今回は夏目漱石を取り上げるぞ。

お札になったし、吾輩は猫であるとかで有名ですが、英文学者だったのが作家になったんだってな。

その辺のところを昔の学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。昔の学者や作家も大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、夏目漱石について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、夏目漱石は江戸の生まれ

夏目漱石(なつめそうせき)は慶応3年1月5日(1867年2月9日)、江戸の牛込馬場下で誕生。父は名主の夏目小兵衛直克、母は千枝の5男で末っ子。きょうだいは年の離れた兄3人、4男と姉は夭折、他に異母姉が2人。

父直克は江戸の牛込から高田馬場一帯を治めた公務も取り扱う名主、民事訴訟も玄関先で裁くほどの権力を持ち、生活も豊かだったが、母は41歳の高齢出産で「面目ない」と言ったということで、望まれない「恥かきっ子」だったよう。

漱石は生まれた日が庚申の日で、この日生まれた子は大泥棒になるという迷信のために厄除けの意味で金之助と名付けられたそう。俳号は愚陀仏、漱石はペンネーム。ここでは漱石で統一。

1-2、漱石の複雑な家庭環境

漱石の祖父直基は道楽者で浪費家だった人で死ぬ時も酒で頓死したと噂あり、夏目家の財産を一代で傾かせたが、父直克の努力で、相当の財産を得て回復したということ。

が、明治初期の江戸は混乱期でもあったせいか、漱石は生後すぐに四谷の古道具屋、または八百屋に里子に出されたが、夜中まで品物の隣で籠に入れられて寝ているのを見た姉が不憫に思って実家へ連れ戻した話は有名。

しかし明治元年(1868年)11月には、今度は塩原昌之助の養子に。塩原は実父直克の書生同様だった人で、実父が同じ奉公人のやすと結婚させて新宿の名主の株を買ってひとり立ちさせたということ。が、養父塩原の女性問題発覚などで家庭不和になり、7歳の時に養母と一緒に一時生家に戻ったそう。

こういう事情で、漱石は子供ながら実の両親を祖父母と思い込んでいたということ。そして養父母の離婚で9歳のとき生家に戻るが、実父と養父が対立し、漱石は21歳まで夏目家への復籍が出来なかったそう。養父とは、漱石が作家となってからも金の無心をされるなど亡くなるまで関係が続いたということ。養父母との関係は、後の自伝的小説「道草」にも登場。

1-3、漱石、学校も転々として迷走

明治7年(1874年)、漱石は浅草寿町戸田学校下等小学第8級に入学後、市ヶ谷学校を経て錦華小学校へと小学校を転校。錦華小学校への転校は、東京府第一中学への入学が目的であったということ。

12歳で東京府第一中学正則科(府立一中、現在の都立日比谷高校)に入学。しかし、大学予備門(のちの第一高等学校)受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科だったことと、漢学、文学を志したので2年ほどで中退。漱石は中退した後も長兄に咎められるのを嫌って一中に通うふりをしていたそう。

明治14年(1881年)、漢学私塾二松學舍(現在の二松學舍大学)に入学。この頃に実母千枝が亡くなったショックと長兄が文学の道に進むのを反対したため、1年で中退。漱石の長兄大助は病気で大学南校を中退して警視庁で翻訳係をしていた人で、出来のよい末弟の漱石を見込んで、大学を出て立身出世をさせようとしていたということ。

1-4、漱石、エリート校の大学予備門に入学

漱石は2年後、英語を学ぶために神田駿河台の英学塾「成立学舎」に入学して実力をあらわし、明治17年(1884年)大学予備門予科に入学。大学予備門受験当日、隣席の友人に答えを教えてもらったが、その友人は不合格に。

大学予備門時代の下宿仲間には、後に満鉄総裁の中村是公がいたなど、この学校は将来帝国大学に進み、政府の役人や、大学で後進の指導にあたる人物の育成を目指すエリート校。

予備門時代の漱石は「成立学舎」の出身者らを中心に、中村是公、太田達人、佐藤友熊、橋本左五郎、中川小十郎らと「十人会」を組織したということ。明治19年(1886年)、大学予備門は第一高等中学校に改称。その年、漱石は虫垂炎で進級試験が受けられず、是公とともに落第。そして江東義塾などの私立学校で教師をするなどで自活。以後、学業に励み、ほとんどの教科で首席、特に英語に優れていたということ。

1-5、漱石、正岡子規に出会う

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By 不明 - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, Link

