平家物語をはじめ、鎌倉幕府の源頼朝で知られる源氏一族は武家として有名ですが、日本史にはそれ以外にも源氏を見かけることがあるでしょう?

今回は紙面だけでは見えない源氏の系譜を日本史に詳しいライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。当時はたくさんいてかなり混乱したという源氏について今回完結にまとめる。

 

武士だけじゃない源氏

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源氏といえばみなさんは誰を思い浮かべるでしょうか?私の場合は学生時代の研究対象だった源義経です。『平家物語』をはじめ『源平盛衰記』など源平合戦の中心人物ですから、義経を思い浮かべた人は多いと思います。さらに義経の兄の源頼朝は鎌倉幕府を成立させた将軍ですから、日本史の教科書には必ず載っている名前ですね。

頼朝、義経兄弟が非常に有名なことから、「源」の苗字は武家の苗字だと思われがちです。しかし、頼朝も義経も「清和源氏」と呼ばれる源氏の系譜のひとつで、他にも「嵯峨源氏」や「宇多源氏」など源氏姓の血脈は二十一も系統があり、源氏二十一流とも呼ばれています

では、「清和源氏」の頭につく「清和」というのは何でしょうか?教科書にはそのあたりまったく触れられていませんよね。同じ姓なのだから、みんな遠かれ近かれ血がつながった親戚だと考えてしまいます。しかし、この「清和」について調べていくと、確かに血はつながっているのですが、普通に考える親戚というにはかなり特殊なつながりだったのです。

源氏姓の始まりは天皇家にあり

源氏姓の始まりは平安前期にありました。第52代嵯峨天皇は大変な子沢山で、なんと五十人も子どもがいたとか。けれど、その五十人の子ども全員を親王にしておく経済力が当時の天皇家にはありません。というのも、平安前期の皇室の収入は租税であり、藤原摂関家や他の貴族と違って財源となる荘園を持っていませんでした。もちろん、人口も現代ほど多くはありません。租税のみで五十人の子どもたちを「親王」として支えることはできなかったのです。

そこで嵯峨天皇の皇子十七人を天皇家から臣籍に降し、皇女十五人を臣下に嫁がせることによって経済難をしのぐことにしました。そのとき子どもたちが賜ったのが「源」の姓です

解説!臣籍降下と賜姓皇族

皇族が姓を与えられて天皇家を離れ、臣籍に下ることを臣籍降下、また皇女が臣下へ嫁入りすることを降嫁といい、そのようにして姓を賜った彼らを賜姓(しせい)皇族と呼びました「源氏」の前につく「清和」は、清和天皇の皇子・皇女が降下して源氏姓を賜った、という意味です。嵯峨天皇から臣籍降下した皇子たちは「嵯峨源氏」となるわけですね。

余談ですが、降下時に賜る姓は「源」だけに限りません。源平合戦で対立する「平」姓もそのひとつでした。また、『伊勢物語』の在原業平や、『源氏物語』の光源氏が賜姓皇族にあたります

源氏は二十一流もある!?

嵯峨天皇、清和天皇の御代以外にも多くの皇子たちが臣籍降下で源氏姓を賜っています。年代の速い順から並べていくと、

嵯峨源氏、仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、陽成源氏、光孝源氏、宇多源氏醍醐源氏村上源氏、冷泉源氏、花山源氏、三条源氏、後三条源氏、後白河源氏、順徳源氏、後嵯峨源氏、後深草源氏、亀山源氏、後二条源氏、後醍醐源氏、正親町源氏

となりますが、中には降下した本人一代限りの源氏も含まれました。本記事ではラインを引いた五家について特に解説していきます。

\次のページで「公家としての源氏」を解説!/

公家としての源氏

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天皇家から家臣へ降下したからといって、政治の場である朝廷から締め出されたわけではありません。もう皇子ではないとはいえ天皇の子であることに変りはなく、特に降下した一世代目の源氏は「一世源氏」と呼ばれ、特別な扱いをされていました

