今日は、中国史を勉強する上で避けては通れない『匈奴』について勉強していこう。

古代中国の時代から、常に政権を脅かしてきた北方の異民族、それが『匈奴』の印象でしょう。本当に『匈奴』とは恐るべき民族なのか?何故、彼らは中国と戦っていたのか?そして、彼らは最後は滅亡してしまったのか?

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は「匈奴」について、わかりやすくまとめた。

そもそも『匈奴』という漢字はどこから?

モンゴルの歴史
By Otto Ehrenfried Ehler (1855-1895) – Uploaded by: Immanuel Giel 8 July 2005 08:51 (UTC) - Otto F. Ehlers: Im Osten Asiens. Mit zahlreichen Illustrationen und zwei Karten. Dritte Auflage. Berlin: Allgemeiner Verein für Deutsche Litteratur, 1896, パブリック・ドメイン, Link

 『匈奴』とは、日本語では(きょうど)と読みます。しかし、その名・読みにも様々な逸話があるため、まずはそこから勉強していきましょう。

 1つ目は、『匈奴』という言葉は、彼らが自称(もしくは他民族からの他称)したといわれている言葉を、予想して当てはめた漢字であるという説。

 2つ目は、彼らの前身の民族(もしくは同時期にいた他民族)と言われている『葷粥』(くんいく)の古代音『ヒュエンツュク』から来ているという説.

 3つ目は、『匈』『奴』共に、中国では悪字といわれている、主に『騒乱』を意味する言葉という説。

 4つ目は、中国史書に登場する『匈奴河水』という川があるのですが、この川に彼らがよく現れたから彼らを『匈奴』と呼んだ、もしくは彼らがよく現れたから川を『匈奴河水』と呼んだという説。

 『匈奴』については、あまりにも古い時代であり、決定的な資料に欠けているため、現在も研究が続いています。

『匈奴』はどう読む?

 続いては、『匈奴』の読みについでです。

 日本語では(きょうど)という読みが一般的であり、現代の中国では(ション・ヌゥ)と発音されています。

 しかし、秦や前漢の時代では(ヒュン・ノ)(ヒュン・ナ)(ヒュン・ナグ)等であったのではないかと言われているのです。

 さらには、後世で現れる『フン帝国』を築いた『フン族』は、この匈奴の末裔ではないかとの説もあり、そこから(フン・ナ)と呼ばれていたという説もあります。

 『匈奴』は、モンゴル高原に住んでおり、漢民族とは言語も違ったのです。そのため、彼らの発音を漢民族はうまく発音出来なかったのではないのでしょうか。そのため、当時の呼び名として様々なものが残っているのだと思います。

『匈奴』の登場はいつの時代から?

image by iStockphoto

 『匈奴』が歴史の中に姿を現すのは、春愁戦国時代の後半頃からと言われています。

 中国の北方地方で遊牧生活を送っていた彼らは『秦』の時代に部族統一が行われました。

 実際に、あの有名な『万里の長城』が築かれたのは、北方民族への備えでした。つまり『匈奴』対策であったのです。『秦』の時代には、既に畏怖される存在であったのでしょう。

 史書からは『周王朝』の王についてや制度について書かれた『逸周書』(いつしゅうしょ)に匈奴の名が登場します。これに関しては執筆された年代がわからない事から、完全な論拠にはならないのですが、犬やラクダ、馬、白玉、良弓を貢献する民族という記述が確認出来るのです。

『秦王朝』との戦い

 『匈奴』が歴史の表舞台に登場した最初の戦争は、春愁戦国時代の中国統一の戦いでした。『匈奴』は『韓』『趙』『魏』『燕』『斉』の五国とともに『秦』と戦ったのですが、その結果は知っての通り『秦』の大勝利となり『秦王朝』が開かれることとなったのです。

 紀元前215年、秦の「始皇帝」は将軍である「蒙恬」(もうてん)に『匈奴』の討伐を命じました。そして黄河南の地域(オルドス地方)を占領、『匈奴』を追い出すことに成功したのです。『匈奴』は騎馬戦術を行います。『秦』にとってその戦ぶりは恐ろしく、もう二度と侵攻を許したくなかったのでしょう。そんな思いから『城』を建築、これは騎馬を用いての侵攻を防ぐ目的でした。これこそが現代にも残る『万里の長城』なのです。