明治22年(1889年)、漱石は同窓生で文学的にも人間的にも影響を受けた俳人正岡子規と出会う。きっかけは、子規が手がけた漢詩や俳句などの文集「七草集」が学友の間で回覧され、漱石が批評を巻末に漢文で書いたことからで、本格的な友情に発展。この時に初めて漱石という号を使ったそう。

同年9月、漱石は、房総半島の旅行を漢文で書いた「木屑録」の批評を子規に求めたりと、交流が深まったが、漱石の優れた漢文、漢詩に子規は驚いたということ。以後、子規との友情は漱石がイギリス留学中、明治35年(1902年)に子規が亡くなるまで続いたそう

\次のページで「1-6、漱石、帝国大学に入学、家族との死別で神経衰弱の兆候も」を解説!/

漱石の由来
漱石の名は、唐代の「晋書」にある故事の「漱石枕流」(石に漱(くちすすぎ)流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えという意味。それまでは「漱石」は、子規の数多いペンネームのうちの一つで、漱石は子規から譲り受けたということ。

1-6、漱石、帝国大学に入学、家族との死別で神経衰弱の兆候も

1890年(明治23年)、23歳で創設間もない帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学。しかし明治20年(1887年)の3月に長兄、6月に次兄が、さらに明治24年(1891年)には3兄の妻登世と、次々に近親者を亡くしたこともあって、この頃から厭世主義、神経衰弱に陥り始めたそう。漱石は兄嫁の登世に恋心を抱いていたという説もあり、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちを詠んだ句を何十首も作ったということ。

大学では特待生に選ばれて、J・M・ディクソン教授の依頼で「方丈記」の英訳を担当。明治25年(1892年)、漱石は兵役逃れのために分家、貸費生のため北海道に籍を移し、5月頃から東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして学費稼ぎ開始。

2-1、漱石、教師となるが悩み多く松山に

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明治初期の帝国大学は、かなり高額の報酬でお雇い外国人教師を雇っていたので、漱石の世代の最初の学生たちは卒業してすぐに留学させて帰国したらお雇い外国人に取って代わるようにと目論まれていたのですが、漱石も明治26年(1893年)、帝国大学を卒業し、高等師範学校(中等学校の教員育成機関)の英語教師に。

しかし日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え、翌年発病する肺結核もあって、極度の神経衰弱、強迫観念にかられるように。鎌倉の円覚寺での参禅でも効果得られず、明治28年(1895年)、高等師範学校を辞職、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任。

松山は子規の故郷で子規と再会し2か月ほど静養。子規とともに俳句に精進、数々の佳作を残したそう。漱石は松山中学赴任中、愚陀仏庵に下宿したが、52日間も子規が居候、俳句結社「松風会」で句会を開いたりと、のちの漱石の文学に多大な影響を。

2-2、漱石、熊本に赴任、結婚

明治29年(1896年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任。そして親族の勧めで貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と結婚するも、3年目に鏡子は慣れない環境と流産でヒステリー激しく、白川井川淵に投身を図るなど、波乱含みの夫婦生活に。しかし漱石は俳壇で活躍して名声を上げたそう。
明治31年(1898年)寺田寅彦ら五高の学生たちが、漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興して、俳句の指導を。同社は多くの俳人を輩出して、九州、熊本の俳壇に影響を与えたということ。

2-3、漱石、英国留学で神経衰弱が悪化

明治33年(1900年)5月、文部省より英語教育法研究のため、イギリス留学。9月10日に日本を出発したが、官給の学費には問題があり、大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講をやめて、「永日小品」にも登場するシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグの個人教授を受け、また「文学論」の研究に。

この頃、欧米では黄禍論などの人種差別主義的傾向が流行っていたため、漱石は英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱になり下宿を転々と変えたりしたが、ロンドンでの滞在中、ロンドン塔を訪れた際、随筆「倫敦塔」を執筆。

漱石は、明治34年(1901年)、化学者の池田菊苗(うま味調味料の発見者)と2か月間同居して新たな刺激を受け、下宿に一人籠って研究に没頭したのですが、今まで付き合いのあった留学生との交流が疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送ったりと、下宿屋の女主人が心配するほどの「猛烈の神経衰弱」に陥ったということ。

明治35年(1902年)9月に芳賀矢一らが訪れた際、「帰国を早めさせれば、多少気が晴れるだろうから文部省の当局に話そうか」という話が出たせいか、「夏目発狂」の噂が文部省内に流れ、漱石は急遽帰国を命じられて12月5日にロンドンを出発。帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医の斎藤紀一がたまたま同乗していたので、精神科医の同乗を知った漱石の親族は心配したそう。

