『五常』のポイントは『仁』と『礼』
孔子が『五常』の中でも、特に大切にするようにしたのが『仁』と『礼』でした。
心の持ちようとして『仁』(人を愛し、思いやること)を大切にし、それぞれの個人が仁を体現することにより、社会に秩序が保たれるとしています。
それを実施するのが『礼』なのです。孔子は、人間は社会的な生物であると考え、人と相対するときには『礼』を実践することにより、家族間の秩序が保たれ、それがいずれ社会の秩序に繋がると考えました。
社会の秩序が保たれることにより、さらには政治の秩序も保たれると考えたのです。
『儒教』を体現する人物が「孔子」
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「孔子」は、まさに『儒教』の体現者でした。孔子は74歳まで生きたのですが、その晩年に残した言葉で有名なものがあります。
十有五にして学を志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳したがう。七十にして、心の欲するところに従えども、のりをこえず。
私は、15歳の時に聖人を志す学を求めた。30歳になった時、精神的、経済的に独立することが出来た。40歳で人生の迷いが無くなった。50歳で天命を与えられていたことに気付いた。60歳の時には何を知っても驚きも抵抗も無くなった。74歳となってからは、心の赴くままに行動しても、決して道徳的規範を外れることは無くなった。
『儒教』においては、『聖人』というのが最高位であり、そこに至ることが最上の目標とされていました。まさに孔子は、74歳にして『聖人』となり、道徳的な極致に至っていたのです。
「孔子」が考えたのは『性善説』
哲学や宗教などの教えを学ぶ上で、『性善説』と『性悪説』というものがあります。
生来人は正しく、過ちとは俗世の汚れを受けたせいである、と考えるのが『性善説』であり、
生来人は醜く、過ちとはそれを教育できなかったせいである、と考えるのが『性悪説』なのです。
『儒教』がこの世の中で、最も価値あるものだとしたのが『天』でした。それは、物質的な天や、神格のことではありません。
人間には、生来生まれ持った『本性』というものがあります。それを与えたのが『天』だと考えたため、人間の生来は善なるもの=天とは善なるものというのです。
孔子が、50歳の時に感じた『天命』とは、まさしくこの事、自身の本来の姿を悟ったのでしょう。
当時の権力者は、『儒教』をどう受け入れていた?
By 不明 – http://nguyentl.free.fr/html/cadre_sommaire_vn.htm, パブリック・ドメイン, Link
孔子が『儒教』を編み出した時は、『魯』という国にいました。孔子は儒家となり『諸子百家』の一角を成していました。
『諸子百家』とは、『春愁戦国時代』にいた学者や学派の総称でした。『諸子』は、「孔子」「老子」「荘子」「墨子」「孟子」「荀子」などの人物を差し、『百家』は、『儒家』『道家』『墨家』『名家』『法家』などの学派を指しました。
当時の学者は、現代の企業でいうところの、コンサルタントのようなものですね。『儒教』を体現化した孔子はもちろん、時の君主への進言の機会もあったはずです。
しかし、王は孔子を軽視します。時は乱世、そのような気持ちの持ちようでは、勝てない、と一蹴してしまったのですね。
孔子は、この出来事で政治や国を諦めてしまい、各地で弟子をとるようになります。この弟子たちと孔子の語録が、『儒教』の教科書ともいえる『経典』にまとめられました。
孔子の弟子は延べ3000人を超えたといい、孔子の言う通り、人徳は人々を惹きつけたのです。
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