嵯峨源氏の系譜と源融

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前述の理由で誕生した嵯峨源氏ですが、ちょうどこのころ朝廷で一大勢力を誇っていたのが藤原冬嗣率いる藤原北家です。藤原冬嗣は810年の薬子の変(平城太上天皇の変)を当時東宮(次期天皇候補)だった嵯峨天皇の側近として戦い、その後は非常に厚い信頼を寄せられていました。その藤原北家と朝廷で肩を並べたのが、この嵯峨源氏一世代目です。降下した一世源氏の兄弟のうち、源常(みなもとのときわ)が右大臣に、任明天皇になってからは源信(みなもとのまこと)、源融(みなもとのとおる)が次々に左大臣に任命されました。

特に源融は百人一首の河原左大臣の名前で知られ、『源氏物語』の主役光源氏のモデルのうちの一人ともいわれています。また、源融の子孫は「嵯峨源氏融流」と呼ばれる源氏の流派となり、子孫は渡辺氏や松浦氏といった武家として繁栄していきました

醍醐源氏と安和の乱

醍醐源氏は第60代醍醐天皇の皇子から始まる平安前期の公家でした。中でも第十皇子だった源高明と弟の源兼明は左大臣にまで上り詰めます。特に高明は頭がよく、北家の藤原師輔、中宮安子親子からの後ろ盾があり重用されていました。ただし、師輔親子が亡くなったあとの969年安和の変において流罪にされてしまいます。安和の変は、高明が謀反を企てていると密告されたことを発端にしますが、密告の内容や本当に高明が謀反に関わっていたのかは後世に伝わっておりません。このあたりはかなり怪しいですよね。陰謀のにおいがします。実際、高明が次の天皇の外戚になる可能性があり、藤原氏がそれを嫌がっていたという背景もありました。真実は時の中に埋もれてしまいましたが、想像力を掻き立てられる歴史ロマンの一ページです。高明本人は政争に破れますが、その子孫は平安末期まで公卿として活躍していました。

また、醍醐源氏には知る人ぞ知る雅楽の名手・源博雅(みなもとのひろまさ)がいます。琵琶に笛など雅楽を極めた博雅は『今昔物語』や『十訓抄』に逸話が残されているので、一度読んでみてはいかがでしょうか。

一番の大出世、村上源氏

続いては第62代村上天皇の御代に臣籍降下した村上源氏です。このあたりは平安中期といわれる年代で、村上天皇は関白を置かずに天皇自らが政治を主導する天皇親政を敷いたため、これを「天歴の治」と呼びました。

さて、村上源氏には致平親王、為平親王、具平(ともひら)親王を一世源氏とする三つの血脈があります。とはいえ、兄弟自身は賜姓されていません。臣籍降下をしたのは彼らの子どもたちからでした。その中でも特に栄えたのは具平親王の子・源師房(みなもとのもろふさ)です。師房の姉が時の権力者藤原道長の息子頼道の正室になり、師房は道長という巨大な後ろ盾を得ることになりました。師房と藤原家の結びつきは強く、村上源氏は他の源氏よりも多くの公卿を排出します。孫はなんと源氏初の太政大臣(現在の総理大臣)にまで上り詰めますしね。源氏の政治家の家系としては一番の大出世です。

武家としての源氏

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ここからは武家の源氏を解説していくのですが、いかんせん、武勇伝というのは物語となって多くの書籍に残されています。これは源氏が公家よりも武家として印象深い要因のひとつでしょう。特に清和源氏は内容が濃いので、がんばってついてきてください。

\次のページで「清和源氏、源満仲が武士団を作る」を解説!/

清和源氏、源満仲が武士団を作る

第56代清和天皇から四人の皇子と十二人の孫が臣籍降下して清和源氏が生まれました。中でも清和天皇のひ孫にあたる源満仲は武士団を形成し、これは後に続く武士階級の原型です。その武士団の拠点を摂津国川辺郡多田庄(現在の兵庫県川西市多田)に置いたことから「多田源氏」とも呼ばれます。