2-4、漱石、一高の講師に

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By Frederick Gutekunst - http://www.lib.u-toyama.ac.jp/chuo/hearnlib.html, パブリック・ドメイン, Link

漱石は、明治36年(1903年)1月20日、英国留学から帰国、同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任して、4月に第一高等学校と東京帝国大学の講師に就任、当時の一高校長は親友の狩野亨吉。

東京帝大では小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任だったが、学生に大人気だった八雲留任運動が起こり、また漱石の分析的な硬い講義も不評。そして漱石の当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がいて、やる気のなさを漱石が叱責した数日後に華厳滝に入水自殺したなどで、漱石はまたまた神経衰弱になり、妻とも約2か月別居に。

\次のページで「3-1、漱石、小説家に転身」を解説!/

3-1、漱石、小説家に転身

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明治36年(1903年)の暮れに、子規を通して友人となった高浜虚子に小説を書いてみないかと言われて、処女作「吾輩は猫である」を執筆。子規門下の会「山会」で発表されて好評を博し、明治38年(1905年)1月、「ホトトギス」に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆。漱石は作家として生きていくことを熱望し始め、その後、「倫敦塔」「坊つちやん」と次々と作品を発表、人気作家に。

漱石の作品は世俗を忘れて人生をゆったり眺めようとする、漱石の言うところの低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流の自然主義とは違って、余裕派と呼ばれたそう。

3-2、漱石、朝日新聞社に入社し作家に専念

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By 小川一真 - http://www.jiten.com/index.php?itemid=3598, パブリック・ドメイン, Link

明治36年(1906年)、漱石の家には、小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めたのが、のちの「木曜会」の起こり。

明治40年(1907年)2月、漱石は一切の教職を辞職、当時、京都帝国大学文科大学初代学長、現在の文学部長だった親友の狩野亨吉による英文科教授への誘いも断り、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社。本格的に職業作家に。

同年6月、職業作家としての初めての作品「虞美人草」の連載開始。しかしやはり神経衰弱や胃病に苦しめられるが、明治41年(1908年)3月23日に平塚明子(後のらいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下生森田草平の後始末に奔走したりしたそう。1909年(明治42年)、親友で満州鉄道総裁の中村是公の招きで満州、朝鮮を旅行し、「朝日新聞」に「満韓ところどころ」として旅行記が連載に。

木曜会
夏目漱石宅で、漱石を慕う教え子や若手文学者が集まり色々な議論をした会合のことで、毎週木曜日に開かれたそう。 その顔ぶれは、内田百間、野上弥生子らの小説家や、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成、和辻哲郎などの学者、後の新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄らも学生時代から参加し、友人の高浜虚子も出席したということ。

一般的に漱石門下とされるが、阿部次郎は「厳密に言えば漱石の弟子は一人もいない。弟子というのは毎週木曜日に定期的に漱石の門をたたいた者のこと」と回顧し、会長や幹事などを備えた組織でもなく、基本的に来客と面会する場で、漱石も自由な雰囲気で議論するように心がけて何を言われても言わせておくという態度で、フランスのサロンのようなものだったということ。

大正5年(1916年)12月9日に漱石が亡くなった後は、命日の毎月9日に開かれる9日会に変更され、第1回の9日会は大正6年(1917年)1月9日に夏目家で開催され、1937年4月9日まで続いたそう。

3-3、修善寺の大患事件で心境の変化あるも、病気に勝てず

明治43年(1910年)6月、漱石は、「三四郎」「それから」に続く前期三部作の3作目の「門」を執筆途中、胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。8月に療養のため伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養したが、大吐血を起こし、生死の間をさまようほどの危篤状態に陥ったということ。

晩年の漱石はこの修善寺の大患を経て心境的な変化に至ったといわれ、この時の一時的な「死」の体験がその後の作品に影響を与えたそう。漱石自身も「思い出すことなど」で、この時のことに触れていて、最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたのも、この修善寺の大患の心境を表したものではということ。「硝子戸の中」では、本音に近い真情の吐露も。同年10月、容態が落ち着いたので長与病院に再入院し、その後も胃潰瘍などの病気に苦しめられ、大正元年(1912年)9月に痔の再手術をし、12月、「行人」も病気のために執筆中止に。大正2年(1913年)には神経衰弱と胃潰瘍で6月頃まで悩まされ翌年9月には、4度目の胃潰瘍にかかったせいか、作品は人間のエゴイズムを追い求めるようになって後期3部作「彼岸過迄」「行人」「こゝろ」へと繋がったそう。大正4年(1915年)3月に京都へ旅行して5度目の胃潰瘍で倒れたが、6月には「吾輩は猫である」執筆当時の環境を回顧して「道草」の連載を開始したということ。

