今回は樋口一葉を取り上げるぞ。

5千円札でおなじみの「たけくらべ」の名作家ですが、若くして亡くなったんだっけな。

その辺のところを女性史が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。昔の学者や作家も大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、樋口一葉について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、樋口一葉は東京生まれ

樋口一葉(いちよう)は、明治5年(1872年)5月2日に東京府第二大区一小区内幸町の東京府庁構内(現在の東京都千代田区)の官舎だった長屋で誕生。父は東京府の下級役人の樋口則義と母は多喜の次女。きょうだいは、姉のふじ、長兄泉太郎、次兄虎之助と妹くに。

戸籍名は奈津(なつ)となっているが、本人は夏子と名乗ったそう。一葉はペンネーム。ここでは一葉で統一。

1-2、一葉の子供時代

一葉は、幼児のころから利発で物覚えが良い子だったそう。明治10年(1877年)、満4歳10か月で公立本郷小学校に入学、しかし少し幼少すぎたかほどなく退学、半年後に吉川富吉が始めた私立吉川学校に入学。

一葉の日記「塵之中」によると、子供のころは手毬や羽根つきなどの同じ年頃の子との遊びには興味がなく、読書がだいすきで草双紙の類いを読みふけったということ。9輯98巻106冊からなる大長編の曲亭馬琴作「南総里見八犬伝」を3日で読破した話は有名。

上野元黒門町の私立青海学校に転校して初めて和歌を習ったそう。明治16年(1883年)12月、一葉は高等科第四級を首席で卒業するも、母多喜が、女性に学業は不要だと強硬に反対したために上級に進まずに退学、一葉は死ぬ計(ばかり)悲しかりしかど、学校は止めに なりにけり」と日記に

尚、当時の小学校就学率は50%をはるかに下回っていたそう。

一葉の家の事情
樋口家は甲斐国山梨郡中萩原村重郎原(現:山梨県甲州市塩山)の長百姓の出身。一葉の祖父八左衛門は、学問を好み俳諧や狂歌、漢詩に親しんだ人物だったそう。父の則義も農業より学問を好んだが、多喜との結婚を反対されて駆け落ち同然で安政4年(1857年)に江戸に出、八左衛門の知り合いの蕃書調所勤めの真下晩菘(ばんすう)を頼り、蕃書調所の使用人に。

そして慶応3年(1867年)に同心株を買って幕府直参となったため、明治維新後には下級役人として士族の身分を得て東京府庁に勤めたのですが、明治9年(1876年)免職に。明治10年(1877年)には警視庁に雇われ、明治13年(1880年)には、職権で入手した情報をもとに闇金融や土地家屋の売買などの副業もしていたそう。

1-3、一葉、「萩の舎」に入門

image by PIXTA / 4600595

一葉は、上の学校には進めなかったものの、父則義は知人の和田重雄のもとで和歌を習わせたり、明治19年(1886年)には、父の旧幕時代の知人の医師遠田澄庵の紹介で、有名な中島歌子の歌塾「萩の舎(はぎのや)」に入門。ここは上流階級の令嬢も多く通っていて、下級役人の娘の一葉は、平民の伊東夏子、田中みの子と仲良くなって「平民三人組」と称したが、二月に行われる新春恒例の発会に、晴れ着姿の令嬢たちのなかで、一葉は親が借りた古着で出席してこの発会の歌会で一葉は最高点を取ったということ。

一葉は萩の舎の内弟子として明治23年(1890年)5月から翌年3月まで中島家に住みこんで助教を務めたが、家庭の事情と、一葉が女中替わりに使われて和歌の稽古ができなかったために長続きせず。しかし一葉を養女にして歌塾を継がせたいと思った歌子先生は、後になって一葉が数え23歳のときに呼び戻したが、内弟子ではなく月給2円で助教を務めることで合意。そして一葉が作家業が忙しくて通えなくなると、歌子は一葉に対する批判をもらしたが、一葉が重病だと弟子から報告されて、「それはしょうがないねぇ」で終わったということ。

1-4、田辺花圃(かほ)の回想

旧幕臣で元老院議員の令嬢の田辺花圃(本名龍子のちに評論家の三宅雪嶺と結婚)は「思い出の人々」という自伝の中で、初めて一葉と会ったときの話を紹介。

「萩の舎」の月例会で、花圃が友人と床の間の前で寿司の配膳を待つ間に「清風徐ろに吹来つて水波起らず」という赤壁の賦の一節を読み上げたところ、給仕をしていた猫背の女が「酒を挙げて客に属し、明月の詩を誦し窈窕の章を歌ふ」と口ずさんだので、「なんだ、生意気な女」と思ったら、それが一葉だったということ。中島歌子先生からは、一葉のことを特別に目をかけてあげてほしいと紹介されたそうで、一葉は女中と内弟子を兼ねた人という印象だったが、これが一葉15歳、花圃18歳のときで、のちに萩の舎の二才媛となったそう。