ここがちょっとややこしいところですね。すでに「清和源氏」という名称があるのに「多田源氏」まで増えて。この後さらに「摂津源氏」「河内源氏」「大和源氏」と盛りだくさんです。しかも代を下ると「源」の代わりに地名を苗字に名乗ることもあります(この場合はたいてい注釈が付きますが)。少し大雑把ですが、「天皇+源氏」がどの天皇の血筋かを表し、「地名+源氏」はどこに武士団の拠点を置いたかを表していると考えてください。

満仲の血筋は後に鎌倉幕府の頼朝や室町幕府の足利氏につながっていきました。さらに、江戸幕府の徳川家康は征夷大将軍になるためにこの清和源氏を仮冒したとされています。仮冒とはいえ、武士団制度もとっくに廃れた江戸時代まで続くのですから、清和源氏の名前はとんでもなく息が長いですね。

平安の守護者・源頼光

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パブリック・ドメイン, Link

源満仲は家督を嫡流である源頼光(みなもとのよりみつ)に譲りました。同じ多田に拠点を置きますが、頼光の子孫は摂津源氏と呼ばれことになります。

頼光は藤原摂関家に仕えて「朝家の守護」とまで呼ばれますが、彼は武勇伝の方が有名ですね。取分け、大江山の酒呑童子討伐、土蜘蛛退治がメジャーでしょうか。頼光に付き従った頼光四天王と呼ばれる四人の家臣には、嵯峨源氏・源融の子孫である渡辺綱や、「マサカリ担いだ金太郎」でおなじみの坂田金時など凄腕のメンバーが揃っています。妖怪退治の逸話から、頼光がいかに武人として強かったのかがうかがえますね。

頼光が土蜘蛛を切った刀「膝丸」は父・満仲が「髭切」という太刀と一緒に打たせたものであり、後に両刀とも源頼朝へと渡りました。現在、「膝丸」とされる刀は各所に存在しており、「髭切」は北野天満宮に保管されている「鬼切丸」と同一視されています。

河内源氏の勢力拡大

満仲の三男・源頼信は河内国(現在の大阪東部周辺)にて河内源氏を築きました。源氏の前に何もつけない場合、基本的に河内源氏を指すほど有力な武家へと成長していきます。

河内源氏と名前の通り、彼らの本拠地は関西でした。しかし、1028年に起こった平忠常の乱を治めた際、頼信は関東にも勢力を置いておくことにしたのです。そして、息子の義家の代に陸奥と出羽(ともに東北地方)の後三年の役を平定しますが、これは義家の私的な争いとみなされ、朝廷からはいっさいの賞与はありません。逆に戦っている間未納になっていた貢納の請求書が飛んできた上に、陸奥守の役職を解任されてしまいます。それで義家は関東の武士たちに自分の私財から恩賞を出したのですが、「朝廷を抜きにして、武士が大将から恩賞を賜る」という図式に注目してくださいこの場合、恩賞をもらった武士は誰に対して忠誠心を持つでしょうか?もちろん、身銭を切ってくれた義家ですね。この恩賞によって関東における源氏の株は非常に高くなります。義家が関東の武士たちをまとめたことにより「武家の棟梁」という地位が生まれたのです

河内源氏、不遇の時代に直面する

朝廷から戦費の支払いを拒絶されるなど、なかなか不遇な目にあった義家ですが、晩年に義家の次男が朝廷に反発したことを発端に一族内での抗争や、義家の死後に家督を継いだ源義忠の暗殺が起こり、次々と有力者を失った河内源氏に残ったのは、義家の孫の源為義でした。為義は白河法皇に近侍するなど一族の復興に努めますが、時代は徐々に源氏ではなく伊勢平氏へと傾いていきます

