『春愁戦国時代』の終結、『儒教』はどうなった?
『春愁戦国時代』を経て、天下を統一したのは『秦』の「始皇帝」でした。そしてこの「始皇帝」は、法治主義を説く『法家』を採用したのです。
法の下での統治を行えば、二度と戦争にはならない、と思い至りました。しかし「始皇帝」のこの統治は厳格で残虐、さらには性急すぎたのです。
『法家』以外の思想活動の禁止を行い、『焚書坑儒』(ふんしょこうじゅ)というものを行います。これは『書物を燃やし、儒者を生き埋めにする』というものでした。
しかし、『秦王朝』に仕えていた儒者もいました。彼らの保存する書物は除かれた、とありますので『儒教』の書物が全て滅びることはありませんでした。その後の『楚漢戦争』の戦火も何とか逃れ、『経典』は『漢王朝』に伝えられました。
『儒教』は時代を経て、現代まで伝わっているのは、何故?
紀元前500年頃に生まれた『儒教』は、2500年以上経った現代も根強く残っています。ここまで勉強してきて「なるほど、良いことを言っているな」と思うのは、まさしく「孔子」の思想が現代まで残っている何よりの証拠でしょう。
しかし、何故ここまで根強く残ったのでしょうか?そこまで優れていたという意見もありますが、これは一言で説明が出来ます。
それは、殆どの『思想家』は、孔子の『儒教』の影響を受けている、です。
『秦』から『漢』に伝わった『儒教』は、その後も様々な人の手に渡り、共感を得て広がっていきました。それは、人々への『教育』といえるものでしょう。
いつ、どんな時代でも『儒教』の影響がある
『儒教』成立から2500年余り経ち、国が変わり指導者が変わり、時代が変わっても常に『儒教』についての論争がありました。
それは、賛美であったり批判であったり、同調であったりと様々な形がありましたが、こうして現代まで伝わったことは事実です。
特に近年では、孔子は国際的に著名な教育者と評価されてきており、2004年、中国国外の大学などと提携し、中国語や中国の文化の教育を目的とした公的機関を『孔子学院』と名付けています。
さらに2005年には、孔子の生誕を祝う祝典が国家行事として執り行われ、『儒教』は積極的に学校教育に取り入れられ始めました。
日本に伝わったのはいつ頃?
日本に『儒教』が伝わった記述があるのは、513年のことです。『百斉』(くだら)から、日本に伝えるために、とある儒家が来日したことがきっかけだと言われています。
しかし、『古事記』には、これよりも前に『論語』が伝わっていたという記述もあるため、正確な時期はわかっていません。
そのどちらであっても、日本に仏教が伝えられたのは538年だと考えられていますので、仏教よりも儒教の方が早く伝わったといえるでしょうね。
また、鎌倉時代から安土桃山時代にかけては、儒教から発展した一つである『朱子学』が広まり、京都や鎌倉などの寺院で、盛んに講義や研究がおこなわれました。
『江戸時代』での『儒教』
江戸時代になると『朱子学』は『官学』(政府が認めた学問)となり、初代将軍「徳川家康」の配下が教育政策を推し進めました。特に五代将軍「徳川綱吉」は『儒教』を最重要視していたようです。
この儒教から生まれた『朱子学』を江戸幕府が推し進めたのには、とある背景があります。
江戸幕府が開かれる前まで行われていた戦国時代では、『仏教』は弾圧されていたのです。しかし、乱世も収まりいざ統治しようとした時に、庶民を導く行動指針はありませんでした。
このままでは、いずれ再び謀反が起こり乱世に戻ってしまう、そう考えた幕府が目をつけたのが『朱子学』だったのです。
こちらの記事もおすすめ
犬公方「徳川綱吉」、最近再評価もされつつある徳川5代将軍を歴女がわかりやすく解説
\次のページで「日本の侍は『儒教』の影響を受けた?」を解説!/