今日は元寇(げんこう)について勉強していきます。鎌倉時代の中期、世界ではモンゴル帝国が勢力を伸ばしており、高麗もモンゴル帝国に降伏、その支配領土は中国のみならずヨーロッパまで広げていった。

やがて侵略の矛先は日本にも向けられ、モンゴル帝国は高麗王国との連合軍という形で日本に攻めてきたのです。2度にわたるその侵攻を元寇と呼び、今回は元寇について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から元寇をわかりやすくまとめた。

モンゴル帝国・元の猛威

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日本との交流を決意した元の狙い

鎌倉時代の中期、日本のそばのユーラシア大陸では急速に勢力を拡大させている国がありました。それはチンギスハンが創設した国家であるモンゴル帝国で、「元」と呼ばれる国です。1259年、元は高麗を降伏させたことを機に領土をさらに広げていき、中国大陸のみならずヨーロッパまでも取り込み、まさに史上最大の言葉がふさわしい大帝国を築きました。

当時、元の皇帝だったのはチンギスハンの孫のフビライハンでしたが、帝国の官吏がフビライハンにある提案をします。その提案とは日本との交流を勧めるもので、実はこの官吏は高麗人であり、高麗は日本とこれまで使徒を送って交流してきたことをフビライハンに伝えたのです。

さてその頃、元はまた勢力を伸ばす戦いを繰り広げていました。その相手とは中国の王朝である南宋でしたが、元は南宋との戦いに苦戦しており、一向に決着がつかない状態が続いていたのです。そして、この状況を打破するためにフビライハンが考えたのが、官吏に提案された日本との交流でした。

迫る日本と元の戦い

フビライハンが聞いた情報によると現在戦闘中の南宋は日本とつながっており、そのため日本を支配化において元の属国にすれば南宋を孤立させられると目論んだのです。こうして、元は南宋攻略の目的で日本との交流を決意、フビライハンは1266年に初めて日本へ使徒を派遣、1268年に大宰府に使節団が到着、そして日本に対して元への服従を命じました。

一方の日本、この時日本は北条時宗が鎌倉幕府の執権に就任しており、彼はこれまでの元の侵略行為を知らされていたため、御家人達には元の襲来に備えるように命じます。さらに使節団に渡された手紙の内容を無視、使者をそのまま帰したことからも元の要求を拒否したのは明白でした。

1268年、フビライハンは日本侵略を正式に表明すると、そのためのルートを調査、日本に使者を繰り返し送ることで日本侵略の計画の準備を刻々と進めていったのです。そして、日本もまた元襲来に備えた準備を進めており、元と日本の戦いの時は間近に迫っていました

1274年・文永の役

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圧倒的な強さを見せる元軍

1274年の1月、フビライハンは日本侵略の計画のために船の建造を命じます。命じられたのは、戦いに敗れて今や元に服従することになった高麗で、船の建造のために動員された人数はおよそ35000人、さらに莫大な量の木材も使用して実に900隻もの大艦隊を準備したのです。

さらに30000人もの軍を率いた元は完成した大艦隊にて高麗を出発、日本侵略の計画をいよいよ実行にうつします。これに対して日本は鎌倉幕府が九州中心の武士を太宰府への集結させ、元軍が襲来してくるであろうと思われる沿岸には異国警固番役を設置するなどの対策をとりました。

1274年10月5日、元軍は対馬の小茂田浜に襲来しました。日本も対抗しますが元軍は非常に強く、島に上陸するとたちまち制圧されて領主は殺されてしまったのです。それは戦いというよりも殺戮に近く、多くの住民が殺された上に女性は盾にされ、捕まった子供達は労働させるためにフビライハンの娘に献上されました。

元軍の前に立ちはだかった日本の切り札・鎌倉武士

対馬に襲来して9日後の10月14日には、元軍は対馬に続いて壱岐島にも侵攻、壱岐の守護代が応戦しますがやはり敵わず元軍は対馬・壱岐をたやすく制圧しました。とうとう九州の博多にまで襲来した元軍ですが、日本もここから力を発揮して本格的な戦争が始まります。

日本軍は少弐景資を大将として元軍と戦闘、ただここでも元軍におされて後退を余儀なくされる日本軍でしたが、日本軍を太宰府まで追い込んだ元軍の前に立ちはだかったのが鎌倉武士でした。鎌倉武士の強さは元軍が想像していた以上のものであり、そのため元軍もリーダー格が負傷したことで撤退したのです。

こうして多くの犠牲を出しながらも元軍を追い払った日本軍……この戦いを文永の役と呼びます。ちなみに、当初文永の役では「神風と呼ばれる暴風雨によって元軍が撤退した」とされていましたが、気象学的なデータや当時の書物などから判断して台風が起こった形跡がなく、現在では「元軍は日本軍に苦戦したことで撤退した」との見解です。