一葉は、入門当初は才気煥発だったが、周囲との格差から次第に内向的になり「ものつつみの君」と呼ばれるように。

\次のページで「2-1、兄と父の相次いだ死去で、窮乏生活突入」を解説!/

萩の舎とは
歌人の中島歌子が自宅で開いた歌塾のこと。歌子は豪商の娘で、父が水戸の藤田東湖らと交際があったことから、10歳から15歳まで水戸藩支藩の府中松平家の奥に仕え、18歳のときに慕っていた水戸藩士林忠左衛門と結婚、水戸の林家に嫁入り。しかし天狗党の乱に加担した罪で夫が自害し歌子も連座して2か月間投獄された後、歌を水戸の国学者林寰雄、次いで加藤千浪に師事し、明治に入って「萩の舎」を小石川の自宅で開いたということ。

歌子は兄弟子の伊東佑命を通して高崎正風と知り合い、実家が水戸藩、川越藩と付き合いがあったなどで、上流、中流家庭の多くの子女を門弟に抱えることができ、一葉が入門したころの弟子は1000人以上いたそうで、和歌の創作指導だけでなく基礎的な古典文学についてや、千蔭流の書道も教え、鍋島家、前田家など上流階級への出稽古もしていたそう。

2-1、兄と父の相次いだ死去で、窮乏生活突入

明治14年(1881年)、素行が悪く金銭問題などがあった次兄の虎之助が、分家して陶器絵付師に弟子入りするという形で勘当に。また、一葉の長兄の泉太郎は、明治18年(1885年)に明治法律学校(明治大学)に入学したが明治20年(1887年)に退学、その後父則義の知人の紹介で、大蔵省出納局に勤務したが、12月27日に肺結核で死去。

一葉が父を後見に樋口家の相続戸主に。明治22年(1889年)、警視庁を退職した父則義は、家屋敷を売った金をつぎ込んで、荷車請負業組合設立の事業に参画したが出資金をだましとられて失敗、負債を残して同年7月に死去。

一葉は17歳で樋口家を背負うことに。樋口家は勘当した次男の虎之助を頼ったものの、母多喜と兄虎之助の折り合いが悪かったそう。一葉は前述のように萩の舎の内弟子として中島家に住みこんだが、女中のように勝手仕事までさせられたため5か月で辞め、本郷菊坂(東京都文京区)に転居し、母と妹と3人で針仕事や洗い張り、下駄の蝉表(せみおもて。細い籐を編んだもので夏用の駒下駄の表に張る)作りなどの賃仕事をしたが、借金と縁が切れない苦しい生活に。

2-2、小説家へ

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パブリック・ドメイン, Link

「萩の舎」同門の姉弟子の田辺花圃が明治21年(1888年)小説「薮の鶯」を出版して33円という多額の原稿料を得たのを知った一葉は、小説を書いてお金を得ようと決意。

2-3、一葉、半井桃水と出会うが醜聞を恐れて絶交

明治24年(1891年)、一葉は数え年20歳で「かれ尾花」などを執筆。同年4月、妹のくにの知り合いの野々宮菊子の紹介で、東京朝日新聞専属作家の半井桃水(なからい とうすい)に師事し、指導を受けるように。

明治25年(1892年)3月に半井は同人誌「武蔵野」を創刊、一葉は「闇桜」を一葉の筆名で同誌創刊号に発表。半井は一葉を東京朝日新聞主筆の小宮山桂介に紹介、しかし一葉の小説は採用されず、新聞小説で原稿料を得ようとした一葉は落胆。
また一葉と半井の仲の醜聞が萩の舎で広まったため、中島歌子や伊東夏子に交際を反対され、6月22日、桃水と絶交。

その後、一葉は上野の東京図書館に通って独学し、田辺花圃の紹介で、これまでとは異なる幸田露伴風の理想主義的な小説「うもれ木」を雑誌「都之花」に発表。初めて原稿料11円50銭を受け取ったが、6円は借金の返済に。