 また、『匈奴』にとっても「蒙恬」は天敵でした。蒙恬が将軍職についている間は、中々侵攻がうまくいかず、時代の流れによる将軍交代を狙いました。結局『匈奴』が再び黄河を超え、河南の地域の侵攻に成功したのは、始皇帝及び蒙恬の死後だったのです。

 『匈奴』は秦との戦いで、一時勢力が弱まります。しかし『秦』が滅び、中国国内での内戦『楚漢戦争』の間に、東の国『東胡』と西の国『月氏』を征服し強大な『匈奴帝国』を作り上げたのです。

『前漢王朝』との戦い

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 紀元前200年、『漢』と『匈奴』との間で大規模な戦いが起きました。それは、力をつけ強大な勢力となっていた『匈奴』の侵攻に対し、漢は皇帝「劉邦」(りゅうほう)みずから兵を率い対峙した戦いです。

 漢軍にとって不慣れな北の地での戦いは、大雪は寒波に見舞われた酷いものでした。『匈奴』は漢軍に対し偽装の退却を行うと、『白登山』(はくとさん)に誘い込むことに成功します。

 『匈奴』は劉邦を7日間に渡り包囲しましたが、劉邦軍の軍師の策により劉邦には逃げ出されてしまうのです。しかし、これにより『漢王朝』と『匈奴帝国』の間で、毎年一定の贈り物を匈奴の王に贈るという、漢にとっては屈辱的な弱腰外交がスタートしました。

 紀元前129年、漢の皇帝「武帝」は匈奴に対して強攻策をとるようになり、将軍である「衛青」(えいせい)に、匈奴を圧倒されてしまいます。そうして、河南の地の奪還を許してしまうのです。

 これによって形成は逆転し、紀元前114年頃からは漢から『匈奴』に対して人質が要求されるまでになってしまいました。

\次のページで「『匈奴』内部での紛争、『東西分裂』」を解説!/

『匈奴』内部での紛争、『東西分裂』

 紀元前85年から紀元後10年の頃までは、『匈奴』内部で長く大きな内乱が頻発します。元々は、様々な民族と戦いの上で吸収していったのが『匈奴帝国』です。過去の辛い歴史から『匈奴』の王に対して不信が募り、それが連鎖的に爆発してしまったのでしょう。

 『匈奴』内部の紛争は、収まるどころか大きくなるばかり。ついにはその当時の王が5人も乱立する本格的な内乱時代に突入していったのです。

 この内乱を終結させたのは「呼韓邪」(こかんや)でした。しかし、その兄である「郅支」(しつし)が反発し、『匈奴』は東西に完全分裂してしまうのです。

 『匈奴』が東西分裂し、弱体化してしまった東匈奴の呼韓邪は、なんとか勢力を立て直そうと『漢』との関係修復に奔走します。呼韓邪は、入朝し漢と同盟を結び、漢もまだこれを喜んで受け入れたため、宮女の一人であった「王昭君」(おうしょうくん)を嫁がせたのです。

 一方、呼韓邪と対立した兄・西匈奴の郅支は、漢の軍勢にあっさり攻め滅ぼされてしまいました。

 こうして再び『匈奴』を統一した呼韓邪は、漢との関係の維持を第一とし、その子らもそれをしっかりと引き継いだため『漢』と『匈奴』との間に平和がもたらされたのです。

 余談ですが、「王昭君」とは中国四大美女の一人に数えられるほどの絶世の美女でした。そんな彼女を嫁がせるなど、漢にとっては匈奴との関係破綻を非常に遅れていたとは考えられないでしょうか。尚、この話には様々な逸話が盛り沢山です。

『新王朝』の成立と滅亡

 紀元前8年、漢では外戚(皇后の親族)の「王莽」(おうもう)が実質的な支配者となり、再び『匈奴』への強硬路線に変わっていきました。

 そして紀元後9年、王莽が帝位を簒奪、『漢』を滅ぼして『新王朝』が建国されたのです。

 王莽はさらに『匈奴』の弱体化を狙い、内乱を起こさせようとします。匈奴の権力者達を数名を呼び寄せ、彼らに勝手に王の称号を与えたというのです。これを聞いた当時の王は激怒し、『新』に殴り込みをかけると、多くの吏民を殺害してしまいました。これによって「呼韓邪」以来続いた中国との関係は完全に決裂するのでした。