大正5年(1916年)には糖尿病にも悩まされ、12月9日に体内出血を起こして「明暗」執筆途中自宅にて49歳で死去。

昭和59年(1984年)から平成16年(2004年)まで、日本銀行券D千円券に漱石の肖像が採用。

4-1、漱石の逸話

漱石は鬱鬱とするあまり、家族に暴力をふるったこともあるということですが、病気について研究されているとか海外にもファンが多いなどの逸話も。

\次のページで「4-2、漱石と持病」を解説!/

4-2、漱石と持病

漱石は、歳を重ねるごとに病気がちとなり、肺結核、トラホーム、神経衰弱、痔、糖尿病、命取りとなった胃潰瘍まで、病気のデパートのように。「硝子戸の中」は直接自身の病気に言及していたが、「吾輩は猫である」の苦沙弥先生は胃弱で、「明暗」が痔の診察の場面で始まるなど、小説にも自身の病気を下敷きにした描写があるのは有名。「秋風やひびの入りたる胃の袋」など、病気を題材にした句も多数。また、漱石は天然痘のあばたが残っていることで自分の容姿に劣等感を抱いていたが、当時は写真家が修正を加えることが多く、残っている写真にはあばたの跡がないということ。

漱石が、神経衰弱やうつ病、あるいは統合失調症を患っていたことが、当時のエリート層で最上級のインテリの漱石の生涯と作品にいかに影響を及ぼしているのかが現在では精神医学者の研究対象となっており、実際に漱石が主題のいくつか学術論文が発表されたほど。

4-3、漱石の作品は海外でも翻訳

漱石の欧米での知名度はそれほど高くはないが、主要な作品のいくつかが英訳されて一定の評価を得ているということ。

また中国、台湾、韓国ではよく知られていて、多くの作品が中国語や韓国語に翻訳されているそう。中国語圏では周作人に紹介されて以来、多くのファンに愛され、韓国でも昔から漱石作品が親しまれていたが、1990年代以降特に人気が高く、「漱石ブーム」と言われるほどだということ。

漱石のイギリス留学当時の最後の下宿の反対側に、昭和59年(1984年)に恒松郁生による「ロンドン漱石記念館」が設立。漱石の下宿、出会った人々、読んだ書籍などを展示して一般公開されたが、2016年9月末に閉館。しかし漱石ファンからの強い要望で、2019年5月8日にロンドン南郊のサリー州にある恒松宅の一部を改装して再開されたそうです。

4-4、漱石の子孫

漱石は妻の鏡子との間に2男5女(一人夭折)がいましたが、子供たち孫たちも、作家、音楽家、エッセイスト、クリエイターなどを輩出しています。

エリート教授の道から小説家に転身して明治の文豪に

夏目漱石は、混乱した明治初期の時代の影響か、また自身が複雑な生い立ちで、ごく当たり前の両親の愛情を受けなかったためか、子供の頃から進路や色々なことがあるたびに鬱鬱として悩みぬいた人でした。

当時としては先進的に英文学研究を志し、エリートコースでイギリス留学もしたのに悩みは一層深まり、最後は小説を書くことで才能を開花し、木曜会のサロンでは後進にも影響を与え、数々の漱石の作品は時代を超えてファンを魅了し歴史に名を残しています。

しかし存命中、教師としてあの小泉八雲と較べられて自信を無くしたり、その後も色々なストレスで胃潰瘍やうつ病に悩まされた漱石はいかにも気の毒、100年後の人気や影響を見せれば気が晴れるだろうかと考えたりもするこの頃です。

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大正日本史明治歴史

日本近代文学を代表する文豪「夏目漱石」について歴女がわかりやすく解説

今回は夏目漱石を取り上げるぞ。

お札になったし、吾輩は猫であるとかで有名ですが、英文学者だったのが作家になったんだってな。

その辺のところを昔の学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。昔の学者や作家も大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、夏目漱石について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、夏目漱石は江戸の生まれ

夏目漱石(なつめそうせき)は慶応3年1月5日(1867年2月9日)、江戸の牛込馬場下で誕生。父は名主の夏目小兵衛直克、母は千枝の5男で末っ子。きょうだいは年の離れた兄3人、4男と姉は夭折、他に異母姉が2人。