2-4、一葉、吉原近くに転居し雑貨店を営む

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一葉は、三宅花圃の紹介で「文学界」創刊号に「雪の日」を発表。同人の平田禿木の訪問を受け親しく語り合う。その後筆が進まなくなった一葉は、生活苦打開のために明治26年(1893年)7月、吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開く。この時の経験が後に代表作となる小説「たけくらべ」の題材になったということ。

年末、「琴の音」を文学界に発表。翌年1月には近所に同業者が開業して商売が苦しくなり、相場師になろうと占い師の久佐賀義孝に接近、借金を申し込んだということ。明治27年(1894年)5月に店を閉め、本郷区丸山福山町(現在の文京区西片一丁目)に転居。萩の舎と交渉して月2円の助教料を得るように。

同年12月に「大つごもり」を「文学界」に発表。明治28年(1895年)には半井桃水に博文館の大橋乙羽を紹介されたが、博文館は明治20年創業「太陽」、「文芸倶楽部」などを発刊し、春陽堂と並んで出版界をリードする存在で、大橋乙羽は作家としての活動が博文館の館主大橋佐平に認められて、大橋の長女ときと結婚。大橋夫妻は一葉に活躍の場を与えて経済的にも支援、大橋ときは一葉に入門し和歌を学んだということ。

2-5、奇跡の14ヶ月

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By 水野年方 - http://www.kinokuniya.co.jp/03f/denhan/jkn/kindai.htm, パブリック・ドメイン, Link

乙羽は明治28年同年3月の一葉宛書簡で小説の寄稿を依頼。この年は1月から「たけくらべ」を7回にわたり発表、その合間に乙羽の依頼で「ゆく雲」を執筆、大橋ときの依頼で「経つくえ」を書き改めて「文芸倶楽部」に再掲載のほか、「にごりえ」「十三夜」などを発表。特に「大つごもり」から「裏紫」にかけての期間は、「奇跡の14ヶ月」と呼ばれているということ。

この4月から、樋口家には、馬場孤蝶や島崎藤村などの「文学界」同人、斎藤緑雨などの来客が毎日訪れて文学サロンのようになり、一葉は着るものにも困っていたのに来客を歓迎して、鰻や寿司を取り寄せてふるまったそう。

\次のページで「2-6、一葉、病に勝てず」を解説!/

2-6、一葉、病に勝てず

明治29年(1896年)「文芸倶楽部」に「たけくらべ」が一括掲載されると、森鴎外や幸田露伴は同人誌「めさまし草」で一葉を高く評価。5月には「文芸倶楽部」に「われから」を、「日用百科全書」に「通俗書簡文」を発表。一葉は当時治療法がなかった肺結核がかなり進行していて、8月に斎藤緑雨の依頼で自らも医者の森鴎外が、当代随一と言える樫村清徳、青山胤通らの医師に往診に向かわせたが、回復は絶望的との診断。

11月23日、丸山福山町の自宅で、24歳と6ヶ月で死去。

葬儀は11月25日に他人にきてもらうだけの式ができないという理由で、身内だけの十数人で築地本願寺で質素に行われたが、一葉の才を高く評価し早世を惜しんだ森鴎外は、「陸軍軍医総監・森林太郎」として正装、騎馬で棺に従う参列を打診したが、遺族に丁重に断られたということ。

一葉の作家生活は14ヶ月余り、死の翌年には「一葉全集」「校訂一葉全集」が刊行。

3-1、一葉の逸話

短い生涯ですが、日記が残っていることもあり、色々と逸話があります。

3-2、妹くにが一葉の資料の保存を

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By Sugitaro - 投稿者自身による作品, CC0, Link

明治31年(1898年)には一葉の母多喜も死去、一葉の妹くには、樋口家と親しかった西村釧ノ助(せんのすけ)の文具店礫川堂を譲り受け、出入りしていた吉江政次を婿として店を共同経営しながら、姉一葉の、日記は焼き捨てるようにとの遺言にそむいてまで、小説の草稿や反古、下書きにいたるまで一葉の書いたものは1枚も粗末にせずに守り通したということ。

近代作家の中でも一葉の伝記研究が進んだのは、資料の整理、保存に尽くした妹くにのおかげだそう。大正15年(1926年)に妹くには死去したが、くにの長男の樋口悦も一葉関係資料の整理、研究を行い、一葉の肉筆原稿や関係資料などの文学資料は日本近代文学館や山梨県立文学館に所蔵されているということ。

