今日は、日本史の授業で『朱子学』という名で勉強した『儒教』について勉強していこう。

『朱子学』とは『儒教』から派生したものであり、日本に伝わってきたものは、あくまで後発的なものだったんです。『儒教』は中国で生まれ、今日まで2500年以上も伝え続けられてきたんです。はたして、それはいつどのように生まれ、どのように伝わってきたのか。学問なのか?思想なのか?はたまた宗教なのか?そんな疑問にも答えていこう。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は「儒教」について、わかりやすくまとめた。

『儒教』とは?

 『儒教』(じゅきょう)に関しては、最近有名になった本があるように、聞いたことのある人も多いかと思います。しかし、それ故にしっかりと理解、納得出来ない!という人もいるのではないでしょうか。まずはそんな方に向けて『儒教』とは何かを一文で表してみましょう。

 『儒教』とは『思想』であったが『学問』となり、庶民の間では『宗教』として受け容れられている。

 完全な補完は出来ないのですが、こう覚えておくのが『儒教』理解への第一歩でしょう。

そもそも『思想』であった

Konfuzius.jpg
パブリック・ドメイン, Link

 そもそも『儒教』とは、中国の『春愁戦国時代』の国の一つである『魯』にいた「孔子」(こうし)という思想家が編み出したものです。

 『春愁戦国時代』は、500年も続いた中国史最古の大規模な戦争でした。もちろん様々な君主が現れ、様々な統治を行っていた時代です。

 それを見ていた「孔子」は、このままでは善くない、人々の思想が変わらなければこの乱世は終わらず、人々は苦しみ続けてしまう。そうして編み出したのが『儒教』でした。

 孔子は、編み出した『思想』を体系化、古代の有能な君子たちの政治を理想とし、身分制秩序の再編と仁道政治を掲げたのです。

 血で血を洗う乱世の中で、武力で支配しようとする君主を批判し、君主の人徳によって天下を治めるべきだと主張しました。

『儒教』の内容とは?

image by iStockphoto

 『儒教』の教えとは、『五常をもって五倫を守る』というものです。

 人は、『五常』という『仁・義・礼・智・信』からなる行動指針を守ることで、『五倫』という『父子・君臣・夫婦・長幼・朋友』のような関係の維持に努めなければならないといいました。こう見ると、今現在の一般的な倫理感の大本になっているような気がしますね。

 次は、行動指針といわれる『五常』について、具体的に勉強しましょう。

『五常』とは?

 『五常』とは、孔子が体系化した行動指針です。

 仁:人を愛し、思いやること。

 義:利益や欲望に囚われず、他人のために行動すること。

 礼:相手に対して、謙虚さを忘れず、敬意をもって接すること。

 智:幅広い知識、知恵を学び、偏見を持たず、善悪を判断すること。

 信:他人を欺かず、約束を守り、嘘をつかず、誠実であること。

 上記の5つを守れば、親子関係、君臣関係、夫婦関係、年齢の上下関係、友人関係など、全てがうまくいく、という教えでした。

\次のページで「『五常』のポイントは『仁』と『礼』」を解説!/

『五常』のポイントは『仁』と『礼』

 孔子が『五常』の中でも、特に大切にするようにしたのが『仁』と『礼』でした。

 心の持ちようとして『仁』(人を愛し、思いやること)を大切にし、それぞれの個人が仁を体現することにより、社会に秩序が保たれるとしています。

 それを実施するのが『礼』なのです。孔子は、人間は社会的な生物であると考え、人と相対するときには『礼』を実践することにより、家族間の秩序が保たれ、それがいずれ社会の秩序に繋がると考えました。

 社会の秩序が保たれることにより、さらには政治の秩序も保たれると考えたのです。

『儒教』を体現する人物が「孔子」

image by iStockphoto

 「孔子」は、まさに『儒教』の体現者でした。孔子は74歳まで生きたのですが、その晩年に残した言葉で有名なものがあります。

 十有五にして学を志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳したがう。七十にして、心の欲するところに従えども、のりをこえず。