父直克は江戸の牛込から高田馬場一帯を治めた公務も取り扱う名主、民事訴訟も玄関先で裁くほどの権力を持ち、生活も豊かだったが、母は41歳の高齢出産で「面目ない」と言ったということで、望まれない「恥かきっ子」だったよう。

漱石は生まれた日が庚申の日で、この日生まれた子は大泥棒になるという迷信のために厄除けの意味で金之助と名付けられたそう。俳号は愚陀仏、漱石はペンネーム。ここでは漱石で統一。

1-2、漱石の複雑な家庭環境

漱石の祖父直基は道楽者で浪費家だった人で死ぬ時も酒で頓死したと噂あり、夏目家の財産を一代で傾かせたが、父直克の努力で、相当の財産を得て回復したということ。

が、明治初期の江戸は混乱期でもあったせいか、漱石は生後すぐに四谷の古道具屋、または八百屋に里子に出されたが、夜中まで品物の隣で籠に入れられて寝ているのを見た姉が不憫に思って実家へ連れ戻した話は有名。

しかし明治元年(1868年)11月には、今度は塩原昌之助の養子に。塩原は実父直克の書生同様だった人で、実父が同じ奉公人のやすと結婚させて新宿の名主の株を買ってひとり立ちさせたということ。が、養父塩原の女性問題発覚などで家庭不和になり、7歳の時に養母と一緒に一時生家に戻ったそう。

こういう事情で、漱石は子供ながら実の両親を祖父母と思い込んでいたということ。そして養父母の離婚で9歳のとき生家に戻るが、実父と養父が対立し、漱石は21歳まで夏目家への復籍が出来なかったそう。養父とは、漱石が作家となってからも金の無心をされるなど亡くなるまで関係が続いたということ。養父母との関係は、後の自伝的小説「道草」にも登場。

1-3、漱石、学校も転々として迷走

明治7年(1874年)、漱石は浅草寿町戸田学校下等小学第8級に入学後、市ヶ谷学校を経て錦華小学校へと小学校を転校。錦華小学校への転校は、東京府第一中学への入学が目的であったということ。

12歳で東京府第一中学正則科(府立一中、現在の都立日比谷高校)に入学。しかし、大学予備門(のちの第一高等学校)受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科だったことと、漢学、文学を志したので2年ほどで中退。漱石は中退した後も長兄に咎められるのを嫌って一中に通うふりをしていたそう。

明治14年(1881年)、漢学私塾二松學舍(現在の二松學舍大学)に入学。この頃に実母千枝が亡くなったショックと長兄が文学の道に進むのを反対したため、1年で中退。漱石の長兄大助は病気で大学南校を中退して警視庁で翻訳係をしていた人で、出来のよい末弟の漱石を見込んで、大学を出て立身出世をさせようとしていたということ。

1-4、漱石、エリート校の大学予備門に入学

漱石は2年後、英語を学ぶために神田駿河台の英学塾「成立学舎」に入学して実力をあらわし、明治17年(1884年)大学予備門予科に入学。大学予備門受験当日、隣席の友人に答えを教えてもらったが、その友人は不合格に。

大学予備門時代の下宿仲間には、後に満鉄総裁の中村是公がいたなど、この学校は将来帝国大学に進み、政府の役人や、大学で後進の指導にあたる人物の育成を目指すエリート校。

予備門時代の漱石は「成立学舎」の出身者らを中心に、中村是公、太田達人、佐藤友熊、橋本左五郎、中川小十郎らと「十人会」を組織したということ。明治19年(1886年)、大学予備門は第一高等中学校に改称。その年、漱石は虫垂炎で進級試験が受けられず、是公とともに落第。そして江東義塾などの私立学校で教師をするなどで自活。以後、学業に励み、ほとんどの教科で首席、特に英語に優れていたということ。

1-5、漱石、正岡子規に出会う

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By 不明 – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, Link

明治22年(1889年)、漱石は同窓生で文学的にも人間的にも影響を受けた俳人正岡子規と出会う。きっかけは、子規が手がけた漢詩や俳句などの文集「七草集」が学友の間で回覧され、漱石が批評を巻末に漢文で書いたことからで、本格的な友情に発展。この時に初めて漱石という号を使ったそう。

同年9月、漱石は、房総半島の旅行を漢文で書いた「木屑録」の批評を子規に求めたりと、交流が深まったが、漱石の優れた漢文、漢詩に子規は驚いたということ。以後、子規との友情は漱石がイギリス留学中、明治35年(1902年)に子規が亡くなるまで続いたそう

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