為朝は河内源氏の地位回復のために一生懸命奔走しました。けれど残念なことに、為義は1156年の保元の乱に敗れて処刑されてしまいます。このとき為義の息子・義朝は父の敵方について死罪にはなりません。しかし、天皇は清盛を重用するばかりか、源氏勢力を削り始めます。河内源氏の不遇にこの冷遇が重なり、さらに朝廷内の争いが加わった結果、とうとう1160年の平時の乱が起こってしまいました。数の優位を取った義朝でしたが、その油断を突いた清盛に負けてしまいます。ここで義朝は処刑されますが、息子の頼朝は伊豆へ流刑、義経は鞍馬寺に入ることを条件に助命されます

源平合戦と河内源氏の復権?

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By 伝狩野元信 - 『源平合戦図屏風』 赤間神宮所蔵, パブリック・ドメイン, Link

頼朝、義経兄弟の他、生き残った河内源氏の末裔たちは地方に息をひそめて平家打倒の時を待っていました。そうして、以仁王(もちひとおう)が平家追討の令旨を発したのを機に立ち上がります。それが六年に及ぶ源平合戦(治承・寿永の乱)の始まりでした

源平合戦に勝利することにより、頼朝は政治地盤を固めていた関東で鎌倉幕府を開きます。私が学生のころは「良い国(1192)作ろう鎌倉幕府」でしたが、現在では「良い箱(1185)作ろう鎌倉幕府」と語呂が変わっていますのでご注意を

しかし、これでめでたしめでたしとは問屋が卸さなかったのです。頼朝は1199年の冬、落馬をきっかけに亡くなってしまいます。幕府を開いてからわずか十四年後のことでした。そして、頼朝の後を継いだ頼家、実朝は暗殺され、ここで河内源氏が頂点に立つ鎌倉幕府はあっけなく終わりとなります。あとは頼朝の妻・北条政子の実家の北条氏が中心となり、都から連れてきた藤原氏の子どもを将軍に据えた摂関政治になりました

公家と武士へ、宇多源氏

第59代宇多天皇から生まれた宇多源氏は、優秀な公家を五家も排出する一方、源扶義(みなもとのすけのり)から続く軍事貴族が誕生します。彼らは近江国蒲生郡佐々木庄(現在の滋賀県)に住んだことから、源から佐々木へと姓を変えました。

この佐々木氏は武家として非常に繁栄しており、源平合戦の前から常に頼朝側に立ち続け、鎌倉幕府成立後も重用され続けます。さらに分家として、六角氏や京極氏など戦国時代に至るまで活躍する家系が排出されました。特に京極氏から枝分かれした分家には、のちに山陰地方の戦国大名となった尼子氏がいます

\次のページで「源氏姓ではない源氏の血脈」を解説!/

源氏姓ではない源氏の血脈

嵯峨源氏源融からは渡辺氏や蒲池氏、宇多源氏からは佐々木氏に京極氏など、「源」の名前を使っていない源氏の子孫が数々登場します。家系を調べていると、この一族も元はそうだったのかとびっくりすることが多々ありました。戦国大名だと尼子氏もそうですが、なんとあの武田信玄も源氏の血脈を受け継いだ武将です

天皇家の血が薄まり、源姓から改名していくことで源氏の痕跡が見えなくなっていきますが、源氏の血は脈々と受け継がれていますよ。

文武両面へと進出した源氏一族

政治と戦争、両面から天皇家に仕え、国の繁栄に力を注いできた源氏一族。天性のエリート筋であり、歴史上に多くの名前が残されています。特に清和源氏の頼朝は天皇の朝廷から政権を取り、武士の世を作ったキーパーソンで間違いありません

同じ「源」ですが、彼らは天皇家を本流とした親戚であり、またライバルになることもありました。様々な思惑の中、藤原家に負けず劣らず政治の鍵を握り続けた源氏たち。彼らの血の特殊性を紐解いていくと、思わずニヤリとしたくなる事実がたくさんでてきますよ。

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日本史歴史鎌倉時代

「源氏」といえば武士?多種多彩な源氏の人々を源平オタクが3分で簡単ようにわかりやすく解説!