 私は、15歳の時に聖人を志す学を求めた。30歳になった時、精神的、経済的に独立することが出来た。40歳で人生の迷いが無くなった。50歳で天命を与えられていたことに気付いた。60歳の時には何を知っても驚きも抵抗も無くなった。74歳となってからは、心の赴くままに行動しても、決して道徳的規範を外れることは無くなった。

 『儒教』においては、『聖人』というのが最高位であり、そこに至ることが最上の目標とされていました。まさに孔子は、74歳にして『聖人』となり、道徳的な極致に至っていたのです。

「孔子」が考えたのは『性善説』

 哲学や宗教などの教えを学ぶ上で、『性善説』と『性悪説』というものがあります。

 生来人は正しく、過ちとは俗世の汚れを受けたせいである、と考えるのが『性善説』であり、

 生来人は醜く、過ちとはそれを教育できなかったせいである、と考えるのが『性悪説』なのです。

 『儒教』がこの世の中で、最も価値あるものだとしたのが『天』でした。それは、物質的な天や、神格のことではありません。

 人間には、生来生まれ持った『本性』というものがあります。それを与えたのが『天』だと考えたため、人間の生来は善なるもの=天とは善なるものというのです。

 孔子が、50歳の時に感じた『天命』とは、まさしくこの事、自身の本来の姿を悟ったのでしょう。

当時の権力者は、『儒教』をどう受け入れていた?

19世紀末參與科舉考試的越南儒生.jpg
By 不明 - http://nguyentl.free.fr/html/cadre_sommaire_vn.htm, パブリック・ドメイン, Link

 孔子が『儒教』を編み出した時は、『魯』という国にいました。孔子は儒家となり『諸子百家』の一角を成していました。

 『諸子百家』とは、『春愁戦国時代』にいた学者や学派の総称でした。『諸子』は、「孔子」「老子」「荘子」「墨子」「孟子」「荀子」などの人物を差し、『百家』は、『儒家』『道家』『墨家』『名家』『法家』などの学派を指しました。

 当時の学者は、現代の企業でいうところの、コンサルタントのようなものですね。『儒教』を体現化した孔子はもちろん、時の君主への進言の機会もあったはずです。

 しかし、王は孔子を軽視します。時は乱世、そのような気持ちの持ちようでは、勝てない、と一蹴してしまったのですね。

 孔子は、この出来事で政治や国を諦めてしまい、各地で弟子をとるようになります。この弟子たちと孔子の語録が、『儒教』の教科書ともいえる『経典』にまとめられました。 

 孔子の弟子は延べ3000人を超えたといい、孔子の言う通り、人徳は人々を惹きつけたのです。

\次のページで「『春愁戦国時代』の終結、『儒教』はどうなった?」を解説!/

『春愁戦国時代』の終結、『儒教』はどうなった?

 『春愁戦国時代』を経て、天下を統一したのは『秦』の「始皇帝」でした。そしてこの「始皇帝」は、法治主義を説く『法家』を採用したのです。

 法の下での統治を行えば、二度と戦争にはならない、と思い至りました。しかし「始皇帝」のこの統治は厳格で残虐、さらには性急すぎたのです。

 『法家』以外の思想活動の禁止を行い、『焚書坑儒』(ふんしょこうじゅ)というものを行います。これは『書物を燃やし、儒者を生き埋めにする』というものでした。

 しかし、『秦王朝』に仕えていた儒者もいました。彼らの保存する書物は除かれた、とありますので『儒教』の書物が全て滅びることはありませんでした。その後の『楚漢戦争』の戦火も何とか逃れ、『経典』は『漢王朝』に伝えられました。

『儒教』は時代を経て、現代まで伝わっているのは、何故?