 この中国と匈奴の関係は、西域諸国をも巻き込み、彼らは中国との関係を断ち、匈奴側につくこととなるのです。

『後漢王朝』との関係

 紀元後23年9月『新王朝』は、王莽のずさんな政治に不満を抱いていた反乱軍の長「劉玄」(りゅうげん)により、都の占領、王莽の殺害が起き、『新』は滅亡することとなりました。劉玄は『漢の復興』を目指していたため、再び国号を『漢』と定めます。

 この劉玄の台頭の裏には、『匈奴』の存在も少しは関わっていたのではないでしょうか。『新』は『匈奴』との関係悪化にともない、何度も彼らの襲撃を受けていました。こうして弱体化していったところを、劉玄が打ち取ったという説もあるのです。

 この頃の『匈奴』の王「呼都而尸道皋若鞮」(こつにしどうこうにゃくたい)は、こういった論拠から『後漢王朝』に対し、高慢な態度をとったといいます。

『匈奴』内部での紛争、『南北分裂』

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 紀元後46年頃から、匈奴国内で日照りとイナゴによる大飢饉が訪れ、民の3分の2が死亡するという大事件が起きます。匈奴はこの機に乗じて後漢が攻めてくる事を恐れ、死者を出し和睦を求めました。

 一見、これで収まったように見えたのですが、数名の権力者が離反、『南匈奴』を建国するのです。『南匈奴』は後漢と手を結び、もとの者たち『北匈奴』の王「蒲奴」(ぶぬ)を攻撃、王の権威は失墜し、多くの配下が『南匈奴』へと流れていきました。

『北匈奴』は滅亡へと突き進んでいく

 『北匈奴』はしばしば中国の辺境を荒らしては、後漢や南匈奴に討伐されていったので、次第に弱体化していきました。さらには飢饉や蝗害にも見舞われ、より多くの者が南匈奴へと離反を続けたのです。

 そうして、ついに後漢と『南匈奴』の間で大規模な『北匈奴』討伐のための軍が編成され、大勝を収めました。

 『北匈奴』の王の殺害報告は確認されていないようですが、この戦いを機に中華圏から『北匈奴』の姿は消えてしまったのです。

 実は、さらに後世18世紀以降かえあヨーロッパを圧倒したフン族が、この『北匈奴』の子孫ではないかという説が存在するのですが、今現在では決定的な見解は出ていません。

\次のページで「『南匈奴』の生き残りの戦法」を解説!/

『南匈奴』の生き残りの戦法

 後漢と手を結んだことにより、一時延命に成功した『南匈奴』ですが、もはや後漢に対しては服属していました。辺境の警備隊となっていたのです。しかし、次第に配下の統率が乱れはじめ、王の権威は弱まっていきました。

 特に『匈奴』のいなくなったモンゴル高原では、匈奴とよく見た騎馬遊牧民族の『鮮卑』(せんぴ)が台頭しており、中国の北方を脅かすまでになっていたのです。

 そうして時代はさらなる騒乱の時代『三国時代』に突入していきました。

 『南匈奴』内部で内紛が起き、その時の王「於夫羅」(おふら)は放逐されてしまいます。その時たどり着いた先が、時の権力者「曹操」(そうそう)だったそうです。

 以後、於夫羅は魏代・晋代において、王朝の庇護のもと、何とか存続することは出来たのですが、もはや力など何もありませんでした。

五胡十六国時代の『匈奴』

 この時代になるともはや『匈奴』は、一部族として扱われていました。むしろ異民族として、奴隷など人身売買されてしまうようになるのです。

 『三国時代』の終結と共に『晋王朝』が建国されるも、その平穏はわずか数十年で崩れ去りました。

 『八王の乱』といわれるその後300年も続いた動乱の時代には、『匈奴』はその軍事力を利用されてしまいます。『匈奴』の復興を目指した「劉淵」(りゅうえん)は、兵5万人を結集、304年『漢王』を自称して独立したのです。

 これがまさしく『五胡十六国時代』の幕開けとなりました。勢力は衰えたものの、やはりここにも『匈奴』が関わっていたのです。この漢は、319年に国号を趙と変えることとなります。

