大正日本史明治歴史

千円札と偉人伝でお馴染み「野口英世」意外な一面もある医学博士について歴女がわかりやすく解説

3-2、英世、デンマークに留学して血清学の研究を

明治36年(1903年)10月、英世はフレクスナー博士の指示で、デンマーク、コペンハーゲンの血清研究所に留学。血清学の研究を続けて物理学者アーレニウス・マドセンと連名で論文を執筆。翌年アメリカに戻り、設立されたばかりのロックフェラー医学研究所に移籍。尚、その翌年には血脇が婚約持参金300円を斉藤家に返済、英世は斉藤ます子との婚約を破棄。

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ちょっと待て、これって結婚詐欺にならないか、あぶないぞ。

3-3、英世、梅毒スピロヘータの研究で一躍有名に

1911年(明治44年)8月、英世は「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表、世界の医学界に名を知られることに。英世は京都帝国大学病理学教室に論文を提出、医学博士の学位を授与。

大正2年(1913年)には、梅毒スピロヘータを進行性麻痺、脊髄癆の患者の脳病理組織において確認、この病気が梅毒の進行した形と証明。英世は生理疾患と精神疾患の同質性を初めて示したそう。英世はまた小児麻痺の病原体を特定、狂犬病の病原体特定などの成果を発表したが、後年小児麻痺、狂犬病の病原体特定は否定。

現在では、病原性梅毒スピロヘータの純粋培養は追試に成功した者がいないうえに、継代培養された野口株は病原性を失ってしまっているので、純粋培養の成功は現代ではほぼ否定されているということ。

英世がもっとも熱心に取り組み、成果をあげた研究は梅毒で、梅毒はスピロヘータ・パリダ、らせん形の微生物が病因となって肉体の接触で感染する性病。病原体はこの頃にはすでに発見されて有効治療薬サルバルサンも開発済み。が、梅毒の進行によって脳や神経の組織が破壊されて精神障害が起こる病状を「麻痺性痴呆(ちほう)」「脊ずい癆(ろう)」と言い、当時はこれが梅毒の一種であるとは知られていなかったそう。英世は患者の組織を顕微鏡で調べて梅毒スピロヘータを発見、病因を突き止めることに。

3-4、英世は実践的な研究派

英世は、論文の研究ではなくて徹底的に実験を行う実践派で、膨大な実験から得られるデータ収集を重視し、想定された実験パターンを完璧に実行したうえに作業は驚異的なスピードと正確さで行われたということで、睡眠時間が3時間ということもあり、アメリカでは英世は、実験マシーンとか人間発電機と言われたり、日本人は睡眠をとらないと誤解されたりも。

今では当時とは比べ物にならない精度の高い電子顕微鏡などの最新機器が使われていること、医学は日進月歩であるので、英世の発見した病原体は現在は否定されていたりするのですが、英世の顕微鏡観察による病理学、血清学的研究は評価が高いそう。

3-5、英世、ノーベル医学賞候補となり日本へ凱旋

大正3年(1914年)4月英世は東京大学より理学博士の学位を授与、またこの年の7月、ロックフェラー医学研究所正員に昇進、そしてノーベル医学賞候補に。受賞はしなかったが、3度候補になっています。

大正4年(1915年)、9月に英世は15年振りに帰国して年老いた母と再会。帝国学士院より恩賜賞を授与。ワイル病スピロヘータを発見した稲田龍吉、井戸泰の研究や伊東徹太のワイル病スピロヘータの純粋培養に関する研究を視察、恩師の小林栄と血脇守之助、古くからの親友の八子弥壽平には懐中時計を贈ったそう。

また母、小林先生と一緒に三重、大阪、京都などを講演旅行した後に11月4日に離日、これが英世の最後の帰国に。

3-6、英世、黄熱病の病原体発見のために南米へ

大正7年(1918年)6月に英世は、ロックフェラー財団に、ワクチンのなかった黄熱病の病原体発見のため、黄熱病大流行中のエクアドルへ派遣されることに。英世は患者の症状がワイル病に酷似していたことで、試験的にワイル病病原体培養法を適用、9日ほど後に病原体特定に成功してレプトスピラ・イクテロイデスと命名。

この結果をもとに開発した野口ワクチンで、南米での黄熱病が収束し、英世はエクアドル軍の名誉大佐に任命され、3度目のノーベル医学賞の候補にも

英世は梅毒と類似のスピロヘータの一種が原因だと発表したが、現在は黄熱病と似た病状をあらわすワイル氏病の病原体で、黄熱病ととりちがえた結果とみなされているということ。

英世はその後もメキシコやペルーに派遣され、黄熱病の研究と撲滅に携わったり、ジャマイカの「熱帯病会議」で鞭毛虫研究、黄熱病研究の発表を行い、キューバの研究医アグラモンテに、黄熱病病原体とされているイクテロイデスはワイル病病原体と菌株が違うだけではと指摘を受け、会議後にアグラモンテを招いて研究結果を見せて説得を試みたりしたそう。

3-7、英世、黄熱病の研究でアフリカへ

昭和2年(1927年)英世はトラコーマ病原体を発表、ただし、後年クラミジアが発見され否定。そしてロックフェラー医学研究所のラゴス本部で黄熱病研究を継続していたストークス博士が黄熱病で9月に死亡を受けて、英世は10月に アフリカへ黄熱病研究のため出張。11月にはイギリス領ゴールド・コースト(現・ガーナ)のアクラ到着。

しかしロックフェラー医学研究所ラゴス本部では、黄熱病の野口説に否定的見解を抱く研究者が多かったので、イギリス植民局医学研究所病理学者のヤング博士がロックフェラーの組織外の研究施設を貸与してくれて研究開始。

