

「舞姫」で有名な作家だが、軍医だったんだって。
その辺のところを明治時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、森鴎外は津和野の出身
- 1-2、鴎外の子供時代
- 1-3、鴎外、東大医学部予科に12歳で入学
- 1-4、鴎外、ドイツ留学へ
- 1-5、鴎外、約4年のドイツ留学を満喫
- 1-6、ベルリンではドイツ女性との出会いが
- 2-1、鴎外、翻訳、文筆活動も開始
- 2-2、鴎外、「舞姫」を発表
- 2-3、鴎外、日清戦争出征し、後に台湾勤務
- 2-4、鴎外の小倉時代は左遷か
- 2-5、鴎外、日露戦争に出征後、陸軍医のトップに
- 2-6、鴎外、文学も活発に
- 2-7、鴎外、歴史小説に新境地を
- 2-8、陸軍は退役し、文豪として芸術部門で歴任
- 3-1、鴎外の逸話
- 3-2,、ペンネームの由来
- 3-3、嫁姑問題に悩まされた
- 3-4、鴎外と脚気
- 文学者、翻訳者としては明治人に多大な影響を与えたが、軍医としては問題
この記事の目次

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。昔の学者や作家も大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、森鴎外について、5分でわかるようにまとめた。
1-1、森鴎外は津和野の出身
By そらみみ – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link
森鴎外(おうがい)は、文久2年(1862年)1月19日、石見国鹿足郡津和野町田村(現島根県津和野町町田)で誕生。父森静泰(後年、静男と改名)と、母峰子の長男で、本名は森 林太郎(りんたろう)、鴎外は号。
きょうだいは、弟2人と妹ひとり。5歳年下で慶応3年(1867年)生まれの篤次郎(三木竹二)と17歳年下で明治12年(1879年)生まれの潤三郎は、それぞれ劇評家、考証学者として活躍、また妹の小金井喜美子も歌人で翻訳家。
森家は代々津和野藩の典医を務めていて、鴎外の祖父と父は婿養子だったので、久々の跡継ぎとして期待されたということ。
1-2、鴎外の子供時代

鴎外は、藩医家の嫡男として、幼い頃から父に論語や孟子、オランダ語などを学び、藩校の養老館で四書五経を復読。当時の記録では9歳で15歳相当の学力とされていたので、家族と周囲から将来を期待されることに。
津和野藩は小藩ながら、長州に攻め込まれたら一発で終わりの場所柄か、藩士に武道よりも学問を奨励する傾向にあり、西周や鴎外などの輩出につながったのではと司馬遼太郎が解説。
明治5年(1872年)廃藩置県などがきっかけで10歳のときに父と上京。現在の墨田区東向島に住居。東京では官立医学校への入学に備えてドイツ語を習得のために、10月に私塾の進文学社に、その際に通学の都合で、政府高官だった親族の津和野藩出身の西周(にしあまね)の邸宅に一時期寄宿。翌年には津和野に残っていた家族も住居などを売却して上京、父の経営する医院のある千住に移住。
1-3、鴎外、東大医学部予科に12歳で入学
鴎外は、明治6年(1873年)11月、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科を受験、そのとき実年齢より2歳多く偽って12歳で入学、新入生は71名。そして定員30人の本科に進んで、ドイツ人教官たちの講義を受ける一方、佐藤元長について漢方医書を学び、また文学を乱読、漢詩、漢文に傾倒して和歌を作ったということ。
明治14年(1881年)7月4日、19歳で本科を8番で卒業(10人中)、大学に残って研究者にはなれなかったが、文部省派遣留学生としてドイツ留学を希望しつつ、父の病院の手伝いを。鴎外の進路未定の状況を見かねた同期生の小池正直、のちの陸軍省医務長は、陸軍軍医本部次長の石黒忠悳に鷗外の推薦状を出してくれたし、小池と同じく陸軍軍医で日本の耳鼻咽喉科学の創始者で、鴎外の親友賀古鶴所(かこつると)は、鷗外に陸軍省入りを勧めていたので、鷗外は、同年12月16日、陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務することに。

えっ、12歳でかよ、しかもドイツ語の授業についていけたのか、すごいな。
1-4、鴎外、ドイツ留学へ
鴎外が陸軍省に入省して半年後の明治15年(1882年)5月、東京大学医学部卒業の同期8名の中で最初に軍医本部付となって、ドイツのプロイセン王国の陸軍衛生制度に関する文献調査に従事することになり、翌年3月、「医政全書稿本」全12巻を役所に納めたそう。
そして明治17年(1884年)6月、衛生学の修学と、ドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学に。7月28日、明治天皇に拝謁し、賢所に参拝した後の8月24日、陸軍省派遣留学生として横浜港から出国、10月7日にフランスのマルセイユ港に到着。同月11日に首都ベルリンに。鷗外は横浜からマルセイユまでの航海中に「航西日記(こうせいにっき)」を書いたということ。
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