2-3、英世、臨床医をあきらめ研究者に
明治30年(1897年)、英世は左手の障害で臨床試験に必須の打診ができないので、血脇の計らいで帝国大学外科学助教授近藤次繁に左手の無償再手術を受けて打診が可能になり、10月の後期試験にも一発合格、21歳で医師免許を取得。
しかし医師免許は取得したものの開業資金がなく、左手を患者に見られたくないと臨床医を断念、基礎医学研究者の道を歩むことに。血脇の計らいで高山高等歯科医学院の講師を務める他、順天堂医院で助手として「順天堂医事研究会雑誌」の編集の仕事に携わったということ。
2-4、英世、北里博士の伝染病研究所に務める
明治31年(1898年)10月、英世は順天堂(現在の順天堂大学医学部)の上司の雑誌編纂主任菅野に頼み込んで、順天堂医院長佐藤進の紹介という形で、世界的に著名な北里柴三郎博士が所長を務める伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に勤めることに。ここでの英世は研究ではなく、語学の能力を買われて外国図書係として、外国論文の抄録、外人相手の通訳や研究所外の人間との交渉を担当。
2-5、英世、小説を読んでショックを受けて改名
英世は知人からすすめられ、坪内逍遥(しょうよう)の流行小説「当世書生気質」を読んだところ、「弁舌を弄し借金を重ねつつ自堕落な生活を送る登場人物・野々口精作」が彼の名前の野口清作に似ていたことでショックを受けたそう。
英世自身も借金を繰り返して遊郭などに出入りする悪癖があり小説のモデルと邪推されては困ると改名を決意。郷里の小林先生に相談して、世にすぐれるという意味の新しい名前「英世」に。尚、戸籍名の変更は法的に難しいので、英世は別の集落に住んでいた清作という名前の人物に頼み込み、自分の生家の近所の別の野口家へ養子に入ってもらって、第二の野口清作を意図的に作り出し、「同一集落に野口清作という名前の人間が2人居るのは紛らわしい」と主張して、戸籍名を改名することに成功。
2-5、英世、サイモン・フレクスナー博士に出会う
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明治32年(1899年)4月、英世は伝染病研究所渉外係として、アメリカから志賀潔の赤痢研究視察に来日したサイモン・フレクスナー博士の案内役を任され、フレクスナー博士に渡米留学の可能性を打診。翌年5月にもフレクスナー博士宛にアメリカ留学を希望する手紙を出したということ。
2-6、英世、横浜港検疫所でペスト患者を発見
明治32年(1899年)5月に、伝染病研究所の蔵書が英世経由で貸し出された後に売却されるという事件が発覚し、英世はこの事件を理由に研究所内勤務から外されて、北里所長の計らいで横浜港検疫所検疫官補になったのですが、6月に横浜港に入港した亜米利加丸の船内でペスト患者を発見診断したということ。
そして10月には検疫官補の仕事ぶりが認められて、清国でのペスト対策として北里伝染病研究所に内務省から要請のあった国際防疫班に選任されたそう。しかし支度金96円を放蕩で使い果たし、資金を血脇に工面してもらって渡航。清国では牛荘を中心に一般的な病気の治療担当に。半年の任期終了後、国際衛生局、ロシア衛生隊の要請で残留。
英世は国際的な業務を体験、またこの時期は大変な高給に恵まれたのにまたもや放蕩で使い果たしたため、念願のアメリカ渡航のための資金を貯めるまでにいかず。
3-1、英世、アメリカで研究生活に
By 不明 – 野口英世記念館, パブリック・ドメイン, Link
明治33年(1900年)6月 には義和団の乱が勃発して清国の社会情勢が悪化したので、英世は7月に帰国、福島県に帰郷して小林先生に留学資金をおねだりするも、「いつまでも他人の金に頼るな」と諭されて拒否。再び神田東京歯科医学院(芝より移転した元・高山高等歯科医学院)の講師に戻ったということ。
そして12月5日に英世は箱根の温泉地で知り合った斉藤文雄の姪で医師を志す女学生の斉藤ます子と婚約を取り付けて、婚約持参金を渡航費に当てて、アメリカへ渡航。北里博士の紹介状を頼りに、フレクスナー博士のもとでペンシルベニア大学医学部での助手の職を得たということ。
ここでは蛇毒の研究というテーマを与えられて、研究の成果を論文にまとめたところ、フレクスナーの上司で同大学の理事であったサイラス・ミッチェル博士からも絶賛され、英世の名は一躍アメリカ医学界に知られることに。
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