3-3、ペンネームの由来

「一葉」という筆名を考えたのは、半井桃水の指導を受けていた19歳頃だそう。一葉は、歌人としては夏子、小説家としては無姓で「一葉」、新聞小説の戯号は「浅香のぬま子」、「春日野しか子」と使い分けていたということ。発表作品も「樋口夏子」の本名系と「一葉」の雅号系に分類されるそう。「たけくらべ」の未定稿では「一葉」の署名に、別人の手で姓が書き加えられているということ。

尚、一葉の意味は、当時困窮していて、「お足(お金)が無い」ことと、一枚の葦の葉の舟に乗って中国へ渡り後に手足を失った達磨の逸話に引っ掛けたもの

\次のページで「3-4、一葉の日記」を解説!/

3-4、一葉の日記

一葉の日記は、明治24年(1891年)4月11日からの「若葉かげ」以降で40数冊あり、日記とは別に雑記も平行して書いているそう。日記の題名は「蓬生日記」「しのぶぐさ」「塵中日記」「塵之中」「水の上日記」などの、一葉の住居を意識したものが多く最初は王朝日記風だったのが、社会の動きや興味を引いた人物についてなどが詳細に書かれていて小説とは違う面白さが。

3-5、一葉の異性関係は

一葉は、13歳の頃初めて紹介された渋谷三郎という、父が世話になった真下晩菘の庶系の孫と後に婚約。この渋谷三郎は、自由民権運動の活動家、当時は東京専門学校(早稲田大学)の法科学生で高等文官試験をめざしていたのですが、一葉の父の死後、仲介者が婿入りを条件に法外な結納金を要求したことで、母多喜の怒りを買い、婚約解消に。その後、渋谷は高等文官試験に合格、新潟の裁判所司法官試補などを経て月俸50円の検事となった後、人を通じて一葉と復縁しようとして再び母の多喜を怒らせたそう。 一葉はこの人物に別に恋愛感情はなかったが、出世していくのをみて複雑な感情を持ったそう。

また、夏目漱石の妻鏡子の著書「漱石の思ひ出」には、一葉の父則義が東京府の官吏を務めていた時の上司が、漱石の父小兵衛直克であったということ。その縁で一葉と漱石の長兄大助(大一)の縁談が持ち上がったが、一葉の父が度々直克に借金を申し込むので、これをよく思わなかった直克が「上司と部下というだけで、これだけ何度も借金を申し込んでくるのに、親戚になったら何を要求されるかわかったものじゃない」と、破談にしたそう。

そして一葉の最初の日記「若葉かげ」には、師でもあった半井桃水との出会いから以後、恋の相手であった桃水について書かれていますが、残念ながら当時は今と違った価値観の時代なので、男女の醜聞になるという助言を入れて絶交に。
また、あまりの貧窮に耐えかねて、相場師になろうと占い師などいかがわしい感じの久佐賀義孝に接近、借金を申し込んだ一葉は妾になれと迫られて、きっぱり断った話も。

薄幸で若すぎる死、まるで小説のような一葉の惜しまれる生涯

樋口一葉は、家の事情で貧窮のなか家族のために働き、楽しむために歌を作ったりする才能を作家としてお金を稼ぐために使おうと決心。

しかしやはりお金を稼ぐためだけに、読者受けするがすぐに忘れ去られる軽い作品を書くことは出来ず、本物の文学を追求するために努力、文字通り人生最後の14か月をかけて次々と名作を書き上げて死去。キラ星のような名作は絶賛され、近代最初の女流職業作家、紫式部の再来の名をほしいままに。

でも、まだたったの24歳、もっと色々なことを経験して書きたかったこともあったのではないか、きれいな着物を着ておしゃれもしたかったのではと、100年後の今も残る評価の高い作品の数々、5000円札の肖像も名誉なことだが、せめてもう少し元気でいて名声と富をたっぷりと味合わせてあげたかったような気がします。

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日本史明治歴史

日本近代文学初の女性職業作家「樋口一葉」について歴女がとことんわかりやすく解説

今回は樋口一葉を取り上げるぞ。

5千円札でおなじみの「たけくらべ」の名作家ですが、若くして亡くなったんだっけな。

その辺のところを女性史が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。昔の学者や作家も大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、樋口一葉について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、樋口一葉は東京生まれ

樋口一葉(いちよう)は、明治5年(1872年)5月2日に東京府第二大区一小区内幸町の東京府庁構内(現在の東京都千代田区)の官舎だった長屋で誕生。父は東京府の下級役人の樋口則義と母は多喜の次女。きょうだいは、姉のふじ、長兄泉太郎、次兄虎之助と妹くに。