『北魏』以降の『匈奴』

 『北魏王朝』の時代に入ってからの『匈奴』は、初代皇帝である「道武帝」(どうぶてい)の『諸部解散』により、民族としては存在しなくなりました。

 しかし、匈奴内の有力者は『北魏王朝』内部で高官となり、これ以降の時代の名門貴族『劉氏』『独狐氏』となっていったのです。

 こうして『匈奴』は、民族としても、国家としても無くなり、中国に完全に飲み込まれていきました。

文化から見る『匈奴』

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最後に、『匈奴』の文化を学んでいきましょう。

言語:中国語ではなかったようですが、諸説あり、今現在でも定説はありません。

文字:匈奴は文字を操ることはありませんでした。これが彼らの研究が進まない一因でしょう。

衣服:動物の毛皮などを纏い、特徴としては『胡服』(ズボン)を履いていました。当時の漢民族は着物であり、馬に跨がれません。これこそ『匈奴』の全ての兵士が騎馬技術に優れていた一助でしょう。

婚姻:遊牧民の特徴として、夫に先立たれた妻はその兄弟、もしくは息子に嫁ぐことになります。

刑法:刑法は「法規は簡素で実行し易い」(簡単であるが、厳格)という言葉が残っているように、『死刑』『軋』『家財没収』の3つしかありません。小さい罪に対する刑である『軋』でも、馬車で骨を引き砕くや顔面を切るというのです。

農業:狩猟、採取が基本だと考えられていましたが、近年農耕も行っていたということがわかりました。

首長:匈奴の王のことを『単于』(ぜんう)といいます。今まで勉強してきた王の名の後には、この単于という言葉がつくのです。新しい単于を選出する時も、全体の集会によって決定されます。

政治:単于の下に6つの高官が存在し、それらは世襲であったため、3つの貴族も存在していました。

軍事:24人の『万騎』という集団長が、多い時は1万騎、少なくとも数千騎を率いていたのです。

祭り:1月には各集団長が集まり、小会議を開いて祭りを行います。5月には大会議を開き、先祖への感謝と天地、神霊を祭りました。そして秋には大集会を開き、人と家畜の数を調査、課税したのです。

\次のページで「『匈奴』は国家か?民族か?」を解説!/

『匈奴』は国家か?民族か?

中国史を学び、古代に遡るほど、必ず『匈奴』という言葉に行き当たります。

それは、中国を脅かした異民族、悪党、野盗、盗人など、悪いイメージのオンパレードなのではないでしょうか。

しかし、実際には言語、文化、法律、宗教、そして政治体制など、統一されたルールの下で統治された一国家と呼べるものでしょう。

『匈奴』という悪字を当てはめられたために、悪いイメージを植え付けられた人々でしたが、その文化を学ぶと、一国家であったという実感が沸いてきますね。

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【中国史】彼ら無くして中国史は語れない!「匈奴」を中国史マニアがわかりやすく解説

今日は、中国史を勉強する上で避けては通れない『匈奴』について勉強していこう。

古代中国の時代から、常に政権を脅かしてきた北方の異民族、それが『匈奴』の印象でしょう。本当に『匈奴』とは恐るべき民族なのか?何故、彼らは中国と戦っていたのか?そして、彼らは最後は滅亡してしまったのか?

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は「匈奴」について、わかりやすくまとめた。

そもそも『匈奴』という漢字はどこから?

モンゴルの歴史
By Otto Ehrenfried Ehler (1855-1895) – Uploaded by: Immanuel Giel 8 July 2005 08:51 (UTC) – Otto F. Ehlers: Im Osten Asiens. Mit zahlreichen Illustrationen und zwei Karten. Dritte Auflage. Berlin: Allgemeiner Verein für Deutsche Litteratur, 1896, パブリック・ドメイン, Link

 『匈奴』とは、日本語では(きょうど)と読みます。しかし、その名・読みにも様々な逸話があるため、まずはそこから勉強していきましょう。

 1つ目は、『匈奴』という言葉は、彼らが自称(もしくは他民族からの他称)したといわれている言葉を、予想して当てはめた漢字であるという説。

 2つ目は、彼らの前身の民族(もしくは同時期にいた他民族)と言われている『葷粥』(くんいく)の古代音『ヒュエンツュク』から来ているという説.

 3つ目は、『匈』『奴』共に、中国では悪字といわれている、主に『騒乱』を意味する言葉という説。

 4つ目は、中国史書に登場する『匈奴河水』という川があるのですが、この川に彼らがよく現れたから彼らを『匈奴』と呼んだ、もしくは彼らがよく現れたから川を『匈奴河水』と呼んだという説。

 『匈奴』については、あまりにも古い時代であり、決定的な資料に欠けているため、現在も研究が続いています。

『匈奴』はどう読む?

