漱石の由来
漱石の名は、唐代の「晋書」にある故事の「漱石枕流」(石に漱(くちすすぎ)流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えという意味。それまでは「漱石」は、子規の数多いペンネームのうちの一つで、漱石は子規から譲り受けたということ。
1-6、漱石、帝国大学に入学、家族との死別で神経衰弱の兆候も
1890年(明治23年)、23歳で創設間もない帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学。しかし明治20年(1887年)の3月に長兄、6月に次兄が、さらに明治24年(1891年)には3兄の妻登世と、次々に近親者を亡くしたこともあって、この頃から厭世主義、神経衰弱に陥り始めたそう。漱石は兄嫁の登世に恋心を抱いていたという説もあり、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちを詠んだ句を何十首も作ったということ。
大学では特待生に選ばれて、J・M・ディクソン教授の依頼で「方丈記」の英訳を担当。明治25年(1892年)、漱石は兵役逃れのために分家、貸費生のため北海道に籍を移し、5月頃から東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして学費稼ぎ開始。
2-1、漱石、教師となるが悩み多く松山に
明治初期の帝国大学は、かなり高額の報酬でお雇い外国人教師を雇っていたので、漱石の世代の最初の学生たちは卒業してすぐに留学させて帰国したらお雇い外国人に取って代わるようにと目論まれていたのですが、漱石も明治26年(1893年)、帝国大学を卒業し、高等師範学校(中等学校の教員育成機関)の英語教師に。
しかし日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え、翌年発病する肺結核もあって、極度の神経衰弱、強迫観念にかられるように。鎌倉の円覚寺での参禅でも効果得られず、明治28年(1895年)、高等師範学校を辞職、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任。
松山は子規の故郷で子規と再会し2か月ほど静養。子規とともに俳句に精進、数々の佳作を残したそう。漱石は松山中学赴任中、愚陀仏庵に下宿したが、52日間も子規が居候、俳句結社「松風会」で句会を開いたりと、のちの漱石の文学に多大な影響を。
2-2、漱石、熊本に赴任、結婚
明治29年(1896年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任。そして親族の勧めで貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と結婚するも、3年目に鏡子は慣れない環境と流産でヒステリー激しく、白川井川淵に投身を図るなど、波乱含みの夫婦生活に。しかし漱石は俳壇で活躍して名声を上げたそう。
明治31年(1898年)寺田寅彦ら五高の学生たちが、漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興して、俳句の指導を。同社は多くの俳人を輩出して、九州、熊本の俳壇に影響を与えたということ。
2-3、漱石、英国留学で神経衰弱が悪化
明治33年(1900年)5月、文部省より英語教育法研究のため、イギリス留学。9月10日に日本を出発したが、官給の学費には問題があり、大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講をやめて、「永日小品」にも登場するシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグの個人教授を受け、また「文学論」の研究に。
この頃、欧米では黄禍論などの人種差別主義的傾向が流行っていたため、漱石は英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱になり下宿を転々と変えたりしたが、ロンドンでの滞在中、ロンドン塔を訪れた際、随筆「倫敦塔」を執筆。
漱石は、明治34年(1901年)、化学者の池田菊苗(うま味調味料の発見者)と2か月間同居して新たな刺激を受け、下宿に一人籠って研究に没頭したのですが、今まで付き合いのあった留学生との交流が疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送ったりと、下宿屋の女主人が心配するほどの「猛烈の神経衰弱」に陥ったということ。
明治35年(1902年)9月に芳賀矢一らが訪れた際、「帰国を早めさせれば、多少気が晴れるだろうから文部省の当局に話そうか」という話が出たせいか、「夏目発狂」の噂が文部省内に流れ、漱石は急遽帰国を命じられて12月5日にロンドンを出発。帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医の斎藤紀一がたまたま同乗していたので、精神科医の同乗を知った漱石の親族は心配したそう。
2-4、漱石、一高の講師に
By Frederick Gutekunst – http://www.lib.u-toyama.ac.jp/chuo/hearnlib.html, パブリック・ドメイン, Link
漱石は、明治36年(1903年)1月20日、英国留学から帰国、同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任して、4月に第一高等学校と東京帝国大学の講師に就任、当時の一高校長は親友の狩野亨吉。
東京帝大では小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任だったが、学生に大人気だった八雲留任運動が起こり、また漱石の分析的な硬い講義も不評。そして漱石の当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がいて、やる気のなさを漱石が叱責した数日後に華厳滝に入水自殺したなどで、漱石はまたまた神経衰弱になり、妻とも約2か月別居に。
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