1281年・弘安の役

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再びの戦いに備える日本と元

元軍が撤退したことで日本を守ったと思いきや、再び日本に姿を見せたのは元からの使者でした。元もまた一度の失敗ごときで日本侵略を諦めておらず、そのため前回と同じ日本に対して服従を要求してきたのです。当然拒否する執権・北条時宗、しかも今度は元の使者をその場で殺害するほどの態度をとりました。

そんな北条時宗の態度はまさに元に対する宣戦布告、フビライハンは使者を殺害した日本に怒り、日本侵略の計画を再び立てたのです。また、1279年には文永の役以前から戦っていた南宋との決着がようやくつき、元はこの戦いに勝利して南宋も支配下に置きました

そして1281年、今度こそ日本侵略を成功させようとするフビライハンは10万人以上もの大軍で戦いに臨みます。さらに侵攻部隊を対馬・壱岐から博多へと進軍する東路軍、東路軍と壱岐で合流する江南軍に分けて日本を攻める計画を立てました。こうして綿密な計画を立てた元でしたが、日本もまた黙っていたわけではありません。

弘安の役のはじまり

一度元と戦った日本は、それを教訓に二度目の戦いに備えていました。その策の一つが防塁と呼ばれるもので、総長20キロメートル、高さ2メートルの土塁や石塁を平行線に築いて元軍の攻撃を防ごうとします。一方の元軍、侵攻部隊を東路軍と江南軍に分けていましたが、元軍と高麗軍の連合軍が東路軍、支配した南宋の軍が江南軍です。

1281年5月、いよいよ日本と元の決着をつける戦いが始まります。対馬に上陸した元軍は日本軍の攻撃を受けつつも壱岐に襲来、壱岐は元軍によって占領されてしまいました。ただ日本軍の反撃もすさまじく、博多湾に上陸しようとした元軍はそれを諦めて志賀島へと上陸、ここでもまた日本軍は総攻撃を行い、元軍を破って日本軍が勝利をおさめたのです。

この時日本軍と戦っていた元軍は東路軍であり、兵力では後に合流予定だった江南軍が圧倒的に勝っていました。そのため東路軍は江南軍の到着を待って反撃の機会を伺っていましたが、肝心の江南軍はなかなかあらわれず、日本軍の激しい総攻撃を耐えるしかない状態が続きます。そんな中、東路軍に江南軍到着の朗報が入りました

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元寇の決着

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台風で壊滅的ダメージを受けた元軍

日本軍に苦戦する東路軍にとって、江南軍の到着は待望の知らせだったでしょう。これで東路軍は江南軍と合流、圧倒的な兵力でこれから日本軍を討伐しようとしたその時、元軍を襲ったのは大きな台風でした。台風の時期である7月に攻めたことが災いし、吹き荒れる神風が元軍の軍船を沈めます

思えば元軍の軍船は短期間で作らせたもの……大きな台風の神風を受けてはひとたまりもないでしょう。そのため元軍の軍船の多くが沈没、もちろん軍船に乗っていた兵士も犠牲となり、台風によって船も兵士も失った元軍にもはや勝機はなく、そこで元軍はやむを得ず撤退を決意しました。

一方、日本軍にとってこの状況は勝機であり、撤退する元軍を見逃すはずがなく、伊万里湾にいた元軍に対して総攻撃を仕掛けます。この時、先陣を切ったのは肥後の御家人である竹崎季長で、竹崎季長は伊万里湾に残る元軍の軍船を次から次へと残らず追い払っていったのです。

弘安の役の終わりと元寇の意味

伊万里湾にある鷹島には、未だ10万人近くの元軍の兵士が取り残されており、彼らは自力で船を作って自分の国に帰ろうとしましたが、これもまた日本軍に見つかって総攻撃を受けます。こうして10万人以上の元軍の大軍勢は日本軍に敗北、生き残った兵士達も捕虜となり、戦いは日本の勝利で終わりました

実に2度にもわたって行われた元による日本侵攻、1274年の文永の役と1281年の弘安の役、これらを合わせて元寇と呼びます。つまり、元寇とは「元(モンゴル帝国)が2度にわたって行った日本侵略のこと」で、その2度との戦いとは「1274年・文永の役と1281年・弘安の役」です。

ちなみに、文永の役では台風によって元軍が撤退したことは現在間違いとされていますが、弘安の役では本当に台風が起こったとされており、元軍の軍船はそのほとんどが沈没してそれが敗因にもなっています。さて、恐ろしい元の軍団に勝利して日本は平和になったかのように思われましたが、元寇は日本国内に悪い影響をもたらしました

元寇の影響・鎌倉幕府の衰退

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御恩を得られない御家人の不満

元寇で勝利した日本ですが、鎌倉幕府に対した高まったのは支持ではなく不満でした。と言うのも、鎌倉幕府がこれまで支持されていたのは「御恩と奉公」の仕組みによるもので、下の者は上の者の為に働き(奉公)、上の者は働いた下の者に利益(御恩)を与える主従関係を確立していたのです。