 続いては、『匈奴』の読みについでです。

 日本語では(きょうど)という読みが一般的であり、現代の中国では(ション・ヌゥ)と発音されています。

 しかし、秦や前漢の時代では(ヒュン・ノ)(ヒュン・ナ)(ヒュン・ナグ)等であったのではないかと言われているのです。

 さらには、後世で現れる『フン帝国』を築いた『フン族』は、この匈奴の末裔ではないかとの説もあり、そこから(フン・ナ)と呼ばれていたという説もあります。

 『匈奴』は、モンゴル高原に住んでおり、漢民族とは言語も違ったのです。そのため、彼らの発音を漢民族はうまく発音出来なかったのではないのでしょうか。そのため、当時の呼び名として様々なものが残っているのだと思います。

『匈奴』の登場はいつの時代から?

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 『匈奴』が歴史の中に姿を現すのは、春愁戦国時代の後半頃からと言われています。

 中国の北方地方で遊牧生活を送っていた彼らは『秦』の時代に部族統一が行われました。

 実際に、あの有名な『万里の長城』が築かれたのは、北方民族への備えでした。つまり『匈奴』対策であったのです。『秦』の時代には、既に畏怖される存在であったのでしょう。

 史書からは『周王朝』の王についてや制度について書かれた『逸周書』(いつしゅうしょ)に匈奴の名が登場します。これに関しては執筆された年代がわからない事から、完全な論拠にはならないのですが、犬やラクダ、馬、白玉、良弓を貢献する民族という記述が確認出来るのです。

『秦王朝』との戦い

 『匈奴』が歴史の表舞台に登場した最初の戦争は、春愁戦国時代の中国統一の戦いでした。『匈奴』は『韓』『趙』『魏』『燕』『斉』の五国とともに『秦』と戦ったのですが、その結果は知っての通り『秦』の大勝利となり『秦王朝』が開かれることとなったのです。

 紀元前215年、秦の「始皇帝」は将軍である「蒙恬」(もうてん)に『匈奴』の討伐を命じました。そして黄河南の地域(オルドス地方)を占領、『匈奴』を追い出すことに成功したのです。『匈奴』は騎馬戦術を行います。『秦』にとってその戦ぶりは恐ろしく、もう二度と侵攻を許したくなかったのでしょう。そんな思いから『城』を建築、これは騎馬を用いての侵攻を防ぐ目的でした。これこそが現代にも残る『万里の長城』なのです。

 また、『匈奴』にとっても「蒙恬」は天敵でした。蒙恬が将軍職についている間は、中々侵攻がうまくいかず、時代の流れによる将軍交代を狙いました。結局『匈奴』が再び黄河を超え、河南の地域の侵攻に成功したのは、始皇帝及び蒙恬の死後だったのです。

 『匈奴』は秦との戦いで、一時勢力が弱まります。しかし『秦』が滅び、中国国内での内戦『楚漢戦争』の間に、東の国『東胡』と西の国『月氏』を征服し強大な『匈奴帝国』を作り上げたのです。

『前漢王朝』との戦い

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 紀元前200年、『漢』と『匈奴』との間で大規模な戦いが起きました。それは、力をつけ強大な勢力となっていた『匈奴』の侵攻に対し、漢は皇帝「劉邦」(りゅうほう)みずから兵を率い対峙した戦いです。

 漢軍にとって不慣れな北の地での戦いは、大雪は寒波に見舞われた酷いものでした。『匈奴』は漢軍に対し偽装の退却を行うと、『白登山』(はくとさん)に誘い込むことに成功します。

 『匈奴』は劉邦を7日間に渡り包囲しましたが、劉邦軍の軍師の策により劉邦には逃げ出されてしまうのです。しかし、これにより『漢王朝』と『匈奴帝国』の間で、毎年一定の贈り物を匈奴の王に贈るという、漢にとっては屈辱的な弱腰外交がスタートしました。

 紀元前129年、漢の皇帝「武帝」は匈奴に対して強攻策をとるようになり、将軍である「衛青」(えいせい)に、匈奴を圧倒されてしまいます。そうして、河南の地の奪還を許してしまうのです。

 これによって形成は逆転し、紀元前114年頃からは漢から『匈奴』に対して人質が要求されるまでになってしまいました。

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