戸籍名は奈津(なつ)となっているが、本人は夏子と名乗ったそう。一葉はペンネーム。ここでは一葉で統一。

1-2、一葉の子供時代

一葉は、幼児のころから利発で物覚えが良い子だったそう。明治10年(1877年)、満4歳10か月で公立本郷小学校に入学、しかし少し幼少すぎたかほどなく退学、半年後に吉川富吉が始めた私立吉川学校に入学。

一葉の日記「塵之中」によると、子供のころは手毬や羽根つきなどの同じ年頃の子との遊びには興味がなく、読書がだいすきで草双紙の類いを読みふけったということ。9輯98巻106冊からなる大長編の曲亭馬琴作「南総里見八犬伝」を3日で読破した話は有名。

上野元黒門町の私立青海学校に転校して初めて和歌を習ったそう。明治16年(1883年)12月、一葉は高等科第四級を首席で卒業するも、母多喜が、女性に学業は不要だと強硬に反対したために上級に進まずに退学、一葉は死ぬ計(ばかり)悲しかりしかど、学校は止めに なりにけり」と日記に

尚、当時の小学校就学率は50%をはるかに下回っていたそう。

一葉の家の事情
樋口家は甲斐国山梨郡中萩原村重郎原(現:山梨県甲州市塩山)の長百姓の出身。一葉の祖父八左衛門は、学問を好み俳諧や狂歌、漢詩に親しんだ人物だったそう。父の則義も農業より学問を好んだが、多喜との結婚を反対されて駆け落ち同然で安政4年(1857年)に江戸に出、八左衛門の知り合いの蕃書調所勤めの真下晩菘(ばんすう)を頼り、蕃書調所の使用人に。

そして慶応3年(1867年)に同心株を買って幕府直参となったため、明治維新後には下級役人として士族の身分を得て東京府庁に勤めたのですが、明治9年(1876年)免職に。明治10年(1877年)には警視庁に雇われ、明治13年(1880年)には、職権で入手した情報をもとに闇金融や土地家屋の売買などの副業もしていたそう。

1-3、一葉、「萩の舎」に入門

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一葉は、上の学校には進めなかったものの、父則義は知人の和田重雄のもとで和歌を習わせたり、明治19年(1886年)には、父の旧幕時代の知人の医師遠田澄庵の紹介で、有名な中島歌子の歌塾「萩の舎(はぎのや)」に入門。ここは上流階級の令嬢も多く通っていて、下級役人の娘の一葉は、平民の伊東夏子、田中みの子と仲良くなって「平民三人組」と称したが、二月に行われる新春恒例の発会に、晴れ着姿の令嬢たちのなかで、一葉は親が借りた古着で出席してこの発会の歌会で一葉は最高点を取ったということ。

一葉は萩の舎の内弟子として明治23年(1890年)5月から翌年3月まで中島家に住みこんで助教を務めたが、家庭の事情と、一葉が女中替わりに使われて和歌の稽古ができなかったために長続きせず。しかし一葉を養女にして歌塾を継がせたいと思った歌子先生は、後になって一葉が数え23歳のときに呼び戻したが、内弟子ではなく月給2円で助教を務めることで合意。そして一葉が作家業が忙しくて通えなくなると、歌子は一葉に対する批判をもらしたが、一葉が重病だと弟子から報告されて、「それはしょうがないねぇ」で終わったということ。

1-4、田辺花圃(かほ)の回想

旧幕臣で元老院議員の令嬢の田辺花圃(本名龍子のちに評論家の三宅雪嶺と結婚)は「思い出の人々」という自伝の中で、初めて一葉と会ったときの話を紹介。

「萩の舎」の月例会で、花圃が友人と床の間の前で寿司の配膳を待つ間に「清風徐ろに吹来つて水波起らず」という赤壁の賦の一節を読み上げたところ、給仕をしていた猫背の女が「酒を挙げて客に属し、明月の詩を誦し窈窕の章を歌ふ」と口ずさんだので、「なんだ、生意気な女」と思ったら、それが一葉だったということ。中島歌子先生からは、一葉のことを特別に目をかけてあげてほしいと紹介されたそうで、一葉は女中と内弟子を兼ねた人という印象だったが、これが一葉15歳、花圃18歳のときで、のちに萩の舎の二才媛となったそう。

一葉は、入門当初は才気煥発だったが、周囲との格差から次第に内向的になり「ものつつみの君」と呼ばれるように。

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