
清和源氏、源満仲が武士団を作る
第56代清和天皇から四人の皇子と十二人の孫が臣籍降下して清和源氏が生まれました。中でも清和天皇のひ孫にあたる源満仲は武士団を形成し、これは後に続く武士階級の原型です。その武士団の拠点を摂津国川辺郡多田庄(現在の兵庫県川西市多田)に置いたことから「多田源氏」とも呼ばれます。
ここがちょっとややこしいところですね。すでに「清和源氏」という名称があるのに「多田源氏」まで増えて。この後さらに「摂津源氏」「河内源氏」「大和源氏」と盛りだくさんです。しかも代を下ると「源」の代わりに地名を苗字に名乗ることもあります(この場合はたいてい注釈が付きますが)。少し大雑把ですが、「天皇+源氏」がどの天皇の血筋かを表し、「地名+源氏」はどこに武士団の拠点を置いたかを表していると考えてください。
満仲の血筋は後に鎌倉幕府の頼朝や室町幕府の足利氏につながっていきました。さらに、江戸幕府の徳川家康は征夷大将軍になるためにこの清和源氏を仮冒したとされています。仮冒とはいえ、武士団制度もとっくに廃れた江戸時代まで続くのですから、清和源氏の名前はとんでもなく息が長いですね。
平安の守護者・源頼光
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源満仲は家督を嫡流である源頼光(みなもとのよりみつ)に譲りました。同じ多田に拠点を置きますが、頼光の子孫は摂津源氏と呼ばれことになります。
頼光は藤原摂関家に仕えて「朝家の守護」とまで呼ばれますが、彼は武勇伝の方が有名ですね。取分け、大江山の酒呑童子討伐、土蜘蛛退治がメジャーでしょうか。頼光に付き従った頼光四天王と呼ばれる四人の家臣には、嵯峨源氏・源融の子孫である渡辺綱や、「マサカリ担いだ金太郎」でおなじみの坂田金時など凄腕のメンバーが揃っています。妖怪退治の逸話から、頼光がいかに武人として強かったのかがうかがえますね。
頼光が土蜘蛛を切った刀「膝丸」は父・満仲が「髭切」という太刀と一緒に打たせたものであり、後に両刀とも源頼朝へと渡りました。現在、「膝丸」とされる刀は各所に存在しており、「髭切」は北野天満宮に保管されている「鬼切丸」と同一視されています。
河内源氏の勢力拡大
満仲の三男・源頼信は河内国(現在の大阪東部周辺)にて河内源氏を築きました。源氏の前に何もつけない場合、基本的に河内源氏を指すほど有力な武家へと成長していきます。
河内源氏と名前の通り、彼らの本拠地は関西でした。しかし、1028年に起こった平忠常の乱を治めた際、頼信は関東にも勢力を置いておくことにしたのです。そして、息子の義家の代に陸奥と出羽(ともに東北地方)の後三年の役を平定しますが、これは義家の私的な争いとみなされ、朝廷からはいっさいの賞与はありません。逆に戦っている間未納になっていた貢納の請求書が飛んできた上に、陸奥守の役職を解任されてしまいます。それで義家は関東の武士たちに自分の私財から恩賞を出したのですが、「朝廷を抜きにして、武士が大将から恩賞を賜る」という図式に注目してください。この場合、恩賞をもらった武士は誰に対して忠誠心を持つでしょうか?もちろん、身銭を切ってくれた義家ですね。この恩賞によって関東における源氏の株は非常に高くなります。義家が関東の武士たちをまとめたことにより「武家の棟梁」という地位が生まれたのです。
河内源氏、不遇の時代に直面する
朝廷から戦費の支払いを拒絶されるなど、なかなか不遇な目にあった義家ですが、晩年に義家の次男が朝廷に反発したことを発端に一族内での抗争や、義家の死後に家督を継いだ源義忠の暗殺が起こり、次々と有力者を失った河内源氏に残ったのは、義家の孫の源為義でした。為義は白河法皇に近侍するなど一族の復興に努めますが、時代は徐々に源氏ではなく伊勢平氏へと傾いていきます。
為朝は河内源氏の地位回復のために一生懸命奔走しました。けれど残念なことに、為義は1156年の保元の乱に敗れて処刑されてしまいます。このとき為義の息子・義朝は父の敵方について死罪にはなりません。しかし、天皇は清盛を重用するばかりか、源氏勢力を削り始めます。河内源氏の不遇にこの冷遇が重なり、さらに朝廷内の争いが加わった結果、とうとう1160年の平時の乱が起こってしまいました。数の優位を取った義朝でしたが、その油断を突いた清盛に負けてしまいます。ここで義朝は処刑されますが、息子の頼朝は伊豆へ流刑、義経は鞍馬寺に入ることを条件に助命されます。
源平合戦と河内源氏の復権?
By 伝狩野元信 – 『源平合戦図屏風』 赤間神宮所蔵, パブリック・ドメイン, Link
頼朝、義経兄弟の他、生き残った河内源氏の末裔たちは地方に息をひそめて平家打倒の時を待っていました。そうして、以仁王(もちひとおう)が平家追討の令旨を発したのを機に立ち上がります。それが六年に及ぶ源平合戦(治承・寿永の乱)の始まりでした。
源平合戦に勝利することにより、頼朝は政治地盤を固めていた関東で鎌倉幕府を開きます。私が学生のころは「良い国(1192)作ろう鎌倉幕府」でしたが、現在では「良い箱(1185)作ろう鎌倉幕府」と語呂が変わっていますのでご注意を。
しかし、これでめでたしめでたしとは問屋が卸さなかったのです。頼朝は1199年の冬、落馬をきっかけに亡くなってしまいます。幕府を開いてからわずか十四年後のことでした。そして、頼朝の後を継いだ頼家、実朝は暗殺され、ここで河内源氏が頂点に立つ鎌倉幕府はあっけなく終わりとなります。あとは頼朝の妻・北条政子の実家の北条氏が中心となり、都から連れてきた藤原氏の子どもを将軍に据えた摂関政治になりました。
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公家と武士へ、宇多源氏
第59代宇多天皇から生まれた宇多源氏は、優秀な公家を五家も排出する一方、源扶義(みなもとのすけのり)から続く軍事貴族が誕生します。彼らは近江国蒲生郡佐々木庄(現在の滋賀県)に住んだことから、源から佐々木へと姓を変えました。
この佐々木氏は武家として非常に繁栄しており、源平合戦の前から常に頼朝側に立ち続け、鎌倉幕府成立後も重用され続けます。さらに分家として、六角氏や京極氏など戦国時代に至るまで活躍する家系が排出されました。特に京極氏から枝分かれした分家には、のちに山陰地方の戦国大名となった尼子氏がいます。
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