平家物語をはじめ、鎌倉幕府の源頼朝で知られる源氏一族は武家として有名ですが、日本史にはそれ以外にも源氏を見かけることがあるでしょう?

今回は紙面だけでは見えない源氏の系譜を日本史に詳しいライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。当時はたくさんいてかなり混乱したという源氏について今回完結にまとめる。

 

武士だけじゃない源氏

image by PIXTA / 4786200

源氏といえばみなさんは誰を思い浮かべるでしょうか?私の場合は学生時代の研究対象だった源義経です。『平家物語』をはじめ『源平盛衰記』など源平合戦の中心人物ですから、義経を思い浮かべた人は多いと思います。さらに義経の兄の源頼朝は鎌倉幕府を成立させた将軍ですから、日本史の教科書には必ず載っている名前ですね。

頼朝、義経兄弟が非常に有名なことから、「源」の苗字は武家の苗字だと思われがちです。しかし、頼朝も義経も「清和源氏」と呼ばれる源氏の系譜のひとつで、他にも「嵯峨源氏」や「宇多源氏」など源氏姓の血脈は二十一も系統があり、源氏二十一流とも呼ばれています

では、「清和源氏」の頭につく「清和」というのは何でしょうか?教科書にはそのあたりまったく触れられていませんよね。同じ姓なのだから、みんな遠かれ近かれ血がつながった親戚だと考えてしまいます。しかし、この「清和」について調べていくと、確かに血はつながっているのですが、普通に考える親戚というにはかなり特殊なつながりだったのです。

源氏姓の始まりは天皇家にあり

源氏姓の始まりは平安前期にありました。第52代嵯峨天皇は大変な子沢山で、なんと五十人も子どもがいたとか。けれど、その五十人の子ども全員を親王にしておく経済力が当時の天皇家にはありません。というのも、平安前期の皇室の収入は租税であり、藤原摂関家や他の貴族と違って財源となる荘園を持っていませんでした。もちろん、人口も現代ほど多くはありません。租税のみで五十人の子どもたちを「親王」として支えることはできなかったのです。

そこで嵯峨天皇の皇子十七人を天皇家から臣籍に降し、皇女十五人を臣下に嫁がせることによって経済難をしのぐことにしました。そのとき子どもたちが賜ったのが「源」の姓です

解説!臣籍降下と賜姓皇族

皇族が姓を与えられて天皇家を離れ、臣籍に下ることを臣籍降下、また皇女が臣下へ嫁入りすることを降嫁といい、そのようにして姓を賜った彼らを賜姓(しせい)皇族と呼びました「源氏」の前につく「清和」は、清和天皇の皇子・皇女が降下して源氏姓を賜った、という意味です。嵯峨天皇から臣籍降下した皇子たちは「嵯峨源氏」となるわけですね。

余談ですが、降下時に賜る姓は「源」だけに限りません。源平合戦で対立する「平」姓もそのひとつでした。また、『伊勢物語』の在原業平や、『源氏物語』の光源氏が賜姓皇族にあたります

源氏は二十一流もある!?

嵯峨天皇、清和天皇の御代以外にも多くの皇子たちが臣籍降下で源氏姓を賜っています。年代の速い順から並べていくと、

嵯峨源氏、仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、陽成源氏、光孝源氏、宇多源氏醍醐源氏村上源氏、冷泉源氏、花山源氏、三条源氏、後三条源氏、後白河源氏、順徳源氏、後嵯峨源氏、後深草源氏、亀山源氏、後二条源氏、後醍醐源氏、正親町源氏

となりますが、中には降下した本人一代限りの源氏も含まれました。本記事ではラインを引いた五家について特に解説していきます。

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