 紀元前500年頃に生まれた『儒教』は、2500年以上経った現代も根強く残っています。ここまで勉強してきて「なるほど、良いことを言っているな」と思うのは、まさしく「孔子」の思想が現代まで残っている何よりの証拠でしょう。

 しかし、何故ここまで根強く残ったのでしょうか?そこまで優れていたという意見もありますが、これは一言で説明が出来ます。

 それは、殆どの『思想家』は、孔子の『儒教』の影響を受けている、です。

 『秦』から『漢』に伝わった『儒教』は、その後も様々な人の手に渡り、共感を得て広がっていきました。それは、人々への『教育』といえるものでしょう。

いつ、どんな時代でも『儒教』の影響がある

 『儒教』成立から2500年余り経ち、国が変わり指導者が変わり、時代が変わっても常に『儒教』についての論争がありました。

 それは、賛美であったり批判であったり、同調であったりと様々な形がありましたが、こうして現代まで伝わったことは事実です。

 特に近年では、孔子は国際的に著名な教育者と評価されてきており、2004年、中国国外の大学などと提携し、中国語や中国の文化の教育を目的とした公的機関を『孔子学院』と名付けています。

 さらに2005年には、孔子の生誕を祝う祝典が国家行事として執り行われ、『儒教』は積極的に学校教育に取り入れられ始めました。

日本に伝わったのはいつ頃?

 日本に『儒教』が伝わった記述があるのは、513年のことです。『百斉』(くだら)から、日本に伝えるために、とある儒家が来日したことがきっかけだと言われています。

 しかし、『古事記』には、これよりも前に『論語』が伝わっていたという記述もあるため、正確な時期はわかっていません。

 そのどちらであっても、日本に仏教が伝えられたのは538年だと考えられていますので、仏教よりも儒教の方が早く伝わったといえるでしょうね。

 また、鎌倉時代から安土桃山時代にかけては、儒教から発展した一つである『朱子学』が広まり、京都や鎌倉などの寺院で、盛んに講義や研究がおこなわれました。

『江戸時代』での『儒教』

 江戸時代になると『朱子学』は『官学』(政府が認めた学問)となり、初代将軍「徳川家康」の配下が教育政策を推し進めました。特に五代将軍「徳川綱吉」は『儒教』を最重要視していたようです。

 この儒教から生まれた『朱子学』を江戸幕府が推し進めたのには、とある背景があります。

 江戸幕府が開かれる前まで行われていた戦国時代では、『仏教』は弾圧されていたのです。しかし、乱世も収まりいざ統治しようとした時に、庶民を導く行動指針はありませんでした。

 このままでは、いずれ再び謀反が起こり乱世に戻ってしまう、そう考えた幕府が目をつけたのが『朱子学』だったのです。

\次のページで「日本の侍は『儒教』の影響を受けた?」を解説!/

日本の侍は『儒教』の影響を受けた?

image by iStockphoto

 『儒教』の中で特に注目したいポイントが3つあります。

 1.親を敬うこと

 2.同族を重んじ、誰かが殺されれば、報復をすること

 3.上下を重んじ、最も重要な者は長男であるということ

 これを鑑みると、まさに日本の侍ではないでしょうか。親を重んじ、御上に仕え、主君の敵を討つことは美学とされていました。そして、後継者は常に長男です。

 元々、侍とは『侍らう者』(はべらうもの)という意味を持っていました。公家の護衛として、武芸を磨けば良かった時代から、江戸幕府としては、むしろ武芸は磨いてほしくなかった、そうして侍は高潔な思想を持つ者、に変えられていったという考えもあるでしょう。