具体的には、戦いで奉公した御家人に御恩として土地を与えていたのですが、元寇においてはそれが叶いませんでした。この御恩と奉公は国内の戦いを前提として作られたもので、本来これは勝者に対して敗者の土地を与えるのが当時の仕組みだったのです。しかし、元寇で戦った敵は元の軍勢であり、日本国内の敵ではありません。

そのため勝利しても御家人には一切の利益が与えられず、現代の表現を用いるなら「タダ働き」です。むしろ御家人は元寇での戦いにかかった費用の方が高くついてしまい、御恩を得るどころか借金を作ることになってしまいました。このため、御恩と奉公が守られていないという理由で人々の鎌倉幕府への不満が高まったのです。

高まる倒幕ムードと滅亡に向かう鎌倉幕府

不満が高まっていることを知った幕府は、その解消策として借金を帳消しにする法令となる永仁の徳政令を打ち出しますが、これもまた失敗に終わります。借金を帳消しにすることでひとまず御家人の不満は多少解消されましたが、今度は御家人にお金を貸していた商人の不満を招いてしまったのです

そのため商人は御家人にお金を貸さなくなり、お金が手に入らなくなった御家人は貧困に陥る……こうなると結果的に御家人の不満をさらに高め、そして商人の不満も解消することはできません。やがて幕府に反発する御家人が各地で増え始め、この動きは多くの反幕府派を生むことになりました。

こうして高まる倒幕ムード、鎌倉幕府は次第に衰退していき、最後は朝廷の後醍醐天皇を中心とした倒幕派によって滅ぼされてしまいます。最も、それは1333年とまだ先のことですが、元寇の影響で起こった幕府に対する人々の不満が鎌倉幕府滅亡の大きな要因の一つであることには違いありません。

文永の役と弘安の役を確実に区別しよう

元寇は複雑な人物などがないため、比較的覚えやすいのではないでしょうか。最も間違いやすいのは、基本ですが文永の役と弘安の役の区別であり、文永の役が先で弘安の役が後だとしっかり覚えておきましょう。

また、紛らわしいのが台風による元軍の撤退の事実です。今では台風はなかったとされていますが、それは文永の役のみの話であり、弘安の役では台風によって元軍が崩壊した事実は変わりません。

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日本史歴史鎌倉時代

最強モンゴル帝国による日本侵略の危機!「元寇」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は元寇(げんこう)について勉強していきます。鎌倉時代の中期、世界ではモンゴル帝国が勢力を伸ばしており、高麗もモンゴル帝国に降伏、その支配領土は中国のみならずヨーロッパまで広げていった。

やがて侵略の矛先は日本にも向けられ、モンゴル帝国は高麗王国との連合軍という形で日本に攻めてきたのです。2度にわたるその侵攻を元寇と呼び、今回は元寇について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から元寇をわかりやすくまとめた。

モンゴル帝国・元の猛威

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日本との交流を決意した元の狙い

鎌倉時代の中期、日本のそばのユーラシア大陸では急速に勢力を拡大させている国がありました。それはチンギスハンが創設した国家であるモンゴル帝国で、「元」と呼ばれる国です。1259年、元は高麗を降伏させたことを機に領土をさらに広げていき、中国大陸のみならずヨーロッパまでも取り込み、まさに史上最大の言葉がふさわしい大帝国を築きました。

当時、元の皇帝だったのはチンギスハンの孫のフビライハンでしたが、帝国の官吏がフビライハンにある提案をします。その提案とは日本との交流を勧めるもので、実はこの官吏は高麗人であり、高麗は日本とこれまで使徒を送って交流してきたことをフビライハンに伝えたのです。

さてその頃、元はまた勢力を伸ばす戦いを繰り広げていました。その相手とは中国の王朝である南宋でしたが、元は南宋との戦いに苦戦しており、一向に決着がつかない状態が続いていたのです。そして、この状況を打破するためにフビライハンが考えたのが、官吏に提案された日本との交流でした。

迫る日本と元の戦い

フビライハンが聞いた情報によると現在戦闘中の南宋は日本とつながっており、そのため日本を支配化において元の属国にすれば南宋を孤立させられると目論んだのです。こうして、元は南宋攻略の目的で日本との交流を決意、フビライハンは1266年に初めて日本へ使徒を派遣、1268年に大宰府に使節団が到着、そして日本に対して元への服従を命じました。

一方の日本、この時日本は北条時宗が鎌倉幕府の執権に就任しており、彼はこれまでの元の侵略行為を知らされていたため、御家人達には元の襲来に備えるように命じます。さらに使節団に渡された手紙の内容を無視、使者をそのまま帰したことからも元の要求を拒否したのは明白でした。

1268年、フビライハンは日本侵略を正式に表明すると、そのためのルートを調査、日本に使者を繰り返し送ることで日本侵略の計画の準備を刻々と進めていったのです。そして、日本もまた元襲来に備えた準備を進めており、元と日本の戦いの時は間近に迫っていました

1274年・文永の役

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