蛋白質の不足と考え、肉食で脚気を防げるのではと、明治17年(1884年)訓練航海で2隻の船の食事内容を、和食と洋食にする実験をしたところ、和食の船では脚気が発生し、洋食の船には発生せず。以後、海軍ではカレーとか洋食をとりいれるようになり、肉より麦飯が有効ということも判明したので、日清戦争が起こる前には脚気が激減。

しかし、鴎外ら陸軍軍医たちは細菌説に固執して、海軍が兵食改革で脚気が激減した結果を無視、陸軍の兵食はあくまでも白米を用いたということ。白米が食べられるのが魅力で陸軍に入った人も多かったとはいえ、日清戦争では戦死者よりも脚気の戦病死者のほうが多かったとさえ言われるほど、陸軍の兵隊さんたちの脚気の罹患は深刻な問題。

海軍でほぼ撲滅されたのに、陸軍の脚気は日露戦争でも改善されなかったのは、鴎外が意地だけで麦飯導入を拒んだせいで、日露戦争時、陸軍には約25万人の脚気患者が発生して約2万7千人死亡、戦死者の多くも脚気にかかっていたそう。もちろん戦中戦後に軍医トップの責任者鴎外への非難は陸軍内部にもあったが、鴎外は責任を取らず。

なんと、鈴木梅太郎が米糠からビタミンB1であるオリザニンを発見しても、鴎外は細菌説に固執し、栄養説を批判、鈴木を罵倒する論文まで発表、内容は学術論文というよりも感情的な罵詈雑言で、研究が栄養説にほぼ決定後も、鴎外は死ぬまで認めずに細菌説を主張し続けたということ。

鴎外は、陸軍軍医としてもトップの地位で退役し、普通ならば華族に列せられるのが叙爵されなかったのは脚気問題が原因と言われているそうで、海軍の高木兼寛は男爵に叙されて、麦飯を奨励したことから「麦飯男爵」と慕われたそうです。
ちなみに陸軍は、鴎外が軍医総監を退職 した直後、兵食に パン食や麦飯を導入 したということ。

文学者、翻訳者としては明治人に多大な影響を与えたが、軍医としては問題

森鴎外は、子供の頃から津和野藩の典医の家の跡継ぎとして期待され、勉学に励み若くして東大に進学、ドイツに留学した当時のエリート中のエリート医師でした。軍でも医官として出世したが、文学の才能もあり、得意のドイツ語でドイツ文学を翻訳紹介し、後々まで残る名作品を多く残しています。

自身の日記や家族の回想などもあるため、プライベートなことも後の時代のわれわれにも色々と知ることが出来てとても興味深い人物。

しかし脚気予防に対する頑固な態度が、呆然とするほどの犠牲を伴っていたことを知ってしまうと、いったいなにが鴎外をそこまでにさせたのか、陸軍として改善できなかったのかといたたまれなくなるのが残念です。

" /> 明治大正を生きた近代を代表する文豪兼軍医「森鴎外」を歴女がわかりやすく解説 – Study-Z
大正日本史明治歴史

明治大正を生きた近代を代表する文豪兼軍医「森鴎外」を歴女がわかりやすく解説

今回は森鴎外を取り上げるぞ。

「舞姫」で有名な作家ですが、軍医だったんだって。

その辺のところを明治時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。昔の学者や作家も大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、森鴎外について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、森鴎外は津和野の出身

Birthplace of Mori Ogai 20170503.jpg
By そらみみ投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

森鴎外(おうがい)は、文久2年(1862年)1月19日、石見国鹿足郡津和野町田村(現島根県津和野町町田)で誕生。父森静泰(後年、静男と改名)と、母峰子の長男で、本名は森 林太郎(りんたろう)、鴎外は号。

きょうだいは、弟2人と妹ひとり。5歳年下で慶応3年(1867年)生まれの篤次郎(三木竹二)と17歳年下で明治12年(1879年)生まれの潤三郎は、それぞれ劇評家、考証学者として活躍、また妹の小金井喜美子も歌人で翻訳家。

森家は代々津和野藩の典医を務めていて、鴎外の祖父と父は婿養子だったので、久々の跡継ぎとして期待されたということ。

1-2、鴎外の子供時代

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 鴎外は、藩医家の嫡男として、幼い頃から父に論語や孟子、オランダ語などを学び、藩校の養老館で四書五経を復読。当時の記録では9歳で15歳相当の学力とされていたので、家族と周囲から将来を期待されることに。

津和野藩は小藩ながら、長州に攻め込まれたら一発で終わりの場所柄か、藩士に武道よりも学問を奨励する傾向にあり、西周や鴎外などの輩出につながったのではと司馬遼太郎が解説。
 
明治5年(1872年)廃藩置県などがきっかけで10歳のときに父と上京。現在の墨田区東向島に住居。東京では官立医学校への入学に備えてドイツ語を習得のために、10月に私塾の進文学社に、その際に通学の都合で、政府高官だった親族の津和野藩出身の西周(にしあまね)の邸宅に一時期寄宿。翌年には津和野に残っていた家族も住居などを売却して上京、父の経営する医院のある千住に移住。

1-3、鴎外、東大医学部予科に12歳で入学

鴎外は、明治6年(1873年)11月、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科を受験、そのとき実年齢より2歳多く偽って12歳で入学、新入生は71名。そして定員30人の本科に進んで、ドイツ人教官たちの講義を受ける一方、佐藤元長について漢方医書を学び、また文学を乱読、漢詩、漢文に傾倒して和歌を作ったということ。
明治14年(1881年)7月4日、19歳で本科を8番で卒業(10人中)、大学に残って研究者にはなれなかったが、文部省派遣留学生としてドイツ留学を希望しつつ、父の病院の手伝いを。鴎外の進路未定の状況を見かねた同期生の小池正直、のちの陸軍省医務長は、陸軍軍医本部次長の石黒忠悳に鷗外の推薦状を出してくれたし、小池と同じく陸軍軍医で日本の耳鼻咽喉科学の創始者で、鴎外の親友賀古鶴所(かこつると)は、鷗外に陸軍省入りを勧めていたので、鷗外は、同年12月16日、陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務することに。

1-4、鴎外、ドイツ留学へ

鴎外が陸軍省に入省して半年後の明治15年(1882年)5月、東京大学医学部卒業の同期8名の中で最初に軍医本部付となって、ドイツのプロイセン王国の陸軍衛生制度に関する文献調査に従事することになり、翌年3月、「医政全書稿本」全12巻を役所に納めたそう。

そして明治17年(1884年)6月、衛生学の修学と、ドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学に。7月28日、明治天皇に拝謁し、賢所に参拝した後の8月24日、陸軍省派遣留学生として横浜港から出国、10月7日にフランスのマルセイユ港に到着。同月11日に首都ベルリンに。鷗外は横浜からマルセイユまでの航海中に「航西日記(こうせいにっき)」を書いたということ。

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