 こうした思想が庶民に浸透したことによって、『忠臣蔵』の名で知られる『赤穂事件』が人気を集めたのではないでしょうか。まさに、同族を重んじ復讐を果たす、です。

あなたはどう思う?『儒教』を学んだからには考えてみよう

ここまで『儒教』を学んできました。

『儒教』とは、『思想』であり『学問』であり、ある種『宗教』であると勉強しましたね。

教えを理解した今は、私たち一人一人が、改めて自身の行動を振り返る良い機会かと思います。

周りの人にどんな態度、姿勢で相対していたか、改めて考えてみましょう。

そういった意味では『儒教とは、各個人の行動指針となる思想である』と言えるでしょうね。

" /> 【中国史】学問?思想?宗教?『儒教』とは一体何?中国史マニアがわかりやすく解説 – ページ 2 – Study-Z
世界史中国史歴史

【中国史】学問?思想?宗教?『儒教』とは一体何?中国史マニアがわかりやすく解説

『五常』のポイントは『仁』と『礼』

 孔子が『五常』の中でも、特に大切にするようにしたのが『仁』と『礼』でした。

 心の持ちようとして『仁』(人を愛し、思いやること)を大切にし、それぞれの個人が仁を体現することにより、社会に秩序が保たれるとしています。

 それを実施するのが『礼』なのです。孔子は、人間は社会的な生物であると考え、人と相対するときには『礼』を実践することにより、家族間の秩序が保たれ、それがいずれ社会の秩序に繋がると考えました。

 社会の秩序が保たれることにより、さらには政治の秩序も保たれると考えたのです。

『儒教』を体現する人物が「孔子」

image by iStockphoto

 「孔子」は、まさに『儒教』の体現者でした。孔子は74歳まで生きたのですが、その晩年に残した言葉で有名なものがあります。

 十有五にして学を志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳したがう。七十にして、心の欲するところに従えども、のりをこえず。

 私は、15歳の時に聖人を志す学を求めた。30歳になった時、精神的、経済的に独立することが出来た。40歳で人生の迷いが無くなった。50歳で天命を与えられていたことに気付いた。60歳の時には何を知っても驚きも抵抗も無くなった。74歳となってからは、心の赴くままに行動しても、決して道徳的規範を外れることは無くなった。

 『儒教』においては、『聖人』というのが最高位であり、そこに至ることが最上の目標とされていました。まさに孔子は、74歳にして『聖人』となり、道徳的な極致に至っていたのです。

「孔子」が考えたのは『性善説』

 哲学や宗教などの教えを学ぶ上で、『性善説』と『性悪説』というものがあります。

 生来人は正しく、過ちとは俗世の汚れを受けたせいである、と考えるのが『性善説』であり、

 生来人は醜く、過ちとはそれを教育できなかったせいである、と考えるのが『性悪説』なのです。

 『儒教』がこの世の中で、最も価値あるものだとしたのが『天』でした。それは、物質的な天や、神格のことではありません。

 人間には、生来生まれ持った『本性』というものがあります。それを与えたのが『天』だと考えたため、人間の生来は善なるもの=天とは善なるものというのです。

 孔子が、50歳の時に感じた『天命』とは、まさしくこの事、自身の本来の姿を悟ったのでしょう。

当時の権力者は、『儒教』をどう受け入れていた?

19世紀末參與科舉考試的越南儒生.jpg
By 不明http://nguyentl.free.fr/html/cadre_sommaire_vn.htm, パブリック・ドメイン, Link

 孔子が『儒教』を編み出した時は、『魯』という国にいました。孔子は儒家となり『諸子百家』の一角を成していました。

 『諸子百家』とは、『春愁戦国時代』にいた学者や学派の総称でした。『諸子』は、「孔子」「老子」「荘子」「墨子」「孟子」「荀子」などの人物を差し、『百家』は、『儒家』『道家』『墨家』『名家』『法家』などの学派を指しました。

 当時の学者は、現代の企業でいうところの、コンサルタントのようなものですね。『儒教』を体現化した孔子はもちろん、時の君主への進言の機会もあったはずです。

 しかし、王は孔子を軽視します。時は乱世、そのような気持ちの持ちようでは、勝てない、と一蹴してしまったのですね。

 孔子は、この出来事で政治や国を諦めてしまい、各地で弟子をとるようになります。この弟子たちと孔子の語録が、『儒教』の教科書ともいえる『経典』にまとめられました。 

 孔子の弟子は延べ3000人を超えたといい、孔子の言う通り、人徳は人々を惹きつけたのです。

\次のページで「『春愁戦国時代』の終結、『儒教』はどうなった?」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: