
公家としての源氏

天皇家から家臣へ降下したからといって、政治の場である朝廷から締め出されたわけではありません。もう皇子ではないとはいえ天皇の子であることに変りはなく、特に降下した一世代目の源氏は「一世源氏」と呼ばれ、特別な扱いをされていました。
嵯峨源氏の系譜と源融

前述の理由で誕生した嵯峨源氏ですが、ちょうどこのころ朝廷で一大勢力を誇っていたのが藤原冬嗣率いる藤原北家です。藤原冬嗣は810年の薬子の変(平城太上天皇の変)を当時東宮(次期天皇候補)だった嵯峨天皇の側近として戦い、その後は非常に厚い信頼を寄せられていました。その藤原北家と朝廷で肩を並べたのが、この嵯峨源氏一世代目です。降下した一世源氏の兄弟のうち、源常(みなもとのときわ)が右大臣に、任明天皇になってからは源信(みなもとのまこと)、源融(みなもとのとおる)が次々に左大臣に任命されました。
特に源融は百人一首の河原左大臣の名前で知られ、『源氏物語』の主役光源氏のモデルのうちの一人ともいわれています。また、源融の子孫は「嵯峨源氏融流」と呼ばれる源氏の流派となり、子孫は渡辺氏や松浦氏といった武家として繁栄していきました。
醍醐源氏と安和の乱
醍醐源氏は第60代醍醐天皇の皇子から始まる平安前期の公家でした。中でも第十皇子だった源高明と弟の源兼明は左大臣にまで上り詰めます。特に高明は頭がよく、北家の藤原師輔、中宮安子親子からの後ろ盾があり重用されていました。ただし、師輔親子が亡くなったあとの969年安和の変において流罪にされてしまいます。安和の変は、高明が謀反を企てていると密告されたことを発端にしますが、密告の内容や本当に高明が謀反に関わっていたのかは後世に伝わっておりません。このあたりはかなり怪しいですよね。陰謀のにおいがします。実際、高明が次の天皇の外戚になる可能性があり、藤原氏がそれを嫌がっていたという背景もありました。真実は時の中に埋もれてしまいましたが、想像力を掻き立てられる歴史ロマンの一ページです。高明本人は政争に破れますが、その子孫は平安末期まで公卿として活躍していました。
また、醍醐源氏には知る人ぞ知る雅楽の名手・源博雅(みなもとのひろまさ)がいます。琵琶に笛など雅楽を極めた博雅は『今昔物語』や『十訓抄』に逸話が残されているので、一度読んでみてはいかがでしょうか。
一番の大出世、村上源氏
続いては第62代村上天皇の御代に臣籍降下した村上源氏です。このあたりは平安中期といわれる年代で、村上天皇は関白を置かずに天皇自らが政治を主導する天皇親政を敷いたため、これを「天歴の治」と呼びました。
さて、村上源氏には致平親王、為平親王、具平(ともひら)親王を一世源氏とする三つの血脈があります。とはいえ、兄弟自身は賜姓されていません。臣籍降下をしたのは彼らの子どもたちからでした。その中でも特に栄えたのは具平親王の子・源師房(みなもとのもろふさ)です。師房の姉が時の権力者藤原道長の息子頼道の正室になり、師房は道長という巨大な後ろ盾を得ることになりました。師房と藤原家の結びつきは強く、村上源氏は他の源氏よりも多くの公卿を排出します。孫はなんと源氏初の太政大臣(現在の総理大臣)にまで上り詰めますしね。源氏の政治家の家系としては一番の大出世です。
武家としての源氏

ここからは武家の源氏を解説していくのですが、いかんせん、武勇伝というのは物語となって多くの書籍に残されています。これは源氏が公家よりも武家として印象深い要因のひとつでしょう。特に清和源氏は内容が濃いので、がんばってついてきてください。
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