現地ではすでに黄熱病が収束していたためもあり、病原体がすぐ入手できなかったが、12月にウエンチ村で黄熱病らしき疫病が発生したとの報告を受けて英世は血液を採取に向かったということ。昭和3年(1928年)、1月2日に英世は軽い黄熱病と自己診断して入院したが、別の医師にアメーバ赤痢と診断され、この時は黄熱病ではなかっただろうということ。1月7日に回復して退院、研究を再開、3月末にはフレクスナーにイクテロイデスとは異なる黄熱病病原体をほぼ特定できたと電報を。そして秘書への手紙には、濾過性微生物(ウイルス)が病原だとそれまでの自説を否定したということ。

5月13日に黄熱病と診断されて、アクラの病院に入院。見舞いに来たヤング博士に、「君は大丈夫か?」と尋ねた後に、英世は「どうも私には分からない」と発言したが、この言葉が最後の言葉。5月21日に51歳で死去。


英世の死後、血液をサルに接種したところ黄熱病を発症、英世の死因が黄熱病と確認。6月15日アメリカ、ニューヨークのウッドローン墓地に埋葬。

黄熱病の研究は英世の死後すすみ、1930年代に黄熱病のワクチンが完成、電子顕微鏡の開発が進んだ1950年代になってやっとウイルスが確認されたということ。

英世は。平成16年(2004年)から発行の日本銀行券のE号千円札の肖像に採用。

4-1、英世の逸話

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By Eclipse2009投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, Link

趣味は浪花節、将棋、囲碁、油絵だったなど、子供用の伝記本にない逸話があります。

4-2、伝記と違う英世の両親

英世の伝記では、父の佐代助は酒好きの怠け者で、野口家の貧困の原因みたいに思われているようですが、本人は悪人ではなく、性格的には人好きで好印象だったそう。そして英世が恩師や友人たちに対して、再三多額の負債をお願いして借金の天才と呼ばれたことは、良くも悪くも父から受け継いだ才能だということ。英世が、酒好き放蕩好きな浪費家のエピソードは、子供向けの伝記ではスルーされることに。

また英世の母シカは、農作業の傍らで副業として助産婦に。明治32年(1899年)、助産婦の開業について、政府が新しい免許制度を創設、全ての助産婦に免許取得が義務付けられたのですが、シカは文字の読み書きができないため近所の寺の住職に頼み読み書きを教えてもらって国家試験に合格。生涯に2000件近くの出産に貢献したということ。

4-3、英世のパトロン血脇守之助

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By 不明http://www.tdc.ac.jp/chiwaki/, パブリック・ドメイン, Link

英世は、研究に没頭すると大変な集中力を発揮して結果を出しましたが、上京以来、金が入れば遊郭で豪遊して朝帰りという放蕩者で、金欠になると借金を繰り返していたそう。その英世を見捨てずに支えていたのが血脇でした。周囲の人は呆れて英世を悪く言うと、血脇は、「英世は稀代の天才だから、型にはめると天分を損ねる」と言ってたしなめたほど。

アメリカへの渡航費用だった血脇からの借金と斎藤ます子の婚約持参金を、英世が渡米前日に検疫所の同僚たちと一緒に送別会と称して遊郭でどんちゃん騒ぎをして一晩で使い切り、血脇に泣きついたときも、血脇は生まれて初めて高利貸しから300円を借りて用立て、斎藤ます子と破談になった後に、婚約持参金の300円を返金しています。(尚、英世は34歳で、同い年のアメリカ人女性メリー・ダージスと結婚。妻との間に子供はなく、時期は不明だが英世の姉イヌの長男を養子にし、夫人は英世の死後も福島の義姉に仕送りを欠かさなかったということ)

この血脇は、英世のわずか6歳年上ですが、後に東京歯科大学の創立者のひとりとなり、日本歯科医師会長に。大正11年(1922年)、血脇らが欧米を視察したとき、アメリカで英世と再会、英世は恩義を忘れず守之助を最大限に歓待、38日間の守之助の滞米中つきっきりで、ハーディング大統領の表敬訪問までセッティングしたよう。血脇は、「これで君に対する世話は帳消し」と言ったところ英世は「私は日本人です。恩義を忘れてはいません。それに恩義に帳消しはありません。昔のままに清作と呼び捨てにして下さい」と応えたということ。

英世は、大正12年の関東大震災で血脇の東京歯科医学専門学校がほとんど焼失したとき、「高雅学風撤千古」(高雅で気高い学風は、決して失われることはなく、永遠に続くであろう)の書を送り激励、英世の死に際しては、東京歯科医学専門学校を挙げて追悼会で業績をたたえたそう。また野口英世記念館の設立に尽力も。

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うむ、これはいい話だな、借金は返さなかったが、恩は忘れず返したんだな。

欠点も含めた英世の実像は、大人にも勇気と希望を与えそう

野口英世は、小さい頃の障害や貧しさを乗り越え、才能を発揮して医学の道に進み、当時としては大変な業績をおさめました。しかしその人並み以上の努力、才能、仕事ぶりがクローズアップされて子供たちのお手本とされるばかりで、野心家で放蕩者で借金のほうも天才的で、世渡り上手だったことを隠してはいけないでしょう。

英世は人間離れした情熱を持った研究者ではあったが、欠点も多く、しかしそれをカバーしてくれる人々がいて成功につながったということ。なぜか必ず助けてくれる人がいた、道を開いてくれる人に不思議に出会った、特別な才能と魅力も持っていた英世の話は、大人たちにも元気をくれる、自分もがんばろうという希望を与えるのでは。

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