お札になったし、吾輩は猫であるとかで有名ですが、英文学者だったのが作家になったんだってな。
その辺のところを昔の学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、夏目漱石は江戸の生まれ
- 1-2、漱石の複雑な家庭環境
- 1-3、漱石、学校も転々として迷走
- 1-4、漱石、エリート校の大学予備門に入学
- 1-5、漱石、正岡子規に出会う
- 1-6、漱石、帝国大学に入学、家族との死別で神経衰弱の兆候も
- 2-1、漱石、教師となるが悩み多く松山に
- 2-2、漱石、熊本に赴任、結婚
- 2-3、漱石、英国留学で神経衰弱が悪化
- 2-4、漱石、一高の講師に
- 3-1、漱石、小説家に転身
- 3-2、漱石、朝日新聞社に入社し作家に専念
- 3-3、修善寺の大患事件で心境の変化あるも、病気に勝てず
- 4-1、漱石の逸話
- 4-2、漱石と持病
- 4-3、漱石の作品は海外でも翻訳
- 4-4、漱石の子孫
- エリート教授の道から小説家に転身して明治の文豪に
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。昔の学者や作家も大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、夏目漱石について、5分でわかるようにまとめた。
1-1、夏目漱石は江戸の生まれ
夏目漱石(なつめそうせき)は慶応3年1月5日(1867年2月9日)、江戸の牛込馬場下で誕生。父は名主の夏目小兵衛直克、母は千枝の5男で末っ子。きょうだいは年の離れた兄3人、4男と姉は夭折、他に異母姉が2人。
父直克は江戸の牛込から高田馬場一帯を治めた公務も取り扱う名主、民事訴訟も玄関先で裁くほどの権力を持ち、生活も豊かだったが、母は41歳の高齢出産で「面目ない」と言ったということで、望まれない「恥かきっ子」だったよう。
漱石は生まれた日が庚申の日で、この日生まれた子は大泥棒になるという迷信のために厄除けの意味で金之助と名付けられたそう。俳号は愚陀仏、漱石はペンネーム。ここでは漱石で統一。
1-2、漱石の複雑な家庭環境
漱石の祖父直基は道楽者で浪費家だった人で死ぬ時も酒で頓死したと噂あり、夏目家の財産を一代で傾かせたが、父直克の努力で、相当の財産を得て回復したということ。
が、明治初期の江戸は混乱期でもあったせいか、漱石は生後すぐに四谷の古道具屋、または八百屋に里子に出されたが、夜中まで品物の隣で籠に入れられて寝ているのを見た姉が不憫に思って実家へ連れ戻した話は有名。
しかし明治元年(1868年)11月には、今度は塩原昌之助の養子に。塩原は実父直克の書生同様だった人で、実父が同じ奉公人のやすと結婚させて新宿の名主の株を買ってひとり立ちさせたということ。が、養父塩原の女性問題発覚などで家庭不和になり、7歳の時に養母と一緒に一時生家に戻ったそう。
こういう事情で、漱石は子供ながら実の両親を祖父母と思い込んでいたということ。そして養父母の離婚で9歳のとき生家に戻るが、実父と養父が対立し、漱石は21歳まで夏目家への復籍が出来なかったそう。養父とは、漱石が作家となってからも金の無心をされるなど亡くなるまで関係が続いたということ。養父母との関係は、後の自伝的小説「道草」にも登場。
1-3、漱石、学校も転々として迷走
明治7年(1874年)、漱石は浅草寿町戸田学校下等小学第8級に入学後、市ヶ谷学校を経て錦華小学校へと小学校を転校。錦華小学校への転校は、東京府第一中学への入学が目的であったということ。
12歳で東京府第一中学正則科(府立一中、現在の都立日比谷高校)に入学。しかし、大学予備門(のちの第一高等学校)受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科だったことと、漢学、文学を志したので2年ほどで中退。漱石は中退した後も長兄に咎められるのを嫌って一中に通うふりをしていたそう。
明治14年(1881年)、漢学私塾二松學舍(現在の二松學舍大学)に入学。この頃に実母千枝が亡くなったショックと長兄が文学の道に進むのを反対したため、1年で中退。漱石の長兄大助は病気で大学南校を中退して警視庁で翻訳係をしていた人で、出来のよい末弟の漱石を見込んで、大学を出て立身出世をさせようとしていたということ。
1-4、漱石、エリート校の大学予備門に入学
漱石は2年後、英語を学ぶために神田駿河台の英学塾「成立学舎」に入学して実力をあらわし、明治17年(1884年)大学予備門予科に入学。大学予備門受験当日、隣席の友人に答えを教えてもらったが、その友人は不合格に。
大学予備門時代の下宿仲間には、後に満鉄総裁の中村是公がいたなど、この学校は将来帝国大学に進み、政府の役人や、大学で後進の指導にあたる人物の育成を目指すエリート校。
予備門時代の漱石は「成立学舎」の出身者らを中心に、中村是公、太田達人、佐藤友熊、橋本左五郎、中川小十郎らと「十人会」を組織したということ。明治19年(1886年)、大学予備門は第一高等中学校に改称。その年、漱石は虫垂炎で進級試験が受けられず、是公とともに落第。そして江東義塾などの私立学校で教師をするなどで自活。以後、学業に励み、ほとんどの教科で首席、特に英語に優れていたということ。
1-5、漱石、正岡子規に出会う
明治22年(1889年)、漱石は同窓生で文学的にも人間的にも影響を受けた俳人正岡子規と出会う。きっかけは、子規が手がけた漢詩や俳句などの文集「七草集」が学友の間で回覧され、漱石が批評を巻末に漢文で書いたことからで、本格的な友情に発展。この時に初めて漱石という号を使ったそう。
同年9月、漱石は、房総半島の旅行を漢文で書いた「木屑録」の批評を子規に求めたりと、交流が深まったが、漱石の優れた漢文、漢詩に子規は驚いたということ。以後、子規との友情は漱石がイギリス留学中、明治35年(1902年)に子規が亡くなるまで続いたそう。
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